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若者よアーティストを目指してください!
ロスト・ジェネレーション・フォトグラフィー展


2011年開催のAsaianPhotArts展のDM
若い人にとって自分の能力を最大限に発揮して自己実現できるアーティストは憧れだと思う。世の中の大多数の人は、交換可能な誰にでもできる仕事を我慢しながら続けている。構造的な不況が長引く中、自分を殺しながら続ける仕事すら既得権化しているという。いま多くの若者は極端に現実的でアーティストを夢見るどころではないという意見も聞く。アーティストを目指す人が少なくなると、優れた才能が現れる確率はどんどん減少していく。活気のない業界が更に沈滞するだろう。個人的には、若い人は自信過剰であって、ある程度リスクをとって欲しいと思う。
私はアーティストとして社会に認められることがすべてではないと思う。アーティストは世の中と能動的に対峙する生き方のことだと理解している。サラリーマンを続けながらアーティストの精神を併せ持つことも可能だと考えている。 
この厳しい環境下、ある程度経験がある年長者はアーティストを目指す若者たちを確信犯で応援しなければばらないと思う。業界が長い人は自分なりの考えを持っている。それに同調する人だけを応援することが多い。それは若手支援ではなく、自分の支配できる若者を増やそうとする行為だろう。理想的には若い人たちが中心になって活動を行い、その中から優れた才能が育っていくことだろう。しかし、経験と実績がない人たちが集まってもどうしても自己満足か、けんか別れで終わることが多い。経験者と新人がうまく噛みあって協力できればより効果的に活動ができるはずだ。

Asian Photo Artsはヴィジュアル表現でアーティストを目指す若者たちの緩い集まりだ。日本人だけではなく、韓国人、ロシア人も参加している。写真家だけではなくデザイナーなど、クリエイティブな仕事を行っている人たちがいる。緩い集まりのいいところはグループが外に開いているということ。これはとても好ましい。アーティストは独立していないといけない。しかし、お互いが精神的に独立していればグループでの活動には様々なメリットがある。 私は上記の理由からこのグループの活動をお手伝いしている。彼らは昨年に続き今秋に広尾のインスタイル・フォトグラフィー・センターでグループ展を開催予定だ。メンバーの入れ替わりがあり、今回新たな参加者を募集している。やはり周りの意見を受け入れずに自分のエゴを通そうという人がメンバーから離れていったようだ。若い時の作品展示は、自分のメッセージと社会とのギャップを見つけることが目的だと思う。そして問題点を改善して自作にフィード・バックすることが重要なのだ。オーディエンスのリアルな反応を取り込むことで作品の完成度が上がっていく。自分の考えに固執するオール・オア・ナッシングの人は、アーティストとしてメッセージではなく、アーティストというエゴの幻想を追っているだけなのだ。私は若者に自分の将来の可能性に対して、悲観するよりは多少自信過剰になって欲しいと考えている。
今秋のグループ展は特にAsian Photo Artsのカラーを出す目的ではなく、アーティストを目指す若い人の展示と理解している。年齢上限は40歳なので、今年の春に行った「エマージング・フォフォグラフィー・アーティスト」の若者版にあたると考えている。私として自分が良いと思う方法で写真を選んで展示するだけの自己満足のグループ展にはしてほしくない。内容レベルはともかく、アート作品として必要十分条件だけはクリアして欲しい。そのために、それぞれの参加者のポートフォリオの問題点は厳格に指摘するつもりだ。結果的にアートとして要件を持った作品作りに協力していきたい。作品評価は最終的にオーディエンスが行えばよいと思う。

社会変化を作品テーマに取り込む
現状認識の次に未来を提示できるか?

Blog 
(C)Terri Weifenbach /RAM

テリー・ワイフェンバックの新作は中間層の没落を意識した作品だ。その社会的状況については専門家が様々な解説を行っている。個人的には、サラリーマンの経験から次のように理解している。
私の新入社員時の仕事は事務が中心だった。コンピューターは存在したが、大型の企業向けのものでデータの入力や情報検索も仕事の一部だった。当時の事務はかなり複雑。それをこなすのには熟練が必要で会社ごとに人材を育成するのが一般的だった。それは工場の労働者も全く同じ構図だったと思う。それゆえ、当時のサラリーマンは長期雇用と年功序列をもとに安定した生活を享受出来た。これがいわゆる中間層。中流も同じ意味だ。いま思い返すと驚くべきことだが、当時の労働者は時間を企業に売っているという感覚があった。自由時間には消費で自分らしさを追求できると本当に信じていた。いまの中国はそんな感じなのだろう。
その後、資本主義がニューエコノミー、いわゆるポスト工業社会へと移っていく。労働者をとりまく環境が変化するわけだ。それは国境を越えて資本や人材が移動する、グローバル経済であり、インターネットやパソコンが普及する高度情報化社会の到来なのだ。社会とともに消費者も変化する、それまでの一元的な大量消費、大量生産から、より多様で個性的な生産と消費が主流になる。生産は、機械化、IT化が進み、労働コストの安い場所へとシフト。結果的に一般商品の販売価格は下がり続けることとなった。先進国では、それまで中間層が担っていた業務が減少。仕事は、新しい価値を生み出すものと、定型的な単純労働へと二分されるようになった。 しかし、いままでの中間層は誰でもが創造できる労働者になれるわけではない。多くは貧困層へと没落していったのだ。
この世界経済の大きな流れは1980年代に米英で始まった。そして90年代後半から2000年以降には日本社会も巻き込まれることになる。構造改革を目指した小泉改革はその流れを推し進める試みだった。米英社会が日本の未来図とすると、日本の中間層没落はまだ始まったばかりだろう。

さて写真家は常に社会の変化を作品テーマとして取り上げる存在だ。欧米では、上記変化をテーマにした作家が数多くいる。私の知る範囲でも、全米に広がるロードサイドのモールやショップなどのドキュメントを通して消費社会の変化を問うジェフ・ブロウスや、ブライアン・ウールリッチがすぐに思い浮かぶ。この変化をより世界的に俯瞰的にとらえているのがアンドレアス・グルスキー。彼はグルーバル経済の進行と最新の消費の現場をテーマにしている。その影響を南欧に見出すのがエドガー・マーティンス。彼はその後、米国の住宅サブプライム・ローンをテーマにした"This Is Not a House"を発表している。オリボ・バルビエリも自然観光のツーリズムを消費の一環としてとらえている。広く解釈すると、ワイフェンバックの新作もこの流れの延長上にあるといえる。

このテーマに取り組む写真家の多くは、社会変化の現状認識とその提示で終わっている場合が多い。はたしてワイフェンバックはその先になにかを伝えようとしているのだろうか。私の気になるのは、軽くないテーマに反して作品群が明るくて心地よいことだ。このギャップは何なんだろうか。彼女はフォーカスが一点に合い周辺がぼやけているスタイルで、一貫して自然を取り込んだ写真を撮影し続けている。本作でもそのスタンスが不動だ。私はこれが明るい庭での瞑想に近いと感じている。その行為は目を半開きにするので彼女の写真のような雰囲気になる。瞑想は過去や未来に囚われている自分を現在に取り戻す行為。私はそこに、いまこの時間に集中すること、そして自然の一部としての人間が強く意識されていると感じる。何らかの理念に囚われるよりも、その方が自由な精神で社会生活を送れるという見立てではないか。理念とは、たぶんアメリカン・ドリームであり、宗教だと思う。アーティストとして、資源を消費して経済成長を続けるいままでのシステムに限界を感じていることもあるだろう。本作では彼女の一貫して発していたメッセージがより明確になったと感じている。

中間層の没落でアメリカが何を失ったのか?
テリー・ワイフェンバックの新作
「Between Maple and Chestnut」

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(C)Terri Weifenbach /RAM

来週の23日(水)より米国人写真家テリー・ワイフェンバック(Terri Weifenbach)の新作写真展「Between Maple and Chestnut」を開催する。彼女の個展は、「Lana」、「Another Summer」についで3回目だ。本来は連休明けに開始予定だった。Nazraeli Pressのこだわりの写真集制作が遅れスタートが5月下旬にずれ込んだ。素晴らしい出来栄えの写真集も無事に到着、現在展示の最終準備を行っている。

彼女の作品の多くは自宅のあるワシントンD.C.郊外の裏庭、公園周辺で撮影されている。撮影対象も、空、花、木、昆虫、木葉、小枝、草などが中心。ピンボケ画面の中にシャープにピントがあった部分が存在する、何か夢の中のような瞑想感が漂うイメージで知られている。様々な焦点距離のイメージが普通のシーンを魅力的にする。写真によっては草や飛んでいる昆虫にフォーカス。身の回りのありきたりのシーンも決して静止しているのではなく、風や昆虫たちの動き、光の変化で、まるで万華鏡のように常に変化している様子を表現している。しかし、彼女は自然を美化した作品を目指すロマンチストではない。あくまでリアリストの視点で自然を観察して自分なりのアプローチで作品に仕立てている。欧米ではナン・ゴールディンと同様のアプローチの作家だと評価されている。つまり誰でもが共感できる日常生活の一部を観察し、まるで写真日記のように抽出しているということ。ゴールディンは個人的で性的体験に向かっている一方で、ワイフェンバックは自分の周りの自然風景に向かっているのだ。

彼女のいままでの作品は、時代との接点がややわかり難いものだった。それが、前回の「Another Summer」あたりから社会の価値観変化を意識したものになってきた。新作も米国社会が経験している中間層の没落という大きなテーマが意識されている。本作タイトルに含まれる「メイプル」と「チェスナット」の名前が冠されたストリートは、かつて米国全土で見られたありふれた光景だった。それは新しい生活を始める中流アメリカ人の郊外生活の象徴でもあったという。私はビル・オーエンスが1972年に発表した写真集「Suburbia」(郊外)(Straight Arro Books刊)を思い出す。同書は戦後の米国消費社会の頂点の時期をとらえた貴重なドキュメント作品。ここには、写真と住民たちのコメントを通して郊外生活を満喫する中間層の幸せな気分が表現されている。消費生活を楽しんでいる住民たちのコメントと現実を忠実に写す写真とに皮肉っぽいギャップがみられるところも興味深い。家、家具、電気製品、クルマ、ペットなどのモノに囲まれて幸せそうにしているこの時代のアメリカ人のポートレート、家族写真は、消費での自己実現に目覚めた80年代の日本人、そしていまの中国人と重なってくる。

しかし21世紀の米国では、かつての田舎風の家に、木々が生い茂り、緑の芝の庭が広がるような郊外シーンはほとんど見られなくなった。特に90年代以降、新自由主義的な経済が浸透し、中間層が急激に没落していった一方で、古い不動産が修繕されて状況は様変わりした。
本作にワイフェンバックが取り組んだきっかけは、彼女が友人の新しい家を探している途中に行き止まりの道に迷い込んだことだった。そこは自動車が通ることもなく、外の世界の影響から完全に隔たれた孤島のような場所で、50年代以降の郊外の雰囲気や歴史を残していた。彼女は古き良き時代の気分を感じるその地を約1年半に渡って撮影。やがて住民たちは年老いたかつて中間層世代ではなく、若い富裕層家族に移り変わっていることを発見するのだ。
ワイフェンバックが今回撮影した新しい「メイプル」と「チェスナット」は、裕福な若い世代が住む場所に変わっていた。しかしこれは変化の断片でしかないのだ。いま全米では、かつて中間層が住んでいた場所で様々な変化が起きている。
本作で、彼女はただ古き良き時代の残り香を現在に紡ぎだしたのではない。テーマに取り上げているのは、中間層の没落によりアメリカが何を失ったかを問うことなのだ。彼女は、一種の希望である純真さをアメリカはなくしたと述べている。それは、誰でも成功のチャンスがあるというアメリカン・ドリームがもはや存在しないという意味なのだろう。
本作には光り輝く、美しい郊外の写真が数多く収録されている。しかし、いまやそれらは普通の情景ではない。きれいで何気ないシーンの背景に、アメリカ社会の変化をとらえた作家の冷徹なリアリストの視点があるのだ。

「Imperfect Vision(侘び・ポジティブな視点)」
写真展の見どころ・注目点

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21世紀に入ってからの日本アート界で目だったのは、クールジャパンを標榜する現代アート作家たちの活躍だった。そのなかでも特に村上隆の追求していたテーマにはかなり共感できるところがあった。大衆芸術の浮世絵、マンガ、アニメ、ゲームを日本美術史の流れのなかで的確に分析した上で、自作の過去とのつながりを明らかにし、ポジションを論理付けした点はすごいと思った。 
素朴な興味として、同じような展開がアート写真分野でも出来ないだろうかと感じていた。欧米の価値観で評価された写真ではない、現代日本人がリアリティーを感じる写真の追求は私のライフワークのひとつになっている。

インスタイル・フォトグラフィー・センターで現在開催中の「Imperfect Vision」はその一環ともいえる写真展だ。
もともとは、ギャラリーの写真展企画時に接するポートフォリオやワークショップ参加者の写真に、旅、癒し、自然、瞑想などをテーマにするものが多いと気付いたのがきっかけだった。それらの背景に禅思想や日本の伝統的な美意識が感じられた。日本人なのだから当たり前と言えばその通り。しかしそれらが目立つ背景には社会的な状況が影響している気がした。つまり、ポスト産業社会の到来、経済のグローバル化、新自由主義的な考え方の浸透。 それにより、多くの人が過度な競争の中での生き残りが求められ、心身ともに疲労困憊しているという状況だ。
癒し、旅行、ナチュラリスト、瞑想、カワイイなどは経済優先社会のアンチテーゼとして多くの人に愛でられるようになったようだ。その前提は疲れた心身を、旅行して自然の中で過ごしたり、瞑想したり、アートに触れることなどで元気になり、また競争社会に戻って頑張るということだった。 作家にとっても、上記テーマの作品制作は癒しの行為でもあったと思う。これはグローバルな現象で、杉本博司や村上隆が欧米で評価された背景にも同様な構図があったのだと思う。

そして2008年、米国でリーマンショックが発生したことで状況は一変するわけだ。経済成長という前提が崩れ去ったことでアンチも存在基盤が揺らぐことになる。
最初は何をやっても駄目だというような諦めの気分が支配的になっていた。しかし、開き直っていられるのはある程度余裕がある人だ。膨大な財政赤字、人口減少と低成長時代の到来。リアリティーを突き詰めると多くの日本人、特に若い世代にもはやそんな余裕は残っていない。
そのなかで一部の人たちが、諦めだけでは何も生まない、現状を認めたうえでポジティブに生きることを目指し始めた。頑張る一方で諦めを持つような生き方だ。自分のアイデンティティー探しの過程で、同様のアート表現に行きつく写真家も散見されるようになってきた。ここに私は、ネガティブな状況をポジティブにとらえる侘びの精神のようなものを感じたのだ。伝統的な美意識とのつながりがあるだけに、日本人の生きるよりどころになる可能性があるかもしれないという予感だ。

注目したいのは70年代以降に生まれた若手写真家二人だ。

Blog2 
地現葉子は2種類の作品を展示している。
「植物園」では、人工環境の中で生かされている草木を現代人に置き換えて、現実は厳しく未来は決して明るくないという一種冷徹な現状認識を提示している。最新作の「空」では抽象的に表現された鳥のイメージで、そのような厳しい状況でも、 飛ばなければ何も起きない、行動を起こそうというネガティブをポジティブにとらえる姿勢が見られる。同世代の悩み苦しみを作品で見事に代弁していると思う。

Blog3 
下元直樹は東北出身。「取り残された記憶」シリーズを出品している。これは東北の寂れた漁村を撮影したドキュメント作品。朽ち果て、錆びた漁村に残る住宅、店舗、倉庫、工場跡の壁面のクローズアップに美を見出している。グリッド状に展示されたタイポロジー的作品はカラフルでポップな色彩で非常に美しい。 アーロン・シスキンのカラー版のようにも見える。彼の展示からは、ネガティブな環境の中でもポジティブな視点を見出す日本的な精神を感じる。

アート写真鑑賞方
感動との出会いを求めて

Blog

目黒のインテリア・ストリート近くに移転してきてから10年を超えた。
最近はギャラリーの写真展に来る人が多様になってきた印象がある。以前は圧倒的に写真関係者が多かった。カメラマン、アシスタント、デザイナー、学生、カメラ趣味の人などだ。それが最近は、美術館などの展覧会に行くような一般の人がギャラリーにも来てくれるようになった。企画によっては、週末に50名超える来廊者がある。なかには写真を買ってみたいとお客様の方から声をかけてくれることもある。

ギャラリーにいるときは来廊者の動きを観察している。時間があれば鑑賞の手ほどきをするようにしているが、来客数が多いとなかなか対応しきれない。最近は定期的にフロア・レクチャーを開催している。
私たちは作品を売る商業ギャラリーなので、鑑賞目的の人は相手にしないと思われがちだ。しかし顧客が作品に心が動かされ、作家の視点を理解しない限り販売にはつながらない。来廊者が写真展に感動し楽しんでくれることは非常に重要なのだ。そのような人が将来のコレクターに育っていく。

作品を鑑賞する時、まず心で感じるべきか、頭で理解感すべきかは議論が別れるところだろう。脳科学では、人間は心、つまり感情で良い悪いの判断をしているという。これを写真に置き換えると、いくらコンセプトやイメージが優れていても感情が反応しない作品は良くないということだ。アート写真を鑑賞する時、まずは何も情報なしで見ることをすすめている。そして、自分の感情に何か訴えるものがあるなら、作家やキュレーターのメッセージを読んでみればよい。何かを感じた作品は、視点の明確化とともに更に気に入る可能性がある。しかし、何も感じない写真は文章を読んでもあまり興味は湧きあがらないだろう。
現代アート系の写真作品を制作する若手の中にはこの点を勘違いしている人が多い。自分が良いと考えるテーマが人の心をとらえると思い込んでしまうのだ。感動が希薄なアイデア中心の写真作品は壁紙と同じになってしまうリスクが伴う。同じように、写真イメージやプリント・クオリティーだけの作品も、ただきれいな高品位印刷のポスターと同じようになってしまうかもしれない。

さて以上を意識して能動的に写真展を鑑賞しても作品の評価軸が見えてこない場合があるかもしれない。特に最近は写真作品でもアイデアやコンセプト重視の現代アートの一部となっている。 見る側の考える力、ある程度の情報量も作品理解には必要なのだ。作品のオリジナリティーは写真史とのつながりで語られることも多い。歴史を勉強しないと、評価の前提の知識不足から作品が理解できないこともあるのだ。1冊の本の価値を知るためには、それ以前の知識の蓄積が不可欠なのと同じことだろう。

実はここがアート鑑賞の面白さでもある。つまりアート体験を重ね、知識を増やすほどにその価値が分かるようになるということ。最初は気付かなかった視点が発見でき、より広い考え方が出来るようになる。アート経験を通じて人間として成長できるのだ。それは自分なりの作品評価の基準が持てること。作品価格の正当性が判断できるようになるのだ。アート鑑賞は、一生をかけて楽しむことができる高度な知的遊戯なのだ。

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