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19−20

アサヒカメラの90年 第19回
新しい写真家と古いカメラ

価値の多様化

時代とともに多様化している写真表現の動向をどう位置づけ、評価するのか、その選択はいつも本誌にとって難問である。ことに木村伊兵衛写真賞(以降、木村賞)の選考ではたびたび議論になるのだが、1994(平成6)年ほど、それが表面化した例は少ないはずだ。

このとき選考にあたったのは長野重一、篠山紀信、高梨豊、奈良原一高、そして本誌編集長の藤沢正実の5人。最終選考には森村泰昌の『着せかえ人間第1号』(小学館)、佐藤時啓の展示「artscope’93」、豊原康久の写真集『Street』(mole)の3作家が残り、激しい議論のすえ、道行く都会の女性たちをスナップした豊原の秀作に決まった。佐藤や森村はすでに実績があり、ことにCGを使用してマイケル・ジャクソンやマドンナを装った森村作品は美術家が写真を利用したものとする意見が強かったようだ。

選考にあたっての葛藤は、同年4月号掲載の選評に表れている。ことに森村を推した、奈良原と篠山の選評は憤りに満ちたものだった。奈良原は「新人とは未知なる世界をひっさげて現れる人のことである。そのような広い意味での輝きを讃えるのか、若者への祝いの花束にとどまるのか」と疑問を投げかけ、今回の結果は当世流行の「リストラとかダウンサイジングという言葉を思い出す」と皮肉ったのである。

一方、篠山はより率直に反発する。「ならばこの作品は写真以外の表現で成立しただろうか」と問いかけ、「これほどまでに写真にこだわる純度が高く、写真によって自己を語ることの欲望の質量の大きい作品行為」に自分は驚きを覚えるとした。そして、多様化した写真表現を評価できない賞の、選考委員の任期が終わることに安堵を覚えると文を結ぶ。だが、じっさいは抗議の辞任だったから、この一件は写真界でも波紋を広げた。

写真表現の多様化で頭を悩ませたのは、美術と写真の境界をめぐっての評価だけではない。写真のメカニズムが自動化し、誰にでも手軽に写真が撮れるようになったことで、これまでにない新しいタイプの写真家たちが現れ始めていたからだ。しかも、写真家たちがデビューし活躍するメディアもまた、それまでと変化していた。

ときどきの話題の写真について率直に語りあう「フォト・ウオッチング」は、60年代から続く情報欄の名物コーナーだった。93年のレギュラーを務めたのは写真評論家の平木収で、11月号のゲストには飯沢耕太郎が招かれている。席上、飯沢は最近の若い写真家の作品について「小ぎれいにまとまっているやつが多くて、かなり生理的な嫌悪感が先にくるという感じ」がするといい、「ちょっともう一回、ほんとうに生なまの世界を見ろ」と不満を漏らしている。飯沢は3年前に季刊写真雑誌「デジャ=ヴュ」(フォトプラネット)を創刊しており、編集部には「コマーシャル系の小ぎれいな写真というのが山のように」持ち込まれていたのだった。

たしかに同誌では「ファッション特集」(2号)も組まれたが、「荒木経惟」(4号)や荒木、ナン・ゴールディン、島尾伸三をフィーチャーした「私生活」(9号)、あるいは「牛腸茂雄」(8号)など、写真表現における私性を切り口にした特集にこそ、評論家飯沢の本領が発揮されていた。

飯沢はまた、若手写真家を対象にした公募展の審査も務め、新しい写真家の胎動を目にしていた。「デジャ=ヴュ」誌とキヤノンが提携して91年に募集を開始した「写真新世紀」と、リクルートのメセナ(文化支援事業)ギャラリーであるガーディアン・ガーデンが翌92年に立ち上げた「写真『ひとつぼ展』」(現・「写真『1_WALL』」)である。

飯沢のいう「ほんとうに生(なま)の世界」を見つめる写真家の多くは、このふたつを含め、90年代前半に始まる公募展からデビューしている。たとえば渋谷パルコでは89年から写真評論家の高橋周平のディレクションによる「期待される若手写真家20人展」(93年まで)が始まり、さらに92年には以前からあった美術とグラフィックの公募展を統合した「アーバナート」がスタート。その第2回に審査員をつとめた荒木経惟の推挙でパルコ賞に選出されたのが、武蔵野美術大学に通う長島有里枝の、自身と家族のヌードを撮った「セルフポートレートII」である。

こうした公募展のキーマンはやはり荒木だった。アーバナートの資料には、荒木の審査によって写真作品の応募が増えたとあり、また写真新世紀の審査員としてはそれ以上の影響を応募者に与えていた。

私写真家を標榜し性生活さえ題材とする荒木の態度は、若い世代に写真表現の自由さを示していた。また同様の理由からアメリカのナン・ゴールディンも支持されていた。彼女が“拡大家族”と呼ぶ、自身を含めた性的マイノリティーたちの親密なコミュニティーをとらえた作品は、写真による自己開示がもたらす可能性を語っていた。

94年にはその二人の共同プロジェクトとして、東京の若者たちを撮る「TOKYO LOVE」が企画され、写真展と写真集で発表された。荒木は若者たちの顔を率直に見つめ、ゴールディンはクラブなどにたむろする彼らに寄り添うように撮っている。その一部は同年11月号の本誌グラビアに掲載され、本企画のクリエイティブ・ディレクターである後藤繁雄による制作過程のルポが、ホンマタカシの写真とともに寄せられている。

後藤によれば、ゴールディンは来日してから毎日のように若者たちを取材し、長島ともよく行動をともにしていたとある。ゴールディンにとって、それは「“自分”と関係ある人を」求めるためであり、この作品に日本の若い世代に対するエールを込めたと語っている。

「今回の作品は日本の若い子たちが気に入ってくれ、例えば私の写真に励まされて、ゲイだとカムアウトしたり、いろいろな生き方が許されているんだということに気づくといい」

翌12月号のフォト・ウオッチングでは、この年のレギュラーの柳本尚規とゲストの佐野山寛太が本作を別の角度から検討している。佐野山は、写された若者たちの表情から、彼らが本能的に「自分たちの未来が決して明るいものではなさそうだということ」を見て取り、柳本は連続すべき世代の間に「大きな断絶」を読み取ったのだった。

女の子写真」を超えて

ことに公募展で目立っていたのは、長島をはじめとする20歳前後の女性たちだった。

たとえば「写真新世紀」の第1回から5回までのグランプリをみると、ヒロミックス(現・HIROMIX 第4回)、野口里佳(第5回)という、木村賞の受賞者を含む、4人が女性。また「写真『ひとつぼ展』」では野口のほか、やはり後に木村賞を受賞する蜷川実花(第7回)や川内倫子(第9回)らがグランプリを獲得している。

こうした女性写真家の作品の傾向には、親密な友人のヌードやセルフポートレートなどが多数みられた。また色彩の鮮烈さや、それが強調されるカラーコピーを使うなどの特徴もあった。それは写真が手軽な自己表現の手段になっていたことを示すと同時に、見られる立場として男性写真家に撮られ続けてきた若い女性たちが、見る側に立ったことを物語っていた。つまり男性優位の写真界の在り方への問い直しを含んでいた。だが、男性誌などでは、当時問題になっていた少女たちの性の商品化と、安易に結びつけられることも少なくなかった。

そんな彼女たちの同時代性に着目し「女の子写真」や「ガーリーフォト」といわれるブームのけん引役となったのがカルチャー雑誌、ことに「STUDIOVOICE」(インファス)における「シャッター&ラブ」(95年8月号)、「ヒロミックスが好き」(96年3月号)といった特集だった。前者のタイトルは、飯沢の監修で96年に出版された16人の女性写真家のアンソロジー写真集としても使用され、ブームを表すキーワードともなった。また、彼女らに活躍の場を提供したのが「ROCKIN' ON JAPAN」(ロッキング・オン)などの音楽雑誌だった。

本誌はやや遠くから女性写真家たちの活躍を眺めていたが、95年7月号のヌード特集でその作品を初めてグラビアで紹介した。「親密な身体:20代女性作家の作品から」で木村友紀、蜷川、長島、中野愛子が掲載され、解説として布施英利が「獲得された新しいまなざし」を寄せた。

布施は彼女らの作品にはナルシシズムと「自分を突き放し、オブジェ化し見つめるという態度」が同居することを評価しつつ、「このようなまなざしを獲得したら、あとは撮るのはセルフヌードでなくても別によい」とさらなる成長を促している。また編集後記には担当の崔麻砂が、彼女たちが「いつまで自然体でいられるかが勝負かも」と記している。

可能性に注目しつつも、商品として消費されてしまうことを危ぶむ声はフォト・ウオッチングにも見られる。たとえば96年4月号では横浜美術館の学芸員だった倉石信乃がヒロミックスについて、流行として消費された後も自らの意思で撮り続けてほしいと語っている。そのとき、はじめて「その作品がアートになる」からだ。また同年11月号で長野重一は、写真は必ずしも上手である必要はない表現であり、彼女たちのある種の乱暴さが素朴な共感を呼んでいると分析。ただし、それだけに「ただ、うまくなったらだめになっちゃう人がほとんどだろうと思う」と予測した。

彼女たちを遠くから見ている本誌を批判したのは、97年10月号のゲスト、音楽評論家の渋谷陽一だった。ロッキング・オンの社長でもある彼は、同社の雑誌「H」や「CUT」でも若い写真家を積極的に登用していただけに、「カメラマンの選択についても非常に保守的」だと指摘する。さらに他誌のレイアウトさえ大所高所から批判するのに、作品が「何かこの雑誌に収まると、写真がすごく昭和30年代化する」とも厳しく突いた。

また渋谷は自社の雑誌で活躍する写真家、ヒロミックス、長島、蜷川について次のように語っている。同社から写真集『girls blue』(96年)と『光』(97年)を出したヒロミックスには「いまひたすら走っている状態で、このまま走り続けて大丈夫なのか」と配慮を見せ、その才能に瞠目した長島が95年に渡米していたことを惜しみつつ「これから相当なことをやってくれる」のではと期待を寄せた。そして蜷川の、自身のスタイルを打ち出すために「高いハードルを自覚的に越え」ている努力を高く評価している。わずか3年ほど前に登場した新しい女性写真家たちは、すでにそれぞれの道を歩み出していたのだった。

「クラカメ」ブーム

端的にいえば本誌で女性写真家たちの登場が少ないのは、読者がそれを求めなかったからである。カメラ雑誌の主たる購買層である中高年男性にとって、リアリティーや共感性で成り立つ「女の子写真」は縁遠い。そんな読者層から大きな支持を集めたのはメカニズム記事、ことにライカやコンタックスを中心とする、クラシックカメラやレンズについての企画だった。

その背景には、マイクロチップによってカメラのメカニズムが極度まで自動化され、製品として高いレベルで均一性を保つようになったことがある。それは日本のカメラ業界の大きな成果だが、機械的な個性や面白みなど、趣味性の喪失でもあった。

だがクラシックカメラにはそれぞれユニークなアイデアと機械的造形性があり、個体によっても味わいが違う。そこにモノづくりの面白さや、写真に対する作り手の思想さえ見いだすことができたのだ。しかもその面白さはプロやアマチュア、あるいは世代や職業を超えて共有されうるものだった。

クラシックカメラの人気は、まず91年4月号の「ライカ特集」あたりから顕著になり、92年にはブームとしてはっきり認識された。94年には本誌編集部による『広告にみる国産カメラの歴史』が、92〜93年には増刊号『カメラの系譜郷愁のアンティークカメラ』が出され、後者は発売1カ月でほぼ完売した。さらに97年には、史料性の高い酒井修一の『ライカとその時代』も本誌編集部の手によって刊行されている。

この間、連載も年を追うごとに充実し、96年には「現代クラカメ最前線」というコーナーにまとめられている。そのうち長期連載となったのが「大竹省二のレンズ観相学」(95〜2008年)、や、美術家の赤瀬川原平(96〜2015年)の「こんなカメラに触りたい」などである。

さらに、深みのあるクラシックカメラ論を積極的に展開しつつ、優れた実作を提供したのは田中長徳、田村彰、飯田鉄、築地仁、赤城耕一などの写真家たちだった。写真とカメラの機能をよく理解していた彼らの仕事は、クラシックカメラにとどまらず、銀塩カメラ全般についての新しい価値基準や歴史観をつくったといえる。

古いカメラに対する愛着が語られる一方で、山田久美夫らによる新しい写真システムについてのリポートのボリュームも増えていった。新規格のAPSや、数十万画素程度ながら実用的なデジタルカメラが登場し、写真の見せ方もCD-ROM写真集とともにインターネットが活用され始めていたのだ。

その変革は最初ゆっくりとしたものだったが、やがて本誌の在り方を左右するものへと成長していくのである。

アサヒカメラの90年 第20回
デジタル化の波のなかで

カメラ市場の成熟

1990年代の長引く不況は、出版界にも大きな影を落としていた。全国出版協会の統計によると、雑誌全体の売り上げは97(平成9)年をピークとして下降に転じている。出版不況が進み、これまで写真家にとって良質の発表媒体だったグラフ誌も姿を消し始めた。2000年に「アサヒグラフ」(朝日新聞社)と「太陽」(平凡社)が姿を消したのだ。

だが本誌の業績は一見すると好調であった。それは物理的な厚さに表れていて、99年1月号で過去最高の418ページを記録、00年7月号には462ページにもなったのである。この好調を支えていたのはメカニズム記事の充実と広告の増加である。

この時期、高級カメラブームが頂点に達していた。誌面では90年代前半からのクラシックカメラ特集に加え、国産の銘機に対する再評価的な記事やカメラ史の読み直しがかなりの頻度とボリュームで掲載され続けている。たとえば98年5月号の「ニコンカメラの半世紀」から始まる「ミノルタの70年」(同年11月号)、「キヤノン一眼レフの40年」(99年6月号)など、「国産カメラの黄金時代」を振り返るシリーズが好評だった。

カメラメーカーもこうした流れに敏感に応えた。写りのよさと機能的でクラシカルなデザイン性を持つ、趣味性の高い機種を相次いで市場に投入し、高級カメラブームをいっそう盛り上げた。それは、おもに二つの系統に代表される。

ひとつは明るい単焦点レンズを備えた高級コンパクトカメラ。コンタックスの“T”シリーズ、コニカの“ヘキサー”、ミノルタの“TC-1”、リコーの“GR”シリーズなどである。これらは比較的手の届きやすい価格設定がなされ、若い世代のカメラファンをも引きつけた。

もうひとつの系統は、レンズ交換が可能なレンジファインダー機の復活である。コシナによるフォクトレンダーブランドの“ベッサ”シリーズ、コニカの“ヘキサーR F”、富士フイルムの“TX-1”、京セラのコンタックス“G”シリーズ、また個人企業の安原製作所が“安原一式”を発表したことも話題となった。加えて01年は“0型ライカ”の、00年と02年にはニコンS3の限定復刻などもマニア心をくすぐった。

それらの記事と作例を最も精力的に担ったのは赤城耕一である。広範なカメラ知識と実作者としての経験から、製品に対する実用的な注文を交えたそのリポートは、本誌読者の指針となりつつあった。

その赤城は、99年12月号の特集「1999年 ベストバイ機種を選ぶ」の座談会でこの年を「レンジファインダー復活元年」だったと語る。機能にばかり走りすぎる日本のカメラのなかでこそ、趣味性の高いこれらの機種はある位置を占めると予測したのだ。

一方、デジタルカメラに詳しい山田久美夫は、それを世紀末的展開と言う。いまや「こだわりを持つ人しかカメラに高い金を出さなくなった」なかで、レンジファインダー機の投入はメーカーにとっても「安全パイ」ではないかと指摘した。つまり高級化路線はカメラ市場の縮小期における過渡的な流行といえ、市場の成熟とその限界を示すものと見ていた。

確かに、銀塩カメラの技術はもはや高度に完成していた。製品的にも飽和状態で、発展の余地は少なくなっていた。単焦点の高級コンパクトカメラもレンジファインダー機も日本以外ではヒットせず、将来的な活路はデジタル化しかなかったのだ。

座談会において山田は、翌年からは「完璧にこっちが主流になる」と自信を持って発言しているが、じっさい02年にはデジタルカメラは出荷台数で銀塩を追い抜いたのだ。

IT革命

銀塩からデジタルへの置き換えは不可避としても、それがどの程度、どれほどの速度で進むのかについて、明確な見通しを持つことは難しかった。それは01年8月号の特集「ペンタックスはどこへゆく」に如実に表れている。

旭光学工業は、コンパクトから中判までのラインアップを持ち、売り上げの60%を占めるなどカメラ事業への依存度が高かった。この年はそれが落ち込み、事業所の閉鎖や生産拠点の集約化を決定。80(昭和55)年に発売された、ロングセラーのPENTAXLXの製造中止も発表した。

特集では、同社のカメラ事業部長大倉善市が、那和秀峻のインタビューに答え、フィリップス社製35ミリ判フルサイズの600万画素CCDを使った一眼レフを開発中だが、相当高額な製品になると語っている。コンシューマー向けの製品が多い旭光学工業にとって、それは「正直言ってマーケティングという意味では想像がつかない」ものだった。

この取材の数カ月後に同社は開発の中止を告知し、同センサーを使った初のフルサイズ一眼レフは、02年に京セラから80万円で販売されたCONTAXNDIGITALになる。旭光学工業は、コンパクト機のデジタル化路線を進めていく。

プロ用の機材に関しては、キヤノンとニコンという、資力も技術もある2大メーカーがリードした。キヤノンは98年にEOS D2000(200万画素)を、ニコンは99年にニコンD1(266万画素)を発売。価格は先に発売された前者が198万円に対して、後者は65万円と低く抑えられている。デジタルカメラの価格競争も激しさを増していた。

こうしたハイエンド機の登場で、報道の世界のデジタル化は加速度的に進んだ。その現状は、00年7月号の特集「デジタル報道写真最前線朝日新聞写真部員に密着取材」で赤城が紹介している。新聞社の写真部ではいまやこの両機をメイン機材として、撮影したデータをパソコンに取り込みPHSから送信するのが一般的で、銀塩カメラは記録用のフォローとして使用する程度しか担っていないという内容だった。デジタルカメラの標準化で、新聞はテレビに勝るとも劣らない速報性を持った、と赤城は書いている。

ただ、速報性の比較対象自体がすでに変わり始めていたようだ。この年は、日本政府が「e-Japan構想」を発表し、高速インターネット網の整備を急速に進めていた。いわゆる「IT革命」の真っただ中で、従来のマスコミはポータルサイトや検索エンジン、あるいは企業や個人のさまざまなホームページと競合する状況が生まれつつあった。本誌の情報欄では、それととともに写真ビジネスの形態さえ変わりつつあることも報じている。

たとえば00年11月号では「ネットで展開している大規模な写真流通と自衛策を講じる写真家」という題で、アメリカの大手ストックフォトエージェンシーであるゲッティイメージズとコービスがインターネット上で安価に写真を流通させ、フリーの写真家の脅威となり始めたと伝えている。そして記事の筆者は次のように警告した。

「日本のカメラマンも過当競争の請負業者としてではなく、またアーティストや職人としてでもなく、写真家という仕事をビジネスとしてとらえなおす必要があるのではないか」

こうしたデジタルカメラとデジタルネットワークに関するニュースで、本誌に掲載されていなかったものがある。それは00年にJ-フォン(現ソフトバンク)からシャープ製「J-SHO4」が発売されたこと。この携帯電話には初めて静止画用のカメラが搭載され、「写メール」のセールスコピーで大ヒット商品となったのだった。ここから始まる携帯電話の搭載カメラの標準化こそ、カメラ市場を大きく変えていく要因となった。

ネイチャーフォトの見直し

メカニズム記事が誌面での主役となるなかで、グラビアでもっとも活発な展開をみせたのが自然をテーマにする写真家たちだった。彼らの作品に共通したのは、多様な生命と環境の有機的なつながりを視覚的に把握しようとする姿勢といえるだろう。

各号単発で発表される作品のほか、今森光彦の「生命の庭園」(96〜98年)、岩合光昭の「あっ。」(99〜00年)と「青の一枚」(01年)、宮崎学の「フクロウ谷どっとこむ宮崎学の列島自然報告」(01〜04年)などが連載。

さらに長期にわたり、断続的に発表されるシリーズも充実をみせた。竹内敏信の「飛花落葉」(97〜98年)、モノクロで海中の諸相をとらえた中村征夫の「ニッポン海流」(93〜03年)、俯瞰的な視座から自然をみつめた水越武の「日本列島生態系地図」(95〜98年)と「真昼の星を求めて」(99〜00年)などである。

何度か触れてきたように、ネイチャーフォトを支持してきたのもまた、本誌の中心的読者である中高年層だった。そんなアマチュアの成長を促そうとしたのが宮嶋康彦だった。宮嶋は98年の連載「2001年の自然写真」と翌年の「2001年の花鳥風月」で“新しい風景写真への提言”を試み、ネイチャーフォトの見直しを提唱した。

まず「2001年の自然写真」の冒頭で、いま自然をテーマにした写真が硬直化し行き詰まっていると指摘。その責任は「人工物の写った写真は自然写真にあらず」としてきたメディアにあり、こうした言説と「個性を欠いた『お手本写真』」の氾濫が、本来の個性的な写真を目指す面白みを奪った。重要なのは、自身の体験に基づいた自然観からテーマを見いだすことだと説いている。そして、宮嶋は「自然写真についてのまとまった論考がない」(98年12月号)として、翌年の「2001年の花鳥風月」につなげている。

その初回、宮嶋は現在の自然写真は、琳派や狩野派などの古典的な日本画が表す自然の描写、つまり理想としての「花鳥風月」に由来すると位置づけ、これを実践して風景写真ブームの起点をつくったのは前田真三だとしている。この連載では前田へのインタビューも含めその業績を再検証することが意図されていたが、それはかなわなかった。偶然にもこの号で前田の死去が報じられたからである。

続く2月号では、宮嶋と竹内の「番外対談」が企画された。人工物を画面から排する竹内とそれを含めて自らの自然写真とする宮嶋は、この風景写真ブームが、中高年世代の「自分探し」だとする点では、意見を同じくした。リタイアした後、いったい自分の人生はなんだったのかと問いながら自然と向きあう、そんな読者が多数とみたのだ。

以降の連載で、宮嶋は自身の体験と古典などを引用しつつ、日本人の自然観には固有の環境に育まれた死生観が投影されていると説いている。それは人生経験を経てきた中高年の「自分探し」に対する、ヒントだった。

新鋭写真家たちの戦略性

中高年に支持される企画が大半を占めるなか、新しい表現の動向を示すのはおもに木村伊兵衛写真賞(以下、木村賞)の役割となったようだ。本誌で作品が発表された経験のない写真家が唐突に受賞するケースが目立ち始めてくる。

その理由のひとつに、候補者が増加したことが挙げられる。この頃、若手写真家の数が増えて活動も活発化していた。その傾向がはっきりするのは98年からで、前年から20人も増えて、45人もの写真家がノミネートされている。

この年に受賞した都築響一も、本誌で作品が掲載されたことはない。受賞作品は、日本各地に点在する奇妙な観光地を取材した、週刊誌での連載をまとめた『ROADSIDEJAPAN 珍日本紀行』(アスペクト)である。都築は奇妙な風景はアートっぽくなりやすいが、自分はジャーナリズムの視線に徹し、それを極力排してきたと語っている。まさにその姿勢が評価の決め手となった。

この年の、最終候補は笠井爾示、金村修、都築、ホンマタカシの4人で、審査員の選評を読むと、このうちホンマが最有力候補とみなされていたことがわかる。

ホンマが、郊外を撮影したシリーズをまとめた『TOKYOSUBURBIA 東京郊外』(光琳社出版)でその期待に応えたのは翌99年だった。印象的なのは、このときの受賞の言葉のなかで「撮影したかった(表現ではない)のは『郊外的な距離感』」というもので、「『あたしのことを分かって! 分かって! 病』でも『自分探しの旅』でもオブセッションでもありません」と述べたのは印象的である。ちなみに、これより以前、97年5月号「フォト・ウオッチング」に登場したさい、「日本でいい写真と言われるのは関係性とかが熱い写真なんですよね。僕はそういうの、ぜんぜん合わない」とも語っていた。

ホンマの作品について、選考委員の高梨豊は「写真に発生する『意味』の分節であり、象徴化を阻止する作業」という知的な戦略だと見た。同じく藤原新也は、その戦略性を、超資本主義社会にのみ込まれて“家畜化”しないために必要な「武装」だとした。

対象との関係性によらず記号性を慎重に避けて知的に対象を見るという態度は、ホンマだけでなく、当時40歳前後の男性写真家の傾向といえた。木村賞でいえば97年の畠山直哉もそう評し得るからだ。

2000年前後の本誌の読者が求めたのは、カメラや写真を通じた「自分探し」だった。それだけに、戦略的な思考で世界の在り方を描写しようと試みる若手写真家たちの出番は、少なくならざるを得なかったといえるだろう。
 

16−18

アサヒカメラの90年 第16回
「感性の時代」の写真雑誌へ

写真雑誌の危機感

1986(昭和61)年4月号で、本誌は創刊60年を迎えたが、それは心から喜べる還暦ではなかった。前号で触れたように部数の低下に苦しんでいたからで、その一因は、誌面づくりと読者のニーズとの齟齬(そご)にもあった。

同号の創刊記念特集に大辻清司が寄稿した「スタンダードな写真雑誌」は、本誌の戸惑いを端的に述べている。大辻は、かつての「アサヒカメラ」は写真ファンにとって中立公平で「円熟した教科書」だったが、いまやその役割は果たせなくなったとする。なぜなら写真表現が多様化し、「啓蒙や指導性は出る幕がなくなった」からだ。

表現の多様化は、これより2年前、84年の第9回木村伊兵衛写真賞(以下、木村賞)の「該当者なし」という結果にも表れていた。木村伊兵衛の没後10年にあたるこの年は、過去最多の31人が候補者として推薦されたが、ノミネーターからの最多の回答が「該当者なし」だったのだ。

4月号の選評によれば、それでも4人の選考委員(安部公房、石元泰博、渡辺義雄、相沢啓三編集長)は桑原史成「非武装地帯」、須田一成「関東風譚」、英隆「巴里神話」の3人に絞っている。だがいずれも決め手に欠けていた。しかも、めずらしく選考委員から、各作品への「批判的な見解が進んで表明された」のだった。

翌85年4月から編集長に就いた藤田雄三は、かつて本誌に在籍していただけに、その低迷ぶりに戸惑いを受けたという。

「久しぶりに古巣に戻ったとき写真界から聞かされたのは、一時期の誌面に対する『わからない』『暗い』という指摘、包み隠さずいえば非難の集中砲火であった。だれのための何のための雑誌だろう」(「朝日新聞出版局史」) さらに着任と同時に「カメラ毎日」(毎日新聞社)が4月号で廃刊したことも危機感を増大させた。同誌は60年代から写真表現の動向をリードしてきたが、本誌以上に深刻な部数減に陥っていた。さらに発行元の毎日新聞社自体が経営難で、その再建のために休刊が決まったのだった。このできごとは写真界に衝撃を与え、写真雑誌の在り方が議論された。

本誌85年5月号の座談会「話題の写真」では、三木淳が、写真雑誌には写真芸術を大切にする「ピクトリアル・ジャーナリズム」と「写真の普及」というふたつの方向性があると述べている。ただ前者の需要は少なく「写真界の底辺であるアマチュア」を開拓しなければ写真界自体が消滅するから、レベルを下げ「ホビー・マガジン」に立ち返ることを提案した。

とはいえ半世紀以上も写真家の重要な作品発表の場であり続け、写真界の芥川賞と呼ばれる木村賞を主催する本誌が、「ホビー・マガジン」に特化できるだろうか。

冒頭に挙げた大辻の文は、それでも「いまだ未熟を自覚する若い写真家のために、何事か応じる方策が必要なこともまた確かではないだろうか」という問いかけで結ばれている。それは編集長の藤田もまた感じていたことだった。

「写ルンです」の風景

「カメラ毎日」最終号の座談会レポート「眼の出来事」には、西井一夫編集長の、同誌廃刊は「カメラ雑誌」という文化現象が終わっていく先駆けだ、との発言が紹介されている。根拠は「一時代昔には、記念写真から芸術写真まで頂点を形成する価値体系があったが、今は写真は一つのメディアとして全く別の価値体系を持っている」からだ。

それは自動化される写真技術とその日常生活との密着から生まれた、写真メディアの新しい展開を指している。この展開はまだポルノチックな投稿写真誌のレベルにとどまっているが、やがてコミュニケーションと高度な表現の境界さえあいまいにさせていくだろう。

こうした流れをさらに加速させるカメラが、このころ相次いで登場した。その筆頭が、85年2月にミノルタから発売されたAF一眼レフカメラ「α−7000」で、まさに全自動カメラの名に値する製品だった。本誌では、まず3月号の「新製品テスト速報」で玉田勇が取り上げ、「このカメラを手にしたときのインパクトを、恐らく、生涯忘れることはないだろう」と書いた。4月号の「ニューフェース診断室」では「家庭の奥さんや初心者を対象に開発されている」が、じつはスポーツカメラマン向きともいえる性能を備えており「文句なしに、面白い一眼レフが誕生した」と絶賛している。

商業的にもα−7000は大成功を収め、7月号では、発売以来売り切れが続き「不況のカメラ業界をひさびさに活気づけた」と報じられている。本機の登場を皮切りに、翌86年にはニコンF−501、オリンパスOM−707、京セラ230−AF、87年にはキヤノンEOS−650などの新機種が発表され、メーカー間の競争は「AF戦争」とも称された。

とはいえ、カメラ市場の本当の主役はAF一眼レフではなく、安価だが十分な性能をもったコンパクトカメラに移っていた。それは84年に総出荷金額で一眼レフを追い越し、86年には1.5倍に、国内に限定すれば2.8倍にまで拡大していたのだ。

コンパクトカメラ以上に写真を身近にしたのは、86年7月に富士写真フイルム(現・富士フイルム)から発売された“レ
ンズ付きフィルム”「写ルンです」だった。小さな110フィルムを使用した24コマの使い切り、シャッター速度は100分の1秒でレンズはF11の固定焦点という簡素なスペック。用途は出張時の記録や子どもの遠足と運動会などが想定された。だがネーミングのよさもあって大ヒット商品となり、翌年には35ミリ判の「写ルンですHi」やフラッシュ付きが発売され、以降も多くのバリエーションが作られていく。

コンパクトカメラや「写ルンです」のヒットは若い女性層を含む、新しい写真ファンをつくるきっかけとなった。それは気軽な自己表現と友人間のコミュニケーションとしての新しい写真文化、西井の言う別の価値体系を育てる土壌となるのである。

また同時期には、磁気ディスクにアナログの画像データを記録する電子スチルカメラも誌面で話題になっている。電子カメラの嚆矢(こうし)は81年に発表されたソニーの試作機「マビカ」だが、市販されたのは86年7月発売のキヤノン「RC701」である。富士写真フイルム、小西六などのカメラメーカーのほか、カシオ、松下電器、シャープなどの電機メーカーも製品システムを発表したが、市場の反応は芳しくなかった。

この点について、87年8月号の「電子スチル写真の展望」で研究者の斎藤光範がふたつの理由を指摘した。それは30万前後の画素数では銀塩写真と比べてプリント時の画質が落ちること、そしてなにより「この写真システムを何に使用したらよいか」が誰にもわかっていないことである。後者の問題への回答は、まる10年後のインターネットの普及開始によってようやく出され、「全く別の価値体系」もさらに発展していくことになる。

軽さの美」という感性

前年から選考委員も代わって、85年の第10回木村賞には田原桂一の写真集『TAHARAKEIICHI1973−1983』 (G.I.P)が満場一致で選出された。78年の選考では「写真が絵画的な美術に近づきすぎる」 (岡井輝雄)とされた田原だが、さらに表現の幅も広がり、肖像や建築などのテーマでも実績をつくっていた。この受賞に対して編集長の相沢は「彼の目によって無機物も一つの感0性0の表象となる」 (4月号、傍点筆者)と賛辞を贈っ ている。「感性」という言葉は、時代や場に漂う空気や気分を直観的に表現するセンスを指す。80年代なかばに登場する若い写真家には、この「感性」を重視する傾向が多くみられた。

翌86年、最年少の27歳で同賞を受賞した三好和義はまさにその代表といえた。受賞作の『RAKUEN』 (小学館)はインド洋のモルディブやセーシェルで撮影された、まさに楽園的な風景を集めた写真集である。三好はかねて憧れていた島々の風景のなかで、どう撮るかさえ意識せず「趣味に熱中するように、楽しく撮っていた」 (4月号「受賞のことば」 )と語っている。選考委員の大辻は、そんな三好の写真に「軽さの美」を見いだし、 「いまの時代が潜在的にそれを求めている」のだと評した。

感性の重視から生まれる「軽さの美」は、同時代の傾向を表すキ ー ワ ー ドといえた。そこで同年7月増刊号「現代の写真83−85」で、 座談会 「 『軽さ』の意味するもの『現代の写真』を語る」が企画されている。出席者の柳本尚規は、これまでは生きる喜びの率直な表現より、苦しみ模索する表現への評価が高かった、いまや前者が肯定されていると分析し、 「その意味で一つの規範が消えた」のだと述べている。

この「軽さの美」は、ことに自然風景をテーマとした作品によくみられた。それらはヴィジュアル化が進んだ雑誌のグラビアやカレンダーに採用され、あるいは三好の『RAKUEN』のように、カジュアルに楽しめるしゃれた写真集として人気を集めていた。

ことに人気を博したのは前田真三の風景写真だった。日本画的素養とモダンなデザインセンスを持つ前田は、西洋的でさえある北海道美瑛町の田園風景を鮮やかに切り取り、広いファンを獲得していた。本誌でも86年12月号で特集「前田真三・日本の風景20年」が組まれ、同地に個人美術館「拓真館」を開いた翌年にも12月号でインタビューが企画されている。

前田の後に続く若い才能も、本誌で活躍をはじめた。先駆したのは85年に写真集『天地聲聞日本人の原風景』(講談社)を出版した竹内敏信、そしてマクロレンズを駆使したファンタジックな植物の接写で「自然写真家」を自称した木原和人の2人だった。ことに木原は若い世代に人気があり、86年1月の本誌ヤング増刊「フォトボーイ」でも大きく紹介されている。だが翌年5月に病を得て40歳の若さで急逝してしまった。

以降、自然を感性で表現する写真家が相次いで登場して、本誌に活気をもたらす新たなあるエネルギーとなっていくのである。

「孫たち世代」の書き手

苦戦していたのは老舗の写真雑誌だけではない。80年代初めに創刊された「写楽」 (小学館)と「フォト・ジャポン」(福武書店)も同様で、ともに86年で休刊している。

こうした環境のなかで編集長となった藤田は、まず「読者をはっきりイメージすること」 ( 「朝日新聞出版局史」 )からはじめ、その結果「写真好き、カメラ好きのアマチュアの趣味雑誌」と方向性を決めた。具体的には写真やカメラをめぐる情報をわかりやすく提供しつつ、グラビアからは暗く汚い感じの作品を除き、 「広く第一線の作家を網羅して、ひとつの傾向に走るのを避ける」というものだった。

86年1月号から始まったリニューアルでは、まずデザイナーに亀海昌次を起用して、誌面レイアウトを明るく軽快にした。巻頭に国内外の豊富な写真情報を軽いタッチで紹介する「ビジュアル・パレット」欄を設け、 「還暦を迎える雑誌に孫たちの世代が積極的に参加するページを増やそうという流れ」 (編集後記)をつくった。

執筆陣にも孫世代といえる若手の研究者やライターが起用された。なかでも中心になったのは飯沢耕太郎だった。筑波大学大学院で写真史を専攻した飯沢は、86年に博士論文を『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房)にまとめて評価を得ている。本誌では前年1月号の展評欄「写真展を歩く」から連載を持ち、 「指のあいだを滑り落ちる『砂粒』のような『現在』の写真の状況を、写真史の背景から照らし出してみることで、もっと深みのあるくっきりとした像を描き出すことができないかと考えている」とその立場を述べた。

飯沢のほか「写真廃墟論」(86年4月号)などを執筆した伊藤俊治や、平木収、金子隆一ら研究者も写真史を踏まえて現在を語りうる、新しい書き手だった。

彼らはまた、ツァイト・フォト・サロンの石原悦郎のもとで、写真史の研究会を設けていたメンバーでもあった。石原
85年のつくば科学万博開催にあわせ、時限的に「つくば写真美術館85」を企画するとそのキュレーター役を務め、都市論としての写真史を概観するという大規模な「パリ・ニューヨーク・東京」展を実現させていた。

半年間の期限付きとはいえ、日本初といえる総合的な写真美術館の開館は関係者の注目を集めた。主宰の石原は85年3月号のインタビューで、その成算を次のように語っている。

「今回の美術館で最低五十万人入るだろうと思っています。そしてそれを資金に、ヨーロッパに若い写真家が集まって自由に仕事ができるスタジオをつくるのが私の夢です」

ところがこのもくろみは全く外れ、石原は多額の借金を背負うのだが、若い研究者たちがその現場で得た経験は大きかった。このほか新しい書き手のなかに、アメリカからリポートを寄稿していた笠原美智子もいた。現地の大学院で写真を専攻し、日本にはなかった徹底したフェミニズムとリベラルな観点を学んだ笠原の視点は異彩を放っていた。

この笠原や「つくば写真美術館85」の研究者グループは、数年後に誕生する写真美術館という場において、その手腕を発揮することになる。本誌の時代に応じた誌面改革は、こうした新しい時代にかなった才能に支えられて前進をはじめたのだった。

アサヒカメラの90年 第17回
バブル時代の明るさと不安
シノラマ登場!

篠山紀信のシノラマが本誌に初登場したのは1985(昭和60)年9月号だった。「’85夏 東京 ニューヨーク」は、新宿のビアガーデンの「女ずもう」ショーと、磯崎新の手がけたニューヨークのディスコ「パラディウム」の熱気を、ミノルタのα-7000を3台連結してとらえた作品である。都市の風俗をこの手法で撮る理由を、篠山はこう語る。

「いまの都市の状況はいままでの撮り方ではとらえきれなくなっている。カメラの目はひとつ、人間の目はふたつ。では三つ以上の目で見たら世界はどうみえてくるか……」

シノラマというネーミングは、映画用語の「シネラマ」に篠山の名前をかけたものだ。3台の35ミリのムービーカメラを使って撮影し、それを3面のスクリーンを使って映写するシネラマは、観客の体ごと映像に引き込こむ上映法である。

篠山は写真でもこの視覚効果を求め、70年代から音楽と写真を融合させたマルチプロジェクションなどを試みていた。やがて82年にカメラを連結させて撮影する手法にいきつき、それをシノラマと命名。以降、主題を世界の都市にもとめ、85年までに「NEW YORK」「SEOUL」「TOKYO」「ROMA」の4部作を、写真集や雑誌で発表していた。

本誌では翌86年からシノラマが新年号の目玉企画として登場し、年を追うごとに撮影のスケールが精巧かつ大規模になっていった。

まず86年1月号掲載のローマの「貴族の館」では3台の35ミリ一眼レフを横位置に使い同時にシャッターを切り、空間的な広がりを強調。それが翌87年の「スタジオ」では1台の4×5判カメラを三脚に固定し、360度首を振って撮影した写真を連結、絵巻物的になっている。篠山はこの撮影にあたり、イメージの連続性を複雑にし、多元的な視点を獲得するために、事前に精密な絵コンテをつくって撮影にのぞんだ。本作はシノラマでの初のヌード作品でもあり、映像表現としての「『シノラマ・トリック』の完成を期し」(本誌「撮影ノート」)た意欲作だった。

さらに同年4月号の「東京千米」では、「無秩序に巨大化した都市・東京のアメーバ的状況をとらえ」ようと4台の一眼レフによって180度近い画角を得て空撮に挑んだ。88年1月号の「はつゆめ 後藤久美子」ではファンタジックな物語世界を展開して、読者の目を楽しませた。

圧巻は89年と90年の1月号の「シノラマ 東京」だった。前者は東京の「夜」をテーマに開発の進む湾岸部と古い飲み屋街という対照的な風景のなかで、後者は新鋭建築家磔正治による近未来的建築「結晶のいろ」を舞台に撮影されている。いずれも無表情なヌードモデルと超絶技巧的なライティング、練られた画面構成で「アメーバ的な東京」の内部を妄想的に表現したものだ。

ことに後者の舞台となった「結晶のいろ」は、法令違反によって一度も使用できず、撮影後にとり壊されている。篠山は、この幻の建築の解体現場でも撮影を行っており「TOKYO NUDE」として90年5月号で発表した。

TOKYOシリーズは92年まで続き、その間、写真集『TOKYO NUDE』(90年 朝日新聞社)や『TOKYO未来世紀』(92年 小学館)が出版されている。空前のバブル景気に沸いていたこの80年代末、シノラマは非常な速度で変容していく東京そのものを体現していた。

新しいランドスケープ

シノラマの大がかりな撮影スタイルは関心を集め、本誌には現場リポートや解説も掲載され、89年1月号には飯沢耕太郎が「TOKYO ナイトトリップ『シノラマ』がとらえた新しい都市の眺め」を、90年1月号には義江邦夫が「撮影現場から」を執筆している。そのうち飯沢は、巨大な再開発によって変貌していく東京を、近未来SF映画「ブレードランナー」や「未来世紀ブラジル」のデストピア的なイメージに重ね、シノラマは「ぼくたちの感覚を引き裂き、思考の枠組みを破砕してしまうようなアナーキーな力を潜ませた都市の眺めにこそ」ふさわしい手法だと述べた。

同時に、最近「変質していくTOKYOの風景に敏感に反応している」若手写真家の仕事が目立つとして宮本隆司、小林のりお、山根敏郎の名を挙げている。当時、宮本は解体中の近代建築を「つかの間の廃墟」として撮影した「建築の黙示録」や魔窟といわれた香港の「九龍城砦」などを、小林は郊外に広がるニュータウンをニュートラルにとらえたシリーズを、山根は東京湾岸の開発風景をとらえた一連のシリーズを発表していた。彼らは篠山の熱気とは異なった静かなまなざしで、変容する都市とその周辺の風景を見ていた。それは建築学的な視点による都市環境の眺め、つまりランドスケープとしての描写だった。

若手写真家のランドスケープ作品は、87年3月号「特集ニューランドスケープ」や、89年4月号での評論家の加藤哲郎による「1990年の鏡と窓」でも大きく紹介されている。前者は小林のりお、米山恭子、伊奈英次、のろまさる、谷口雅、柴田敏雄の6人が紹介され、飯沢が論考「箱庭のリアリティー 風景写真の現在」を寄せた。一方の加藤は、風景を無機質に描写する若手をニュートレンド派と呼び、6人のほか畠山直哉、築地仁、三好耕三、吉村晃(朗)、大西みつぐ、蓑田貴子、杉本博司らを挙げ、共通して「『個』と対象の関係、環境との俯瞰図的な関係」を保持していると指摘している。

興味深いことに飯沢と加藤は、ランドスケープ作品に、ふたつの同じ画像の印象をダブらせ語っている。それは人工衛星が撮影した地表の画像と、86年のチェルノブイリ原発事故のもようを知らせた電送写真である。精密で無機質な鳥瞰図と不鮮明な事故現場からの画像という、相反するイメージが若手写真家のランドスケープには同居している。それは、急速に近未来化していく東京の風景と、その果てに来るだろうカタストロフィへの予感だった。

さて、こうした作品がいかに関心を持たれ、支持されたのかは88年から96年ごろまでの木村伊兵衛写真賞(以下、木村賞)に表れている。つまり先に挙げられたなかから宮本隆司『建築の黙示録』『九龍城砦』(89年)、柴田敏雄「日本典型」(92年)、大西みつぐ「遠い夏」「周縁の町から」と小林のりお「FIRSTLIGHT」(ともに93年)、畠山直哉『LIME WORKS』「都市のマケット」(97年)が受賞者となったのである。

また、彼らの多くはギャラリーでのオリジナルプリントでの展示に力を注いでいたから、写真美術館時代にふさわしい作家でもあった。

写真美術館への戸惑い

昭和天皇の崩御によって昭和64年は1週間で終わり、8日から平成元年となった。長い昭和時代の終幕は、日本人それぞれに深い感慨を抱かせ、あらゆるメディアで昭和史の読み直しが盛んに行われた。本誌では90年に「写真人の昭和」が企画され、昭和期に活躍した写真家、企業人、技術者らを訪ねその証言を記録している。

一方で、この年はダゲールによる写真術の公開から150年という節目でもあった。世界各地で大規模な記念イベントが開かれ、日本でも「写真150年展 渡来から今日まで」などが開催されている。本誌はそれにあわせ6月号で特集「写真150年」を組んで、日本の写真術の黎明を振り返った。

この記念すべき年を挟み、もっとも注視されていたのが写真美術館の誕生だった。88年に川崎市市民ミュージアムが、89年には横浜美術館という写真部門をもった美術館が開館し、90年6月には写真と映像の総合的な施設として東京都写真美術館が第一次開館を果たしている。また東京国立近代美術館も写真作品の常設展示を始めた。

ほかにも、90年には写真を含むジャンル横断的な展示を行う茨城の水戸芸術館や、長野県安曇野市の田淵行雄記念館も誕生。同年4月から半年間、大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」では「花博写真美術館」が伊藤俊治の監修で設けられている。

続々と誕生する写真美術館について、本誌はニュース欄や特集で詳しく伝えた。ことに88年10月号「徹底取材『いよいよやってくる「写真美術館」時代』では、各地域での取り組みも紹介されている。戦前の関西写壇の発掘に力を入れる兵庫県立近代美術館、京セラを通じて千点もの写真コレクションを入手した京都国立近代美術館、あるいは意欲的な「日本現代写真史展」の開催を企画している山口県立美術館などである。さらに90、91年には「世界の写真美術館」が連載され、世界各国の施設がリストアップされた。

これらの美術館では写真史の文脈を概観する展示が行われる一方、コンストラクティッドフォトに代表される現代美術としての表現を展観する企画も盛んだった。「現代美術になった写真」(87年 栃木県立美術館)、「脱走する写真― 11の新しい表現」(90年 水戸芸術館)、「移行するイメージ 1980年代の映像表現」( 90年 京都・東京国立近代美術館)、「日本のコンテンポラリー 写真をめぐる12の指標」(90年 東京都写真美術館)などである。これらの展示は、美術関係者には好評だったが、一般的な写真ファンからは戸惑いが示された。写真関係者のなかには、美術史に写真史が吸収されることを危惧する人たちも少なくなかった。

そこで90年10月号では、特別よみもの「現代美術と写真との“危険な関係”」が企画され、「写真を過剰なまでに現代美術にとり込もうとする動きとはいったい何なのか」を写真家の大島洋、美術評論家の高島直之、文化論の赤坂英人の3人が、それぞれの立場から論じている。このなかで読者には大島の論考「いま、写真にこだわること」が響いたのではないか。

「写真は絵画や現代美術との境界領域に活路を見出すことのみに汲々となるのではなく、物を見ることに徹し、身体そのものを目にすることによって、しかもそれを一度ひっくりかえして、なおかつ写真にこだわることによって、もっともっと写真の楽しさや面白さは夢見られてよいと思う」「あえて頑迷さの役割を演じて」大島はこう述べ、論考の最後を「写真はこれから独自の道を模索する、その入り口についたばかり」と結んだ。

ネイチャーフォト

この80年代末の本誌のグラビアには、明るく健康的な作品が多い。沢渡朔、渡辺達生、小沢忠恭らの爽やかな色気を放つヌードやポートレート、叙情性をもった淺井愼平、稲越功一らの作品などが読者の目を引きつけている。

また新人では、88年11月号に初登場した武田花の「眠そうな町」が新鮮な印象を与えた。再開発時代に取り残された、人影の消えた町々を撮った縦位置のモノクロのスナップは、同じ世代のランドスケープの作家とはまた違った懐かしくも不思議な都市の姿を描写していた。武田は、このシリーズで90年に木村賞を受賞した。

モノクロのスナップといえば、椎名誠の「旅の紙芝居」が89年4月号から始まっている。この朗らかな紀行エッセイは安定したファンを獲得、92年の「人間劇場」を経て、93年からは「シーナの写真日記」として現在にいたる超長期連載となった。

もっとも支持を集めていたのは、前号も触れたように、自然を対象とした写真家である。88年から2年間続いた企画「シリーズ〈ネイチャー〉」ではベテランの薗部澄をはじめ、竹内敏信や宮嶋康彦などの多彩な風景作品が掲載され、90年には竹内の「ヨーロッパ新風景」が連載された。さらに、人気にともない撮影地のガイドやハウツー記事も、より詳細で充実したものになっている。

こうした誌面を求めていたのは、おもに時間的にも資金的にも余裕のある中高年だった。自然相手では最適な撮影環境になるまでロケ地で長く待つ場合も多く、精度の高い最新のAF一眼レフカメラや交換レンズが求められる。こうした条件を満たせる中高年層が熱心に作品づくりに励んだことで、プロとアマチュアの境界は薄くなった。風景写真はブームとなり、専門誌が創刊されたり、90年9月には本誌増刊「最新風景写真講座」が出されたりするなど出版界の追い風ともなった。

風景写真ブームの一方で、生態学的な観察をもとに、自然と人間との関わりをテーマとした、スケールの広がりを持った写真家の仕事も際立っていた。木村賞の受賞者でいえば、中村征夫(88年)、星野道夫(90年)、今森光彦(95年)らがそうである。

中村は開発の代償として汚染が進んだ東京湾をめぐり、海中生物と人の暮らしをルポした『全・東京湾』(87年 情報センター出版局)を発表。星野はアラスカに腰を据えて、野生動物を軸に現地の人々の文化的変容をみつめた。そして今森は、自然と共生する伝統的な暮らしの場を里山と名づけ、昆虫を軸にそのありさまをとらえたのだった。これらは文化人類学的な意味を持った作品として評価されている。

この80年代末から90年代初め、都市へ向かうランドスケープと自然へ向かうネイチャーフォトという志向の違いはあっても、若い写真家たちは共通した認識と危機感を持っていた。人間がつくりだした環境に対する彼らの鋭い批評性が、その作品に結晶していたのである。

アサヒカメラの90年 第18回
バブル崩壊後のヌードブーム

「近未来」から「荒地」へ

1992(平成4)年1月号では、東京をテーマにした特集「都市」が組まれ、篠山紀信、須田一政、荒木経惟、北島敬三、佐藤時啓、豊原康久、金村修、日下部賜枝、山内道雄という9人の作品が掲載された。

その冒頭を飾った“シノラマ”による「ROPPONGI」は、まさにバブル景気を象徴する街にヌードモデルを配したものだ。ただ、このシリーズについて、篠山自身がすでに違和感を覚えていたようで、宮本隆司との新春特別対談「近未来の末路としてのバブル都市・東京」で次のように述べている。

「ぼくみたいな“毒きのこ写真家”は、違う方法論を見つけないと、だめかもしれないね。ひと休みして、違うものが育ってくるのを待ったほうがいい」

80年代後半は、都市再開発ブームをテーマとする風景作品に注目が集まっていた。だが91年にバブル景気がはじけるとブームは急速に停滞し、風景をとらえる目にも変化が生まれていた。そこでこの特集の主眼は、篠山のいう「違うもの」の提示にあった。東京の近未来的な変貌に「目が慣れてしまった」後、風景に肉薄して「都市の持つ生命の痕跡」を克明に炙あぶり出す写真家たちに注目したと、編集担当者は「撮影ノート」に記している。

たとえば北島の「6 SEGMENTS」は、8×10判カメラによる精緻な描写の都市風景とポートレートが組み合わせられている。しかも、場所や被写体の情報が意図的に排除され、開発のもたらす都市の匿名化が表されている。新鋭の金村の「RALLYIN THE HEAVEN」は、電線や構築物が錯綜する路地の遠近を圧縮し、方向性を欠いた発展の状況をとらえていた。また豊原と山内の路上のスナップはそのような状況下におかれた、生身の人間の表情をそれぞれにつかんでいた。佐藤のペンライトや鏡で風景に光跡を描く表現は、自身と場所性との関係を、写真のプリントによって明らかにする行為といえた。

さかのぼれば、開発された環境への批評的な描写は、75年にアメリカで開催された「ニュー・トポグラフィックス」展で顕在化した傾向である。92年8〜9月には、同展に参加したルイス・ボルツの新作、監視カメラの映像を使った新作「夜警」が池袋の西武百貨店で展示され、高度情報化社会がもたらす問題を先取りする作品は注目を集めた。また10月には川崎市市民ミュージアムで大規模な個展が開催され、本誌の情報欄「イメージ・ステーション」では詳細な解説(9月号)やインタビュー(12月号)が掲載された。

9月に開催されたロッテルダム写真ビエンナーレでは、こうしたランドスケープ作品の傾向が「荒地│これからの風景」として総括された。そのメイン展にはボルツを含め15カ国50人の写真家が参加、日本からも以下の5人が招かれている。

本誌で「産業考古学」を不定期連載していた土田ヒロミ、日本各地の堰堤やダムを撮った「日本典型」で91年に木村伊兵衛写真賞を受賞した柴田敏雄、東京周縁の造成地の風景などをとらえた写真集『FIRST LIGHT』(ペヨトル工房)で翌92年に同賞を受賞する小林のりお、そして1月号の特集「都市」にも名を連ねた金村と荒木である。

以上の日本人写真家のうち、ヨーロッパで注目されていたのは荒木である。すでに同年6月には初のヨーロッパ巡回展「AKT−TOKYO」がオーストリアのグラーツから始まり、好奇を交えた美術的関心が高まっていたのだった。

荒木経惟の再登場

特集「都市」に掲載された荒木の作品は、東京の風景に女性のヌードやポートレート、あるいは自宅のベランダからの風景を交えたカラーの「色景」だった。それまでモノクロ作品が中心だっただけに、冷たい透明感をもった色彩は読者の目を引いた。それ以上に意外なのは、増刊号を除けば、これが81年以来の本誌での発表だったことだ。

もちろん不在だった80年代を通じ、荒木は話題作を量産していたし、その勢いは90年代に入ってさらに加速した観があった。本誌増刊「カメラブック」掲載のデータをみれば、ことに写真集や著書の数が圧倒的なのだ。まず88年は『東京物語』(平凡社)、『東京日記』(河出書房新社)など7冊、90年は『愛しのチロ』(平凡社)など5冊、91年は『センチメンタルな旅・冬の旅』(新潮社)など4冊、そしてこの92年には『写狂人日記』(扶桑社)など5冊と、4年間で計21冊にも上っている。しかも、その評価は「どの写真集も日本の写真の現在を語るに必要にして十分な快作ばかり」(編集部筆・91年版)だった。

露骨ともいえる性的表現も多い荒木作品が、なぜそれほど評価されるのか。その点を評論家の平木収は、93年版「カメラブック」で「身体と精神の問題をつねに個の単位で語る語法として、自らの存在を前面に据えた作品を矢継ぎ早に発表」することで、荒木は「連続性をもって現代という時代に生きるヒトの精神を、メタファー抜きで表象してきた」(「バブル崩壊から再編の時代へ」)からだと読み解いている。

以降、再登場した荒木作品は本誌グラビアの目玉となった。翌93年1月号では「東京日和」が20ページにわたって巻頭を飾り、94年2月号の「私写真」にはロングインタビュー「荒木経惟 私写真宣言」が付され、そして同年11月号にはナン・ゴールディンとの「2大異才初めての競作 TOKYO LOVE」が掲載された。特筆すべきは、これらに編集担当者の熱のこもった解説が付されていることだ。彼らは、エキセントリックに見えてシャイで孤独な荒木の人柄にも大いに魅了されていたようだ。

ことに荒木自身にとって大きなエポックとなり、社会的な反響さえ呼んだのが91年2月出版の『センチメンタルな旅・冬の旅』(新潮社)である。荒木のミューズだった妻・陽子との新婚旅行をモチーフに「私写真家宣言」を果たした71年の『センチメンタルな旅』(私家版)と、90年の陽子との死別をめぐる「冬の旅」からなる本書は、写真家としての起点とその到達点を示し、さらには深い喪失体験からの再生さえ暗示していた。

本書への注目には、新潮社のPR誌「波」91年2月号の篠山との対談で生じた論争の影響も作用していた。棺に入れられた陽子の死に顔の写真を掲載したことをめぐり、二人の意見が激しく対立したのだ。篠山は“妻の死”という現実しか写っておらず「あなたの作品は多義性を孕はらんでいるからこそ面白かったんじゃないですか。本当のことをいうとこれは最悪だと思う」と切り込み、荒木はその率直さこそが写真であり、自身の「最高傑作」だと応じた。

激しく対立したまま終わった対談の波紋は、写真界を超えて広がった。そのひとつが3月25日の朝日新聞夕刊に、作家の高橋源一郎が寄稿した論評「写真と批評」である。高橋は、この「スキャンダラスな写真を撮りつづけてきた2人」の違いを、篠山は有名人の「肉体」や「陰毛」を撮ってスキャンダルを作りだすが、荒木はそれを無防備なものとして撮ることだとする。そして同じ表現者としては篠山の主張に同意するが、同時に、妻の死に顔を撮るという直接的な行為にこそ、写真という表現がもつ癒やしの可能性があるのではないかと問いかけている。

「ヘア」をめぐって

高橋のいう有名人の肉体や陰毛とは、直接的には1月に出版された、篠山による女優・樋口可南子の写真集『water fruit―不測の事態』(朝日出版社)を指している。さらに篠山は同じ年のうちに、宮沢りえの『SantaFe』、本木雅弘の『whiteroom』(いずれも同)など現役アイドルたちのヌード写真集を連発して、まさにスキャンダラスな話題を振りまくのである。

なかでも『water fruit』に「陰毛」を修整せず掲載したことは、写真関係者を驚かせた。それが写っていれば“わいせつ物”と見なされ、警察に摘発される可能性が高かったからだ。さらにその後、「芸術新潮」5月号の荒木特集でも修整はかけられなかった。やがてマスメディアにおいて「陰毛」は「ヘア」と呼び変えられ「へアヌード」という奇妙な言葉が用いられると、一般の関心が急速にたかまっていった。

といって本誌がすぐにヘアヌードを掲載するわけにはいかない。91年7月号の編集後記に、編集長藤沢正美は、「作品づくり上の必然性が認められ、美しい出来ばえならば頑なに拒むことはしない」が「警察権力による規制などはご免こうむりたい」と書いている。

藤沢の懸念は当たった。摘発は見送られたものの『water fruit』と「芸術新潮」の編集責任者が警視庁から口頭で警告を受けたのである。また、10月号のニュース欄では「太陽」(平凡社)のヌード特集も同様に、警視庁から警告を受けたことが取り上げられている。

それだけならまだしも、藤沢の耳には過剰な自主規制の話が伝わってきた。戦後ヌード表現の草分けである中村立行の回顧写真集『昭和・裸婦・残景』(IPC)が取次業者の自主規制で書店に配本されず、また海外から展示や編集目的で取り寄せられた写真を運送業者が荷主に無断で税関に見せているといった話である(8月号編集後記)。

その後、芸術的でひわい性が薄いヌードに対しては、警視庁は寛容な姿勢で臨むという方針が確かめられた。それを受けて、本誌がはっきりとヘアを解禁したのは翌92年7月号での、英隆、大坂寛、高木由利子、豊浦正明、沢渡朔らの作品によるヌード特集からで、編集後記によると、藤沢は「ヌード写真の今日の地平」を見せるこの特集を数カ月前から企画していたものの、それでも警視庁の基準に抵触する可能性を心配していたと書いている。そして、以降7月号のヌード特集は恒例企画となった。

もっとも、警視庁が寛容になったとはいえ事件は起きており、その中心はやはり荒木だった。同年4月には渋谷のEgg Galleryで開催中の個展「写狂人日記」に警視庁の家宅捜査が入り、展示中のスライド原板が押収され、荒木と画廊経営者ら5人が書類送検された。さらに翌93年11月には、渋谷のパルコギャラリーでの「エロトス」展に踏み込まれ、販売中の「AKT−TOKYO」展のカタログがわいせつ物として、売り場の従業員と会場責任者が逮捕された。欧州の美術界で認知されたものだけに、この件には国内外から非難の声が上がった。それに対し、荒木自身は翌年2月号のロングインタビューでこう語っている。「わいせつか芸術かっていうけど、芸術の中にわいせつさがまざってなかったら、より芸術にならないんだよ、おれの場合」

女性写真家の活躍

90年代前半のヌードブームを支えたのは、むろん篠山と荒木だけではない。本誌によく登場したなかでは英、沢渡、小沢忠恭や、話題作「Yellows」シリーズを発表していた五味彬などが知られるだろう。とくに五味の作品は、100人の日本人女性の裸体を標本としてタイポロジカルに記録し、通常の書籍と日本初のCD−ROMによる電子写真集化したことでも話題を集めた。

また女性写真家の作品も目立っており、高木、大山千賀子、冨士原美千代らの作品は、有機的に構成されたファッショナブルな感覚を発揮していた。写真の世界において、ようやく女性たちの活躍の場が大きく広がり始めていたといえる。

それを象徴したのが90年に武田花、91年に今道子と、木村伊兵衛写真賞を女性が連続で受賞したことだ。これをうけて
91年4月号の「座談会 写真スクランブル」では「女性写真家たちの胎動」が話し合われている。そのなかで柳本尚規は、彼女たちの活躍の背景について、アートとしての写真の評価の高まりと、社会全体が女性の問題に関心を寄せ始めたことを挙げた。確かに、先に挙げたヌード特集に登場した彼女たちも、まず個人的な表現として写真を始めていた。

ただ、同時代の社会現象を軟らかく切り取る、児玉房子なども注目を受けていた。児玉は先端技術の現場を歩いた90年の『CRITERIA』(IPC)で注目され、東京に遊ぶ若者たちをとらえた2年後の『千年後には・東京』(現代書館)は木村伊兵衛写真賞の最終候補に残るなど高く評価されていたのだ。本誌で93年4月号から2年間、その続編というべき「東京クルージング」を連載して好評を博している。

また自立意識の高まりとともに、写真を志向する女性も増えていた。91年6月号の平カズオの「たいら考現学」は、日本大学芸術学部での女子学生の割合がすでに半数近くに達していることを伝えている。

おもに見られる(写される)側にいた女性たちが、より積極的に撮る側にもなり始めたことは何を意味するのか。その例を示したのが、90年の「女性のまなざし:日本とドイツの女性写真家たち」展(川崎市市民ミュージアム)や、翌年の「私という未知へ向かって 現代女性セルフ・ポートレイト」展(東京都写真美術館)など、国内外の女性の現代写真家を紹介する展示であり、その内容は本誌でも興味深く取り上げた。

そしてより若い、20代の写真家たちも登場してきた。93年12月号では荒木が愛弟子と呼ぶ野村佐紀子が女友達のヌード「針のない時計」を発表。翌94年8月号の情報欄では、セルフヌードや家族ヌードの作品による初個展「愛の部屋」を開いた長島有里枝が紹介されている。新たなムーブメントが始まったのだ。
 

13−15

アサヒカメラの90年 第13回
木村伊兵衛の死と再評価

「ビートルズ」と「ザラ紙」

1973(昭和48)年1月号の編集後記には、今年は「これまでにもまして、その時代の写真界の現状を鋭敏にとらえて読者にお伝えする方針」と書かれている。70年10月から編集長を務める白井達男はそれを心がけ、たしかに実験的な誌面をつくってきた。

同号の特集「24人のビートルズ」もそのひとつだった。気鋭の写真家24人の作品の上に、彼ら自身が選んだビートルズの曲名と訳詞の一部が重ねられ、見開きでレイアウトされている。写真と音楽を反響させて、見ることの楽しみを広げようとした。

構成を担当したグラフィックデザイナー鶴本正三(晶三)は、篠山紀信とのコンビで写真のエディトリアルな可能性を開拓してきた。雑誌では「週刊プレイボーイ」(集英社)、「週刊少年マガジン」(講談社)、「明星」(集英社)を、写真集では『オレレ・オララ』(集英社)、そして前年10月の本誌増刊号「ハイ!マリー」などを手がけている。

ただ、こうしたエディトリアル重視の方針は戸惑いを与えた。たとえば2月号の「座談会 話題の写真をめぐって」で、細江英公は「24人のビートルズ」の斬新さを評価しつつも「写真雑誌はもっと個々の作家の問題というものを扱ってもらいたい」と要望した。さらに3月号では岩宮武二が「アサヒカメラ的なカラーを変えようとして、右往左往しているという感じ」と指摘し、5月号で大竹省二は急激な変化では読者がついてこない、と苦言を呈した。また岩宮と大竹は、マンガ雑誌のような、粗いザラ紙に刷られた特集にも批判を加えた。

ザラ紙は、前号も触れた72年5月号の「特集 ディスカバード・ジャパン」と同年11月号「表現のラディカリスムはどこへ行く」のほか、73年4月号の「さすらい紀行 東北の祭」にも使われている。いずれの企画にも北井一夫と編集部の大崎紀夫が加わっている。

最初の「ディスカバード・ジャパン」は、70年に始まる国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンに対するアンチテーゼ。そのポスターやCMには、ファッショナブルな若い女性が田舎の風景を発見し、地元の人々と触れ合うというイメージが使われた。

それに対してこの特集は、中平卓馬と北井の、コントラストが高く粗い粒子のモノクロ写真と、大崎の解説「〈ふるさと〉はいずこに―中平卓馬・北井一夫の写真の背景にあるもの―」で構成されている。ここで大崎は、人の暮らしや生活の歴史が抜けたキャンペーンは「土着の死であり、無残な近代の達成」だとしている。「ザラ紙」は、この観光化された「ふるさと」のイメージを否定し、土着性のリアリティーを浮かび上がらせるエディトリアル上の工夫だった。

これらの企画は確かに「写真界の現状を鋭敏にとらえ」ていた。その現状とは、73年12月号で評論家の渡辺勉が、3年間続いた連載「インタビュー評論 現代の写真作家」の総括として書いたように、「“写真界”という小さな枠のなかで写真を考えることが、必ずしも健全な方法ではなくなっていた」ということである。

だが、大竹の言うように、本誌の読者の多数がこうした鋭敏さに戸惑いと、難解さを覚えたのは確かだった。反応はけっして芳しくはなかった。

そこで、路線の修正が、73年5月に新編集長となった小島茂に託されることになった。小島は6月号の編集後記で、これからは読者とともに「写真の多様性を日常的な次元で考えていきたい」と呼びかけた。

再評価の機運

ベテラン写真家には不評だったザラ紙を「私はむしろ、面白いなと思った」と肯定したのは、当時60歳の植田正治である(10月号「話題の写真をめぐって」)。68年の「写真100年日本人による写真表現の歴史」展を機に植田は、かつての演出写真が再評価されていた。さらに71年に中央公論社の「映像の現代」シリーズから、地元鳥取の子どもを撮った『童暦』が出版されるとさらに注目が高まった。

自らの立場をアマチュアと位置づけ、国内外の新しい動向に関心を払い、柔軟な精神で写真に取り組む植田は読者を勇気づけた。その姿勢は73年1月号の連載「植田正治 写真教室」の初回「脱複写」に寄稿した一文に表れている。「作者が、それを必要としたであろうブレた写真も、ピンボケを計算した写真にも、表現の自由を求める姿勢があるような気がしてなりません。大切なことは、表面的な技法ではなく、うちに秘められた作者の、対象との言葉だと信じています。自分の写真に絶対の自信を持ったひとはいないとおもいます。私たちは、いつも、いつまでも、努力を続けねばなりません」「植田正治 写真教室」は半年で終了したが、翌年には続編というべき「写真作法」が連載され、また「カメラ毎日」でも実験的な「小さい伝記」シリーズの発表が始まった。

植田と同じ年の桑原甲子雄もまた、同時期に再評価を受けた。本誌73年4月号に掲載された桑原の「東京1930−40― 失われた都市」は、戦前のアマチュア作家時代に、東京の下町をライカでスナップした作品のリバイバルである。これは若い写真家たちの目に、きわめて新鮮に映った。彼らにとって桑原は「カメラ」(アルス)や「サンケイカメラ」(産業経済新聞社。のちの「カメラ芸術」東京中日新聞社)など、写真雑誌の編集長を歴任し、新しい写真家を発掘してきた、いわばよき目利きであったからだ。

桑原を再発見したのはそんな若い写真家のひとり、荒木経惟である。荒木の実質的なデビュー作の「マー坊」は、桑原によって「カメラ芸術」64年4月号に大きく掲載されている。やがて同じ下町生まれの2人は、父子にも例えられる間柄になっていた。

あるとき荒木は、若き日の桑原の作品を見た。そこにはノスタルジーではなく現在が写っているように感じられ、さらに自分と同じ孤独を抱えた青年の姿さえみてとれた。そしてこの作品の発表のために動き、73年3月の銀座ニコンサロンでの初個展や本誌での掲載、さらに翌74年の写真集『東京昭和十一年』(晶文社)の出版に動いたのだった。

こうした植田や桑原の再評価もまた、皮肉にも、写真界という「小さい枠」が窮屈になったことを示すものといえる。シリアスな若い写真家たちが写真界の現状に飽き足らず、自らの表現への手がかりを求めて写真史を見直したとき、同じ情熱をもった先駆者がそこにいたのだ。ことに戦前のモダン文化の絶頂期、1930年代に青春期を過ごした植田や桑原の作品には、個人的な表現を追求する姿勢や、都市生活者の鬱屈(うっくつ)したまなざしなどの共通点があった。もちろん、それは似て非なるものだからこそ、のぞきこむ者を照らし返す鏡となりえた。

さらに若い世代は、ずっと日常を撮り続けてきた大きな存在にも気づく。それは71歳になった木村伊兵衛である。

写真集『パリ』

73年12月号の特集は「木村伊兵衛の発見」である。60年のヨーロッパ外遊時のカラー写真と、京都、桂浜、戸隠高原でのモノクロのスナップで構成されている。

加えて木村作品はフレーミングによる日常性の構造化だと指摘する多木浩二の論考「木村伊兵衛のまなざし」、さらに篠山、荒木、北井、大倉舜二の4人による対談が付された。このうち荒木を除く3人は、73年5月に、木村を団長とする全11人の日中友好撮影家訪中団に参加している。3週間の旅で、彼らは木村の呼吸するようにシャッターを切る自然さに驚いたという。

なかでも木村と親しく接していたのは北井だった。前年に写真集『三里塚』(のら社)で日本写真協会新人賞を受賞したおり、熱心に推していたのが木村であり、一方の北井もその少し前に木村は風俗描写の写真家にとどまらないと気づいていた。その木村が北井に電話をかけたのは、二人が本誌編集部で顔を合わせはじめたころのようだ。パリのカラー写真を写真集にまとめてくれないか、との打診だった。

70年に、北井は大崎、橋本照嵩、平地勲、和田久士、岡田明彦らと、各自の写真集や詩集の出版を目的として“のら社”を立ち上げていた。北井の『三里塚』のほか、橋本の『瞽女(ごぜ)』も74年1月に同社から出版されている。木村はこれらを見て、可能性を感じたようだった。

もちろん木村は、これまでにも写真集を出版しているが、それらは「傑作集」のような形式が多い。一枚の写真の完成度が高すぎたこともあり、パリや50年代からの「秋田」シリーズを一貫したイメージの流れとして組むことが難しいと思われていた。

結局、のら社はこの困難を引き受けた。約3千カットの原板を見直して320ページに組み直し、74年9月に『木村伊兵衛写真集 パリ』を上梓したのである。その半年ほど前にページレイアウトを見たとき、木村は非常に満足したというが、完成した写真集への賛否は分かれた。それは北井らをいら立たせるのだが、その葛藤を木村は知らない。5月31日、心筋梗塞(こうそく)の発作で没していたからである。

木村は72年11月下旬に、本誌編集部で初の発作を起こしてから、体調不良が目立つようになった。やがて翌年2月号を最後に15年半も続けてきた「ニューフェース診断室」を降板、連載対談「木村伊兵衛放談室」を休載したこともあった。それでも中国を訪問し、国内での撮影も続けていたが、ついに帰らぬ人となった。

復刊以来の軸を失った本誌では、74年8月号の「木村伊兵衛の思い出」など追悼特集や企画が組まれ、8月には「臨時増刊 木村伊兵衛の世界」が刊行された。翌75年には追悼展が企画され、さらに7月号では、媒体を問わず活躍した新人を対象とした「木村伊兵衛写真賞」の創設が発表された。同賞の選考委員は伊奈信男、五木寛之、篠山、渡辺、そして同年5月に小島に代わり編集長に着任した岡見璋が務め、副賞は30万円と予告された。

「決闘写真論」

76年4月号で発表された第1回の受賞者は北井一夫で、対象作品は74〜75年の本誌連載「村へ」だった。村々を旅し、出合った一本のあぜ道など素朴な風景を素朴なままに撮り、生活の手触りさえ表現したシリーズである。さらに77年6月号まで続く続編「そして村へ」で対象はより暮らしの細部に寄っている。

ほかの候補作は佐々木崑「小さい生命」(本誌連載)、中藤まつゑ「極楽浄土」(写真展)、名古屋映像フェスティバル’75実行委員会、平地勲『温泉芸者』(のら社)、馬渕直城のカンボジア内戦の報道である。北井を含め、のら社の二人がいずれも旅で撮られた作品でノミネートされている。

本誌では、さきの「ディスカバード・ジャパン」以来、旅の意味を問い直す「旅もの」の作品が増え、のら社のメンバーや柳沢信の作品が好評だった。さらに75年から、建築写真を手がけていた山田脩二がその列に加わっている。山田は都市と地方を往還し、人の営みと建物が作り出す景観、つまりランドスケープというジャンルを先駆する作品を発表し始めていた。

とはいえ、76年にもっとも話題を集めたのは、篠山の写真と中平の写真論による連載「決闘写真論」だった。

前年、篠山は「アサヒグラフ」で74年5月から半年間担当した、政治からスポーツまでの社会現象について特写した連載を、写真集『晴れた日』(平凡社)にまとめている。一切の文字を入れないその編集には、時代の表層を等価に複写することこそ写真であるという意志が漲(みなぎ)っている。本連載でも、自らの過去と現在とを率直に見つめたさまざまな写真を月替わりに並べ、その主張を貫いた。

一方の中平は、ウジェーヌ・アジェやウォーカー・エバンスについて繰り返し論じている。じつは、この二人こそ、中平だけでなく当時の写真家がこぞって再評価した写真家だった。その理由は、撮り手の主体や個性の表現以上の強さがあったからだ。中平は次のように言う。

「とりあえず『目前にあるものを見る』ことから出発する。あくまでも眼の前にあるものの、特殊で、断片的で、具体的なものにかかわり、その向こう側へのりこえようとする視線が彼らには備わっている」(76年12月号「篠山紀信論(2)」)

本来的に、写真には見る人の心情の投影や言語化への企みをもはねつけ、対象を写したまま凍らせる、いわば非人間的な性質がある。二人の写真はその性質を端的に示したが、時代と並走する篠山もまた「眼に見えるすべてを受け入れ」ていた。それゆえ「アジェ、エバンス、篠山、この三人は再び写真に私を引き戻した」(同)と中平は書く。

中平は、写真家としての長いスランプを抜けつつあった。76年2月号に掲載された、明るい光のもとでシャープに対象を撮ったカラー作品「奄美」はそれを証明している。翌号の「話題の写真をめぐって」でも、このブレ・ボケからの転向は、座談会の参加者に驚きをもって歓迎されている。

この76年、本誌は創刊からちょうど半世紀を迎えていた。それは、写真史を俯瞰(ふかん)して表現のあり方を再確認し、新たな出発点とするには、最もふさわしい節目であったようだ。

アサヒカメラの90年 第14回
世代交代の足音

ミニ・コミュニケーションの挑戦

「写真家は写真だけ撮っていればよい時代は、過ぎたと思うんです。撮ると同時に見せること、その装置について考えざるを得なくなってます。ワークショップで僕がやってきたのは、技術指導、表現指導じゃなくてね、テレビ時代に即応した写真メディアの提案です」

本誌、1977(昭和52)年1月号、コンタックスのPRページ「リアルタイムフォトグラフィー コンタックス映像訪問」に登場した東松照明は、最近の活動についてインタビュアーの石岡瑛子にこう語っている。「ワークショップ」とは、東松が起点となり荒木経惟、深瀬昌久、細江英公、森山大道、横須賀功光が集って、74年に新宿で開講した「WORKSHOP寫眞学校」を指す。6人の講師がそれぞれゼミを持つ寺子屋形式の私塾である。

ここで東松が提案した「写真メディア」とは、彼らが60年代から実践してきたことだ。つまり東松は出版社「写研」を設立、森山は「プロヴォーク」参加ののちに個人誌「記録」を発行、荒木は私家版の写真集『センチメンタルな旅』や「ゼロックス写真帖」などのゲリラ的な展開を行ってきた。また細江の提唱するオリジナルプリントも、新しい写真メディアへの挑戦だった。彼らはその一環として実験的な展示も繰り返していた。その舞台を提供したのは73年に古美術商の清水弘が荻窪に開業したシミズ画廊で、同年の荒木の「廃墟に花」展や、翌年の荒木と多木浩二の企画による「写真についての写真展」や森山の「プリンティングショー」などが開かれた。ことに「写真についての写真展」は、本誌74年8月号の特集「イベントとしての写真展を考える」とも連動した企画だった。

こうした試みは鋭意な若者たちを刺激し、写真メディアの自作はムーブメントとなっていった。口火を切ったのは、72年に九州産業大学出身の黒沼康一や百々俊二による「地平」や、東京造形大学の島尾伸三らの「number」といったミニ・コミ誌である。「地平」の創刊号冒頭の「見たいのはきみの写真ではなく、きみの写真が開示する世界なのです」という一文は、彼らの情熱をよく表していよう。

76年には同人ギャラリーの開設が相次ぎ、新宿に「フォトギャラリー プリズム」「IMAGE SHOP CAMP」「フォトギャラリーPUT」が、那覇には「写真広場あーまん」が誕生した。「プリズム」は東京造形大と東京綜合写真専門学校の卒業生が主体で、「CAMP」と「PUT」は、それぞれワークショップの森山ゼミと東松ゼミ卒業生が立ち上げている。また「あーまん」のメンバーは、東松からの影響を受けていた。

個人による写真集の自費出版も増え、70年代半ばには、年間30冊以上もの写真集が本誌に届くようになった。76年5月号の「しゃしん・いま」欄では、自費出版の動機を探る覆面座談会「写真集・なぜ出すのか作るのか」が企画された。ここでは平地勲の『温泉芸者』(のら社)や土田ヒロミの『俗神』(オットーズ・ブックス社)などの制作費用も紹介されている。さらに8月号の「レーダー」欄では評論家の渡辺勉が「最近の私家版写真集をめぐって」で、山村雅昭の『植物に』(TBデザイン研究所)などを成果として、「自家版の氾濫」を期待するとエールを送った。

だが、一方ではこうした同人活動は自閉的だとの指摘もあった。この点を乗り越えようとしたのが、同人グループ間のネットワーク化を目指し、「写真通信」を発行していた多摩芸術学園出身の矢田卓らの「写真国」だった。彼らの成果は、77年10月に横浜で開催した、「今日の写真・展‘77」展である。48人もの若い写真家が参加したこの展示を見た渡辺は、本誌12月号の展評で「森山大道や北井一夫以降、著しく低迷している二十代の若者たちに、改めてある種の希望がかけられる」と評価している。

岡井編集長の誌面改革

77年はミニ・コミの話題が盛り上がったものの、全体的に「不作の年」とされた。そのなかで目立ったのが、高梨豊の「町」シリーズだった。

高梨は74年に、35ミリ判カメラによる身体的な都市論の集大成である『都市へ』(イザラ書房)を発表すると、75年1月から4×5判の大型カメラに持ち替え、東京の下町の古い街区や建物の撮影をはじめた。自分の呼吸や身ぶりを消し、対象の存在感を引き出すことを狙ったのだ。このシリーズは本誌で断続的に発表されて77年12月号掲載の「谷中」で完結を迎え、同時に大判の『町』(朝日新聞社)が出版された。多木浩二は、同年1月号の連載「イメージの劇場」でこのシリーズを取り上げ、これまでの表現的な主張の強いスタイルが消え、イメージも断片化したと指摘。前作は「真実に近づくことと、内面の表出」を企図していたが、『町』では読み手に多くを委ねていて、この受容性こそが「われわれを不思議に汲みつくせない多様な意味の宇宙に引き込む」のだと述べた。

さて、この不作の77年から本誌の舵をとったのは、2月号から編集長となった岡井輝雄である。岡井は「見て面白く、撮る面白さを味わえる身近な雑誌」(同号編集後記)を目標に掲げ、誌面の刷新を図った。濱谷浩、秋山庄太郎、大竹省二、渡辺義雄といったベテランが新テーマを撮り下ろす「挑戦シリーズ」、プロとアマの垣根を超えた「激突!! 中堅プロVSアマチュア最高峰」や「新人登場」、小中高生を対象にした「ぼくらは写真が大好きだ」などを企画した。ベテランのネームバリューで注目を集めながら、多くの読者に誌面への参加を促したのである。その方針は「アサヒカメラ読者の会」を立ち上げ、全日本写真連盟とともにオール朝日フォトフェスティバルを始めたことからも見えてくる。

岡井は、翌78年には「編集部は待っています. あなたが主役です」というキャッチフレーズを掲げ、公募のみの大特集「日本列島‘78」(10月号)などを企画する一方、若い読者の写真観を知るために「写真評論」懸賞も募集している。さらに積極的だったのは写真史の読み直しで、「土門拳―その周囲の証言」や各地域の写真館の歴史をひもとく「営業写真館・人国記」、あるいは80年の「名取洋之助は何を残したか」といった連載を企画している。この志向は増刊号により明確で、78年4月の「日本の写真史に何があったか│アサヒカメラ半世紀の歩み」や79年7月の「われら写真世代35年 カメラが描いた戦後風俗史」には多くの証言やデータが掲載され、資料性の高いものとなった。

77年から78年には戦前から本誌を支えてきた金丸重嶺、渡辺勉、伊奈信男、秋山青磁が相次いでこの世を去っている。そのため、この2冊は本誌の歴史の転換点を示すモニュメントともいえる。

新たなビジョンへ

先人たちの訃報よりも、岡井がショックを受けたのは、翌79年7月の「カメラ毎日」前編集長山岸章二の急逝だったそう。前年に毎日新聞社を退職した山岸は、岡井自身の熱心な依頼に応じ、1月号から写真時評「ニュー・フランクネス」を連載していた。

この年の山岸は、4月にニューヨークの国際写真センターで19人の日本人写真家による「自写像・日本」展をキュレーションしていた。そこで連載ではリチャード・アヴェドンの7ページにわたるロングインタビュー(4月号)や、「自写像」展に参加した写真家の座談会(7月号)などが掲載されている。国際的に先駆的な仕事をしていた山岸の死は、日本の写真界全体にとっても大きな損失だった。

一方で、この山岸と交錯するように、78年4月号の本誌に初登場したのが石原悦郎である。石原は、大特集「アッジェ再発見」に「入手したアッジェの写真について 徹底した職人気質が生んだプリント」を寄稿し、特集に掲載された彼所有のオリジナル・プリントは、パリの著名なラボマンであるピエール・ガスマンによるもので「あらゆる意味で原板に忠実」だと誇らしげに書いた。このとき石原の肩書は「ツァイト・フォト・ギャルリ主宰」だが、約1カ月後の4月20日、東京・日本橋で開業した日本初のオリジナルプリント画廊は「ツァイト・フォト・サロン」だった。本誌によれば、当時のプリントの価格設定は、アジェとドアノーが15万円、カルティエ=ブレッソンが50万円、日本人では土門が8万円、篠山紀信が5万円である。

石原は以降も彼が所有するマン・レイ、ブラッサイ、ケルテス、ビル・ブラントなどの作品を、本誌の特集や連載の素材に提供している。ことに80年10月の増刊『巴里PHOTO』には、ディレクターとして全面的に係っているオリジナルプリントの可能性を否定する人々の多かった当時、石原は本誌を通じて啓蒙とPR活動を行ったのだった。

翌79年1月、このツァイト・フォト・サロンで初の日本人写真家の展示「KAZUOKITAI」展が開かれた。北井一夫は石原から、10年後はオリジナルプリントでの展開がスタンダードになる、また写真家の価値はプリントを美術館が収蔵することで決まるようになると言われ、直観的にそれを信じたのだった。

この石原の見通しは、やがて現実になるのだが、違っていたのは10年よりもさらに時間を要したことだろう。その間、石原の画廊もオリジナルプリントの展開に懸けた写真家たちも、多くの苦闘を経験しなければならない。

同年の7月号では、日本写真美術館設立促進委員会が結成され、国立の写真美術館の設立を求める要望書を文化庁に提出したことが報じられている。

大型新人登場!

79年になると、不作から脱したようだった。まず中堅と位置づけられる写真家が連載で新たな展開をみせた。富山治夫の玄界灘の暮らしの風景をとらえた「風紋・波紋」、広告畑の十文字美信が日系ハワイ移民をテーマとした「金のなる樹 布哇・花」(6月号から全6回)などは、歴史に埋もれた人々の時間を表現していた。なにより誌面に活気を与えたのは、藤原新也、石内都、田原桂一という新人たちだった。彼らに共通するのは、異なった表現ジャンルを経験したのち、カメラを手にしたことである。つまりこれまでの写真の文脈とは違う地点からスタートしたのだ。

まず藤原のきっかけは、東京藝術大学油画科在学中の69年に「アサヒグラフ」に告知された、海外旅行の体験記の募集を見て編集部を訪れたことだ。このときフィルムと旅費を得てインドを放浪し、翌年3月に「爛ぅ鵐蛭見.100日旅行」を発表するとその文才が注目された。さらにインドやチベットへの旅を重ね「印度行脚」(73年)、「天寿国遍行」(76年)、「逍遙游記」(77年)などを連載すると、鮮やかな暗さをもった写真が人気を呼んだ。

新進の紀行作家は、本誌「話題の写真をめぐって」でもたびたび話題に上っていたが、作品の初掲載は78年1月号の「朝鮮半島」と遅い。その藤原が同年の木村伊兵衛写真賞(以下、木村賞)に満票で選ばれると、岡井編集長は「たぐいまれな大型新人の登場」と絶賛した。藤原は翌年には「ゆめつづれ」(4月号)と「自宅周辺」(10月号)を発表、翌々年に連載「四国遍土」(1月号から全3回)が掲載されると、その濃厚な終末観が読者を引きつけた。

多摩美術大学でテキスタイルを学んだ石内は、74年に友人の矢田卓らの同人展「写真効果」で写真に興味を持った。そこで翌年9月の同展に初めて出品すると、東松照明と荒木経惟に褒められ、本格的に取り組むようになる。その2年後には、思春期を過ごした横須賀の風景を痛々しいほどの粗いトーンで切り取った作品で初個展「絶唱・横須賀ストーリー」を開き、新進の女性写真家とみなされた。

さらに78年、古びた木造アパートを撮影して写真集『A PARTMENT』(写真通信社)にまとめると、女性初の木村賞の受賞者となった。藤原と同じく全員一致の判断で、審査員の桑原甲子雄は「作者の肉体的生理に近いものが画面をくまなく彩っている」ことが、見るものを吸引するのだと評した。石内は、受賞発表の翌5月号から、各地の旧赤線地帯の建物を訪ねる新しいシリーズ「連夜の街」を断続的に発表する。

その石内とともに木村伊兵衛写真賞の候補に挙げられたのが田原である。彼の名前が初めて本誌に載ったのは78年7月号の展評欄で、評者の森永純が日本初個展「窓」を絶賛した。さっそく翌号には「海外で脚光を浴びる異色写真家」として作品「光景」とインタビュー記事、さらにフランス国立図書館のJ・C・アマニーの田原評が掲載されている。

京都生まれの田原は、72年にツトム・ヤマシタの劇団「レッド・ブッタ・シアター」の映像・照明デザイナーとしてヨーロッパ公演に同行したが、途中、パリに残った。それから持っていたカメラで部屋の窓から空を撮り始めたのは、日本とは違う「黒墨のような空の青さ」に惹かれたからだという。やがて77年にはアルル国際写真フェスティバルの新人大賞を受賞するなど、現地で作家として認められた。

田原が木村賞を逃したのは、岡井の選評によると「写真が絵画的な美術に近づきすぎる感じ」がしたからだという。 田原が、ついに同賞に選ばれるのはこの6年後である。この間、新しい写真メディアで育った世代が、写真をめぐる風景を徐々に変えていくのである。

アサヒカメラの90年 第15回
ニューウェーブの幕開け

写真雑誌の苦境

1977(昭和52)年の2月号から編集長を務めた岡井輝雄の在任期間は、81(昭和56)年5月号までの4年4カ月で、歴代編集長のなかで3番目の長さである。意欲的な岡井が、さまざまな企画を打ち出したのは前号のとおりだが、なかでもコンテストを通じたアマチュアの誌面参画には熱心だった。公募のみで本誌を構成する「大特集」や月例ページの増大( 80年7月号)を図り、初級写真部門では自らが選者を務めもした。

その背景には本誌をとりまく環境の厳しさがあった。要因のひとつは、撮影機材のコンパクト化や自動化への流れである。75年にAF(自動焦点)機構とストロボを備えたコンパクトカメラの「コニカC35EF」が、翌年には電子化を進めたキヤノンの一眼レフ「AE−1」がヒット商品となっていた。以降も自動化は進み、81年11月、AF機構をボディーに組み込んだ一眼レフ「ペンタックスME−F」が発売されて、一眼レフのAF時代が幕を開けた。感材では76年に富士写真フイルムから、ISO400の高感度カラーネガフィルム「フジカラーF .II400」が発売された。

これら画期的な新製品が「ニューフェース診断室」やテストリポートで取り上げられると、大きな注目を集めた。だが中長期的にみれば、それは販売部数の向上に寄与しなかった。ノウハウ習得の必要性を減じさせたため、かえってライト購読者が離れたのだ。「朝日新聞出版局史」によれば、79年上半期に8万7千部だった本誌の販売部数は、83年には6万5千部に、85年ごろには5万6千部程度に減じている。それは復刊後の最大部数を記録した、60年代後半のおよそ半分程度の数字なのである。

また技術開発競争によって、中小のカメラメーカーが市場から淘汰(とうた)された。ミランダカメラ(76年)、ペトリカメラ(77年)、コムラーレンズ( 80年)などは倒産し、興和(78年)やトプコン(81年)は一般用カメラ事業から撤退した。69年の日本写真機工業会の加盟メーカーは41社だが、85年には18社まで減少している。かたや大手は事業の多角化や、広告戦略の分散化が重なり「写真雑誌への掲載広告は急速に減っていった」(「朝日新聞出版局史」)のである。もちろん状況はライバル誌も同様で、写真表現の動向に影響を与えた「カメラ毎日」は85年4月号をもって廃刊するのである。

老舗の総合写真雑誌が苦しむのをよそに、80年前後は史上空前の雑誌創刊ラッシュが訪れている。とくに写真を軸とするビジュアル誌が多く、新しい写真誌も相次いで登場した。ライトな青年層をねらった「カメラマン」(78年 モーターマガジン社)と「キャパ」(81年 学習研究社)。海外志向の強い「フォト・ジャポン」(83年 福武書店)。篠山紀信を中心に写真による総合誌をめざした「写楽」( 80年 小学館)と荒木経惟をフィーチャーしてポルノや写真雑誌の枠を解体する「写真時代」(81年 白夜書房)などで、「写真時代」は創刊号10万部が完売したことを本誌は報じた。また、見開き一点ものの写真を売りにする写真週刊誌「フォーカス」(81年 新潮社)は、創刊まもなくスキャンダラスな方針に転換して部数を拡大していた。

岡井編集長は、こうした環境のなかでアマチュアリズムを復興させようと奮闘し、販売部数も一定の成果を収めた。ただし、彼の仕掛けたコンテストからユニークな作品が生まれてくることは極めて少なく、「最近の写真表現がパターン化してくるのはどうしてでしょうか」( 80年5月号編集後記)と嘆く。それでも81年1月号からは編集後記に代わって「編集長のメッセージ」の欄を設け、アマチュアに写真の楽しみを熱く説き、最終回となった5月号では読者にこう呼びかけるのである。「(写真の)趣味性のなかにこそ個性的な創造の可能性が秘められていると思います。両者を対立的にとらえないで、趣味の中からモノを創り出す作業を考えていただきたいのです」

その後、岡井は出版局プロジェクト室で『昭和写真・全仕事』(全15巻)の刊行などを手掛け、一方ではエッセーや評論、写真家の評伝などを精力的に執筆していく。

この岡井の後、本誌の編集長は85年までに徳本光正から、谷博、相沢啓三へと代を継がれている。それぞれ1年半ほどの短い任期である。

ニュードキュメンタリー

この80年代初頭の誌面を活気づけたのはドキュメンタリーだった。80年12月号の桑原甲子雄、重森弘淹、柳本尚規による座談会「80年に写真は何を語ったか 図式化されないニュードキュメントの定着」では、社会的な現実に目を向けた作品が話題の中心となっている。本誌の掲載作品では藤原新也の「四国遍土」(1〜3月号)、江成常夫の「花嫁のアメリカ」(4〜6月号)、秋山亮二の「ニューヨーク通信」(7、8月号)などで、ほかに土田ヒロミの「ヒロシマ」シリーズなども評価された。

柳本は、それらの作品が、自らの方法論に懐疑を持ちながら撮り進められていると指摘。重森はその背景に信じるべきイデオロギーの喪失があるとして、「物差し喪失の時代に自分の感性をよりどころにしなければもうドキュメンタリーが成り立たないところへは来ている」と推察している。

こうしたニュードキュメントの傾向は、ことに「花嫁のアメリカ」によく表れていよう。占領下で米兵と結婚し、アメリカに嫁いだ戦争花嫁を現地に訪ねたポートレート作品は、80年末に本誌増刊号として一冊にまとめられている。江成はそこで「相手のプライバシーを侵すことにどれだけ耐えうるか」を自らに問いつつ撮影に取り組んだと記している。江成はこの労作で81年の木村伊兵衛写真賞(以下、木村賞)を受賞し、翌年からは中国残留日本人孤児をテーマに「小日本人」を連載する。

新人として、このころ注目されたのは、ともにWORKSHOP寫眞学校の森山大道ゼミ出身の、倉田精二と北島敬三だろう。倉田は80年に写真展「ストリート・フォトランダム・東京75〜79」で岩合光昭の「海からの手紙」(「アサヒグラフ」連載)とともに木村賞を受賞。北島は翌年に自主ギャラリーCAMPでの個展シリーズ「写真特急便・東京」で同賞の最終候補となり、日本写真協会賞新人賞を獲得している。倉田は東京の夜の盛り場の人々をフラッシュで浮かび上がらせ、北島は東京の路上を行き交う多様な人々を、出合い頭に、正面から鋭くとらえていた。

その北島は81年の夏にニューヨークに渡り、3カ月間スナップを撮り歩いた。この写真は「NEW YORK」と題されて、本誌82年1月号で19ページにわたって掲載された。

暴力的に街をとらえた同作に「カメラ毎日」の西井一夫が解説を寄せ、北島の見事さは「被写体を感じ撮った“見る感性”」にあり、「あらかじめのイメージにとらわれずに光景に立ち向かっている」からこそ、対象の力強さがストレートに出ているのだと述べた。さらに、北島に大きな影響を与えた森山が60年代後半そうであったように、北島は「80年代の同伴者になるだろう」と予測した。

この号では、写真展評で評者の長谷川明が北島を高く評価するほか、重森も座談会「82年の展望のなかで」で大きな成果と位置づけている。そこで当然、北島はこの年の木村賞の本命とみられていたが、最終選考で受賞を逸す。

82年に選ばれたのは渡辺兼人で、対象作品は作家の金井美恵子との共著『既視の街』(新潮社)と同名の写真展だった。何の変哲もない街の一角を、正方形の画角に収めた静かなその写真は、見るたびにいくつもの違った感触と想像が立ち上がってくる。その写真的に「ものを見る〈力〉」(渡辺義雄評)が評価されたのだった。

一方の北島は11月に写真集『New York』(白夜書房)を出版し、翌年、ついに木村賞を受賞。6月の授賞式では、写真の師にあたる森山に感謝を述べている。その森山も、このころようやく浮上しはじめたようだった。復活を印象づけたのは82年4月号から翌年6月号まで連載された「犬の記憶」である。これまで暮らした土地を巡り、写真と言葉でその生い立ちを再構成するという企画は、写真を撮り続けることの意味を自身に問うことでもあった。最終回で森山は、記憶を追うことは「これから遭遇する風景に対して、記憶をきっかけとして予見する、その意味を問い直す行為」だと悟り、「写真は記憶であり、そして写真は歴史である」と結んでいる。

森山のかつての盟友、中平卓馬も別の意味で再起していた。連載「決闘写真論」の翌77年、中平は急性アルコール中毒による逆行性記憶喪失になり、かつての鋭い言葉を失った。だが肉体が回復すると、写真家としてはほぼ毎日、自宅周辺で写真を撮り、プリントを焼く日々を送るようになっていた。

そして、中平は本誌78年12月号に再起作「沖縄 写真原点1」などを発表し、83年1月には写真集『新たなる凝視』(晶文社)を出版した。それは「歴史」に目を向けた森山とはあまりにも対照的な、現在しかもち得ない写真家の、鬼気迫るような写真群だった。

アメリカの新しい写真

中平の膨大な写真すべてに目を通し『新たなる凝視』を編集したのは、80年に写真論誌「写真装置」(写真装置舎)を創刊した写真家の大島洋である。その創刊号に、80年代は「眠りこけてきた『知』との決別の年代(とき)」になるだろうと書いた大島は、本誌82年4月号の時評欄にも「新たな『写真論』への模索」を寄稿して、「写真の歴史がつくりあげてきた文脈や、写真の価値体系と写真の制度の読み直しの作業」に取り組む必要を強調した。すでに「写真の加速度的変容は、写真表現の歴史がこれまでつくってきた基準では律することができないところまできた」からである。

機材の技術革新が進み視覚メディアも多様化してちまたにあふれている。公的、社会的、私的のすべての領域において、目に見えるものすべてが、あらゆる手段ですでに撮りつくされ、提示されている。このような社会状況の認識のなかで、写真を語りうる新たな言葉が求められていた。

たしかに80年前後から写真をめぐる言説は広がり、芸術評論誌の「ユリイカ」(青土社)80年10月号で「特集:写真とは何か」が組まれるなど、社会学的な文脈や文化論として語られるようになっていた。ことに刺激を与えたのは、アメリカの批評家スーザン・ソンタグの『写真論』( 79年 晶文社)、フランスの記号学者ロラン・バルトの『映像の修辞学』( 80年 朝日出版社)と『明るい部屋』(85年 みすず書房)などの翻訳書であった。

それに応じたように海外の“ニューウェーブ”と総称される、新しい写真表現のムーブメントも紹介され始めている。

ことに81年から本誌で連載された、ニューヨーク在住の美術家小久保彰の「ニューヨーク通信」では、サンディ・スコグランド、ジョン・デボラ、ウィリアム・ウェグマンなどのコンストラクティッド・フォトがよく取り上げられている。それらは広告イメージの引用や流用などによって画面を構成する、キッチュな遊戯性を強く打ち出した作品群だった。このほか「マルチプル・イメージ」「ビッグピクチャー」「ニューペインティング」「中性的な性」といった動向も紹介された。総じて、これらは現実の投影としての写真への批判を含む、いわば「反写真」であり、写真と美術のクロスオーバーから生まれたジャンルだと小久保は述べている。

83年には巻頭で「現代アメリカ作家シリーズ」が連載され、小久保の記事と連動して作品が掲載された。8月号には、この連載とは別にロバート・メイプルソープがはじめて取り上げられている。美術ジャーナリストの高野育郎は、セックスをアートに昇華させたこの青年こそ「アメリカ現代写真界の今やヒーロー的存在」だと解説した。

パリの写真シーンも注目された。フランスでは50〜60年代にかけアンリ・カルティエ=ブレッソンやロベール・ドアノーらが活躍したが、その後、アメリカに比べて停滞が続いた。それが70年代後半から商業ギャラリーが増加し、77年に開館したポンピドゥー・センターでも写真の収集と展示が始まった。さらに80年には隔年で「パリ写真月間」がスタートするなど、行政の肝いりで写真文化の振興が図られるようになった。現地の活発化する模様は、82年から連載された「ヨーロッパ通信」などで、写真エージェントの倉持和江や、パリ在住の写真家白岡順らが紹介した。

当時、パリで最も注目されていたのは、マネキンを使い少年期の記憶をファンタジーとして再現するベルナール・フォーコンだった。83年2月号の巻頭「ベルナール・フォーコンの世界」では、ヨーロッパ的なコンストラクティッド・フォトといえるその作品が、16ページで紹介され、作家で木村賞の審査員も務めた安部公房との対談が企画された。

そして海外の写真家のなかに交じって、83年4月号では、杉本博司の「劇場」が、珍しい“観音開き”のレイアウトで掲載されている。これは2月にツァイト・フォト・サロンで開催された個展のタイミングに合わせたもので、アメリカで活躍し、ニューヨーク近代美術館にも作品が収蔵された作家として注目されたのだった。

10−12

アサヒカメラの90年 第10回
コマーシャリズムの波のなかで

女流」写真家の挫折

1960年代前後は、日本の写真史上ではじめて、女性の写真家たちに注目が集まった時代だった。戦後の女性解放と社会進出の気分を背景に、アメリカのマーガレット・バーク=ホワイトやベレニス・アボットなどの活躍も知られており、日本の女性たちの活躍への期待も高まっていた。

ことに注目されたのが、前号でもふれた「第三の新人」の今井寿恵である。今井のデビューは56(昭和31)年7月の銀座・松島ギャラリーでの初個展「今井ヒサエ写真展 白昼夢」で、モノクロとカラー合わせて30点のシュルレアリスティックで実験的な作品は、写真で描く心象的な詩として「フォト・ポエム」と形容された。

今井の父は浅草と銀座の松屋デパートで写真室を経営する写真家だが、彼女自身には写真を手掛けるつもりはなかったという。しかし母校である文化学院講師の柳宗理に勧められ、初個展を見た美術評論家の瀧口修造からは励ましを受けて、手ごたえを覚えた。また同年の奈良原一高、細江英公の個展からも非常な刺激を受けた。

今井の本誌初登場はこの年の10月号で、横浜の赤線地帯などの女性をテーマに初個展「女から見た―働く女性」(同年4月)を開いた常盤とよ子とともに、「個展を開いた二人の女流写真家」という記事で紹介されている。常盤が報道写真をめざす「リアリズム派」、今井が前衛芸術の「アブストラクト派」という位置づけであった。同じ女性の立場から女性のおかれた社会的状況をとらえた常盤は、木村伊兵衛から「数少ない日本での本格的な女流報道写真家」への道を歩むよう期待をかけられた。一方の今井は、これから「実用的な商業美術の方向に進んでゆきたい」との希望を口にしている。

翌57年6月、今井と常盤は二人展を月光ギャラリーで開いた。また赤堀益子を世話役として、関西のベテランの山沢栄子らを加え結成された、女流写真家協会に参加している。同会は活動2年で自然解散となったが、これも写真界のなかでの女性の地位が変わりつつあることを予感させた。本誌では、こうした流れを受けて8月号で座談会「写真商売うらおもて(5) 女流プロカメラマン」が企画され、今井と常盤のほか、主婦の友社の小川千恵子、フリーとしてダム建設や造船業の現場をルポしている赤堀が参加した。司会をつとめた文芸評論家の中島健蔵は、座談会の冒頭で、彼女たちは日本で初の「女流写真家」と呼ばれる人たちであり、「女性カメラマンの進出でこれから写真界がどう変わっていくかということは興味深々(ママ)」と話を切り出している。

これら女流写真家のなかで、今井の活躍は抜きんでていた。59年には日本写真批評家協会新人賞、翌60年には「カメラ芸術」誌の芸術賞を受賞。また、自身が望んだように「ハイファッション」「装苑」「婦人画報」などのファッション雑誌でも活躍を始めたのである。

しかし本誌62年8月号の「写真界消息」欄には、彼女のつらい近況が報告された。6月22日早朝に横浜で交通事故に遭い入院、現在は自宅療養中とあるのだ。この事故が今井に与えたダメージは大きく、顔面に大けがを負い、一時は左目失明の危険さえあった。また入院中に婚約を一方的に解消されるという精神的ショックも受けていた。

それでも翌63年に復帰し、以前と同様の活躍を始めるが、心に落とした影は大きかった。その影は、この年6月の復帰個展と10月号の本誌に発表した作品「独<ひとり>」に表れている。編集部の紹介には「完全に立ち直って」とあるが、作品は女性の顔をさまざまな手法で変形させたもので、痛々しさを感じさせる。彼女自身が付した作品解説からは、生と死、美と醜をめぐる強い葛藤の末に生まれた重たい表現だったことがうかがえる。

「生のままの顔が美しすぎるとき、私はその顔を死の世界へ送り込んで、永遠に生かし続けたい欲望が起きます」

今井や常盤の登場の後にも、本誌に女流写真家は登場する。「女性自身」誌での唯一の女性スタッフカメラマンからフリーの社会派となった清宮由美子、アジア各地を撮影した上野千鶴子などだが、その数は少数にとどまり大きな活躍はなかった。つまり「女流」とは、完全な男性優位社会というきわめて高い壁を表現するときに使われる形容詞だったのである。

「広告」写真家の飛躍

今井の活躍にみられるように、60 年代前半には多くの写真家が広告やファッションなどを手掛けるようになっており、その潮流は本誌の掲載作品によく反映されている。たとえば奈良原一高が62年に連載した、イマジネーションあふれる「モード写真の周辺」などは、ファッション写真の仕事を契機に生まれた斬新な作品といえるだろう。

復刊後における商業写真と本誌との関係を振り返ると、まず復刊の翌50(昭和25)年には、戦前に盛んだった広告写真懸賞が復活している。これに2年連続で入選を果たして才能を見せたのは、米子のアマチュア写真家だった杵島隆である。その杵島は知人の紹介で53年に上京して、2年前に設立されたライトパブリシティに入社する。そこでデザイナーの波多野富仁男とのコンビで能力を発揮し、「同社の表現スタイルを決めた」(中井幸一『日本広告表現技術史』玄光社)と評される仕事を相次いで発表した。また57年に入社した早崎治は、64年に開催された東京オリンピックの有名なポスター写真を担当して日本の広告写真表現の水準を世界に示している。

その間58年には日本広告写真家協会(APA)が結成され、60年には日本を代表する企業8社(朝日麦酒、旭化成、富士製鐵、東芝、トヨタ自動車販売、日本光学、日本鋼管、野村證券)の出資により日本デザインセンターが誕生した。玄光社から専門誌として「コマーシャル・フォト」が創刊されたのも60年である。潤沢な資金を背景に、さまざまな表現上の技術的実験が試みられていた当時の広告写真の世界は、現場の写真家にとっても写真雑誌にとっても魅力的なジャンルになりつつあった。

本誌における広告写真ムーブメントの影響は表紙にみられる。59年からグラフィックデザイナーと写真家が数カ月ごとにコンビを組んで担当するようになり、より視覚的にインパクトの強いものになっているのだ。これは広告業界でも話題になり、なにより手掛ける若い写真家やデザイナーたちがやりがいを感じられる仕事であった。

例えば62年は、細谷巌がデザイン、写真が安齋吉三郎というライトパブリシティのコンビが1年を通じて担当している。このときの経験について細谷は、原稿料が安くロケには行けないため、イメージをデザインするのに工夫を凝らしたと、愉快そうに語っているのである。(『タイムトンネルシリーズVol.19 細谷巌アートディレクション1954→』ガーディアン・ガーデン)。制作予算は少ないがデザイナーと写真家には、自由な発想による実験的な表現ができたのである。

より若い広告写真家たちは、誌面においてもその存在感を増していく。それは新しい写真家を発掘するためのページによく表れた。本誌では新人の紹介のために61年5月号から「現代の感情」を、翌62年から4年間は「新人」欄を設け、自由な作品発表と写真家の自作解説、そして評論家の伊藤知巳による写真家評が掲載されている。ここに登場した写真家は計56人に上るが、広告写真家の割合は編集部の予想より多かったようだ。64年6月号の編集後記には、同欄の編集担当者が取り上げるべき硬派な「社会科のフリーランサーがきわめて少ないこと」が最近の悩みの種だと告白しているのである。

ここに登場した広告写真家で伊藤に絶賛されたのが、63年4月号で作品「黒」を発表した横須賀功光である。資生堂の広告で才能を発揮していた横須賀は、白と黒の衣装を着た女性モデルによるコンポジションを、特有のハイコントラストなライティングによって際立たせた。さらにページ構成はデザイナーの村瀬秀明が、衣装には三宅一生が協力している。

伊藤は「発想とイメージの新鮮さ」を追求する横須賀の妥協なき姿勢に可能性を感じ、「第三の新人」たちの個性に「正面から太刀打ちできる強烈な個性が、いまようやく私の前に立っている」と書いた。とくに「奈良原の出現以来、もっとも新人らしい新人」だと評した。

また翌64年11月号の「新人」にはライトパブリシティの篠山紀信が登場して「肖像」を発表している。横須賀、細江、秋山庄太郎、今井、木村、北井三郎の6人の写真家をモデルに、彼らの作風にのっとって、その肖像を撮ったものである。

伊藤は篠山の感受性の非凡さを認めつつ「容易なことでは自己の正体を他人の前にさらけ出そうとはしない」複雑さを持つ写真家であり、あるいはそれを「極度に恐れる人間」と指摘する。そして本作も、既成の権威に対する血気にみちた反抗と否定とが、いまだ体系的な秩序や論理をもたぬままに、いわば八方破れ的にここに打ち出されていると評した。

篠山自身もまた、それを認識していたようだ。この一作をもって彼に影響を与えてきた先人たちの仕事、つまり「過去の記憶から生まれた影像」とは決別することを自身の言葉で付しているのである。

「動物」写真家のフロンティア

「新人」欄が始まったのは、伊藤が横須賀について述べたように、「第三の新人」たちに対抗できる才能が待たれていたからだった。だが、それはなかなか見つけられない。その理由について伊藤は、広告業界の活性化や、週刊誌の創刊ラッシュなどによる、写真の商業化と関係があると考えていた。

つまりこの時代の新人たちは、最初から表現上の制約や了解のなかで、仕事をこなすところから出発しなければならない。そのため多くの自由を与えられた「新人」欄の作品も、全力で取り組みながらも結果的にオーソドックスなものに落ち着いてしまう。だから「通観してみて、とくにズバ抜けた者もいないかわり、とくに目立って質のおちる者もいない」( 63年1月号「私の見た《新人》たち」)のだと、伊藤は分析した。

こうした時期の本誌に新しい風を吹かせたのは、動物写真という新しいジャンルだった。具体的には、63年にはじまる田中光常の「日本野生動物記」がこの分野を開拓した。

田中が動物をライフワークとしたのは53年からで、当時の主な撮影地は動物園だった。なぜなら野鳥以外の動物の分布図がなく、機材の選択肢も乏しかったからだ。その半面、ベビーブームの追い風を受けて日本中で動物園の数が増え、施設や動物種も拡充されていた。

田中はまた、アメリカの動物写真家イーラが出版した『動物の世界』(平凡社 57年)の生き生きとした描写や、ディズニーの「砂漠は生きている」(55年日本公開)などのネイチャードキュメンタリー映画から強い刺激を受けた。そして58年に、動物園で撮りためた作品で「田中光常動物写真展」を開催すると正統派動物写真家として注目された。そこで次のステップとして、本誌で野生動物の撮影を試みるのである。

田中は連載にあたり、まず朝日新聞社の図書室で、動物に関する各新聞の切り抜きをチェックするなど資料を精査した。さらに全国を調査して、白地図に動物の分布図を書き込みながら撮影を行った。こうした準備を経て連載の第1回は小田原で撮影した夜行性の「モモンガとムササビ」で、これらは幼少期にはじめて自然の怖さを意識させた印象深い動物であった。

「日本野生動物記」は2年で終了したが、シリーズは「続・日本野生動物記」(66、67年)へと続き、やがて海外にも足を延ばして「アメリカ野生動物記」(69年)、「世界野生動物記」(70、71年)に発展、計7年の長期連載となった。さらにこの間、朝日新聞社から、68年には写真集『日本野生動物記』が、70年には同『世界野生動物記』(全5巻)が刊行された。

この間動物写真は多くの写真ファンを獲得し始めており、ライバル誌の「カメラ毎日」でも岩合徳光の「カメラ博物誌」が64年2月号から始まっている。田中と岩合は、これらの仕事によって、日本のネイチャーフォトの展開にひとつの基礎を築いていくのである。

また、昆虫や魚など、微細な生物の発生の瞬間をとらえた佐々木崑の連載「小さい生命」が66年から始まっている。読者に新鮮な驚きを与えたその第1回は「サケの稚魚」で、誌面では孵化した直後の姿を見事にとらえている。しかし、この一枚が成功するまでに、ライトの熱で水槽の水温が上がり、シャッターを切る前に魚が煮えてしまったという。

こうして思いどおりにならない対象を相手に失敗や苦労を重ねながら「小さい生命」の連載は79年6月号まで続いた。さらに約4年間のブランクの後、83年3月号からは「新・小さい生命」として復活し、8年後の91年12月号に終了した。ふたつの連載を合わせるとその連載期間は約22年、計256回は、今後抜かれることのない数字となった。

60年代前半の本誌は、全体的に高度経済成長期の明るい高揚感を反映している。もちろん社会には矛盾や問題が多く、それは経済成長に比して増大していた。これに続く時代にはこうした流れに、さまざまなレベルで抗する写真家たちが登場する。

そして彼らの批判は、日本の写真表現の歴史的展開にも向かうのである。
 
アサヒカメラの90年 第11回
1969年の「わからない写真」

リアリズムの復権

「さいきんふたたび、日本の写真界ではリアリズム運動が活発になりつつある」

写真評論家の重森弘淹は1967(昭和42)年の著書『写真芸術論』(美術出版社)にこう書いた。63年に日本リアリズム写真集団が結成され、一定の支持を受けるなかでの認識である。ただし、重森はリアリズム写真を単純に称揚しているわけではなく、その理論性のあいまいさや表現の類型化などに言及している。

64年の東京オリンピックを過ぎるあたりから、それまで以上に高度経済成長の影の部分がクローズアップされ始めていた。水俣病や四日市ぜんそくなどの公害問題、農村社会の変質、忘却の波に晒される戦争の犠牲者たちの現在、そして東西冷戦を背景に激化するベトナム戦争と反戦運動などである。それにともない広告やファッションといった商業写真に比べて人気の落ちた感のある報道写真界にも、意欲的な写真家の活躍が目立つようになった。

その筆頭といえるのが桑原史成だった。桑原は62年に個展「水俣病」を開催し、同作で本誌11月号に初登場している。64年からは韓国取材を敢行し、その成果を「太陽」(平凡社)や「週刊朝日」(朝日新聞社)などで精力的に発表した。当時、韓国は朴正熙大統領の強圧的な政権下で、民主化運動や、65年に締結された日韓基本条約への反対運動などが展開されていた。現地に飛び込んだ桑原は取材規制にめげず、それらの動きをつぶさに撮っている。

本誌でも65年には「強制送還 韓国人大村収容所」(6月号)と「隣の二つの国・2韓国」(12月号)でグラビアを飾った。前者は不法入国者の収容所をカラーで取材したもので、後者は北朝鮮との軍事的な境界線やベトナムに派兵される兵士がテーマになっており、いずれも冷戦下の分断国家としての韓国の厳しい状況を表現している。

興味深いのは、後者が他の写真家の作品と一対となった企画という点だった。それはやはり社会派のホープだった、英伸三の「中国」である。英がとらえた人民解放軍の演習の模様や青年たちの姿は、明るく活力にあふれていた。その希望のある若い国のイメージは、桑原の「韓国」とはひどく対照的だ。

英は、桑原と東京フォトスクール(現・東京綜合写真専門学校)第1期の同窓で、親友でもある。64年5月の初個展「盲人」が本誌編集部の目に留まり、その一部が8月号の「追われゆく盲人あんま師」として初掲載された。続けて翌号の「新人」欄で「農村電子工業」が発表されて注目を集めた。信州伊那谷の農家の主婦たちが、細かな電子部品の組み立て内職をする現状をルポしたこの作品は、日本の経済成長が村落共同体に依拠しながら、その暮らしを根底から変えていくことを示した。以降、英は農業問題をそのライフワークに定めて、息の長い仕事を続けていく。

話を65年12月号の「中国」に戻すと、同作は8月に日中青年大交流に日本ジャーナリスト会議代表団の一員として訪問したさいに撮影したものだ。参加者は計300人に及び、英のほか伊藤知巳、熊切圭介など7人の写真関係者が参加している。これは当時国交のない中国政府からの招待で、そこにプロパガンダの意図もあったようで、一団は行く先々で大歓迎を受け、北京では毛沢東、周恩来、劉少奇ら指導者とも面会した。彼らはそこに希望をみたものの、翌年、毛沢東によって文化大革命が発動され、中国社会に今も癒えない大きな断絶を生むのである。

「共同制作」と「個」の視点

もちろん、この二人のほかにも、本誌には社会派が盛んに登場している。登場回数が多いのは、たとえば原爆の傷痕を追い続ける福島菊次郎、朝日新聞社の出版写真部員として「朝日ジャーナル」誌の「現代語感」で才能を発揮して66年にフリーとなった富山治夫、その翌年にやはり同写真部から独立した栗原達男などである。

本誌には、こうした新進の社会派の作品を紹介する連載が設けられた。それが「人間の記録」(66年)、「視角’67」(67年)、「変貌する山河」「日本の生態」(68年)、「5人の目・’70年への提言」(69年)などだ。いずれも複数の写真家のリレー連載という形式で、当時盛んだった「共同制作」という手法が意識されている。ことにその意図が明確に打ち出されたのが、69年の「5人の目」だった。桑原、英、富山、栗原、中谷吉隆の5人が、さまざまな社会問題リアリズムを尊重した正攻法で切り取った。

共同制作とは、文字どおり複数の写真家がひとつのテーマに基づいて作品を制作する手法である。ただし、この頃はテーマ設定や撮影のプロセスのなかで、思想を“民主的”な議論によって深めることが重視された。話し合いによって個性主義的な美学を超えた表現が可能になると考えられたからだ。もともとこの手法は、50年代から大学の写真部でよく用いられたが、60年に日本写真家協会の共同制作「ここにあなたは住んでいる」展が開催されると、戦後の報道写真の成果のひとつと評価された(同年8月号)。

本誌でも64年には各世代を代表する写真家による特写「日本のすがた」などが企画される一方、アマチュアに対しても66年から、年に一度の大型コンテストを通じて共同制作が呼びかけられている。そのコンテストのテーマは「人間の記録」(66年)、「共同制作・わが郷土」(67年)、「アンバランス日本」(68年)「現代の青春」(69年)というものだった。

ただこうした共同制作よりも注目されたのは、個人としての視点をはっきり打ち出した作品のようだ。ことに69年6、7月号に続けて掲載された、東松照明の「OKINAWA 沖縄 OKINAWA」と「日本国・沖縄県」は注目された。米軍軍政下から日本への復帰が迫った当時、本誌でも沖縄の現状をルポした作品が相次いで発表されたが、東松の連作が最も鮮烈な印象を与えた。

東松が、この撮影のため、はじめて沖縄に渡ったのは同年2月だった。それまで「占領」をテーマとして日本各地の米軍基地の周囲を撮影していたが、最後に残ったのが渡航制限のある沖縄だった。しかも、前年11月に嘉手納基地でB52の墜落事故があり、現地では強烈な反基地闘争が展開されていた。

そんな折、本誌の特写として現地に渡った東松は、2カ月間にわたって滞在。前半は基地の周囲に密着し、後半は宮古や石垣の諸島部を巡った。やがて取材を終え、編集部に顔を出した東松の第一声は「沖縄は日本の縮図だというのが行く前からの私の考えだったが、想像以上だった」(69年5月号編集後記)という。

東松は本誌発表後の8月、作品を再編集して写真集『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』にまとめ、自身が設立した出版社の写研から出版した。東松の沖縄との関わりは、これ以降も深まっていく。

挑発者たち

社会派が活躍する一方、それと異質な表現が誌面に登場していた。メディア産業の発達にともない写真表現が高度にパターン化するなかで、そのイメージが現実を疎外することに反抗する写真家とその作品群である。

その嚆矢(こうし)は、68年10月号のリレー連載「日本の生態」に登場した、中平卓馬の「終電車」である。本作は東京から中平の自宅のある逗子までの終電車において、日常的に見る光景を撮影したものだが、画像はひどくブレていて粒子もきわめて粗い。だが、このトーンはきわめて意識的なもので、「30分の1秒で動く車の中で撮れば、ブレはこれくらい生じる、ということは初めから計算していた」(解説欄から)という。それは終電車内の印象的な描写ではなく、人々が持っている終電車に対するビジュアルイメージの解体を狙うものだった。

「写真はピンボケであったり、ブレていたりしてはいけないという定説があるが、ぼくには信じがたい。第一、人間の目ですら物の像をとらえる時、個々の物、個々の像はブレたりピンボケだったりしているのだ。それをイマジネーションが統一し、堅固な像に固定している、ということではないか」

こうした先鋭的な意見を述べるものの、同欄の作者紹介には、中平は総合誌「現代の眼」の編集者を辞め、いまは「カメラマンとしての独立をめざす」となっている。66年「アサヒグラフ」誌で、寺山修司の連載「街に戦場あり」に、友人の森山大道とともに写真を提供するなどしていたが、一線の写真家としては認められていなかった。だが、その先鋭的な姿勢は写真関係者から注目されつつあったのだ。

中平の写真観に決定的な影響を与えたのは、東松の企画で、68年6月に開催された日本写真家協会主催の「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」に編纂委員として加わった体験である。幕末の写真渡来から敗戦に至るまでの写真表現を振り返るなか、中平は撮影者さえ判然としない多量の写真記録の直截(ちょくせつ)さのなかに、本来的な写真力がみなぎっていることを見いだし、それがイメージを拒否する根拠となった。

中平の本誌での発表から1カ月後の11月、同人誌「プロヴォーク」が創刊された。同人は中平と、やはり「写真100年展」の編纂に携わっていた評論家の多木浩二、写真家の高梨豊、詩人の岡田隆彦。加えて日大の写真学科を中退していた柳本尚規がスタッフとして加わっている。また翌69年の2号からは森山大道も同誌に参画した。

本誌での「プロヴォーク」メンバーの活躍も69年から始まる。リレー連載「日本美新見」に中平はカラー作品「熱海」(3月号)を、柳本は「神戸光芒」(8月号)を発表した。高梨は1年間「写真教室」の連載を持ち、視覚イメージと言葉との関係を丁寧に説いた。

また、前年に初の写真集『にっぽん劇場写真帖』(室町書房)を出版して高く評価されていた森山は、本誌ではじめての連載「アクシデント」を持っている。その初回、1月号は「ある七日間の映像」で、前年11月の第1週のうち、マスメディアで流された映像や伝送写真の複写を中心に構成されている。具体的には北爆停止を発表するジョンソン大統領、次期大統領に決まったニクソンと暗殺されたロバート・ケネディ、南ベトナム解放民族戦線のテロ、NHKの報道番組である。そこに一枚だけ森山のスナップ写真が挿入され、現代社会における現実感のありようを問いかけた。森山は作品解説で次のように宣言した。

「ぼくはこれからの<アクシデント>シリーズで、さまざまな要因から引き起こされた事件にとびこんで、人間の生と死について考えたいと思います。加害者がいて被害者がいる。それを取り巻く社会がある。それらを種々なサイドからカメラで接近することで浮かんでくる『今の時代』をみたいのです」

ただ、こうした既成の写真のレトリックを否定する実験的姿勢は感心を集めるとともに、多くの読者から「わからない」という戸惑いや拒否反応を生んだ。たとえば9月号の編集後記では、前号の柳本の「神戸光芒」に対して、読者から「こんなものをのせる編集部の見識を疑う」という抗議電話があったと紹介されている。

そこで本誌は、現実を伝える社会派とこの「わからない」写真との接点を見いだそうと試みている。ことに4月号では「コンポラかリアリズムか」を企画して、社会派として桑原と、沖縄を取材していた嬉野京子の2人、わからない写真家として中平、高梨、そして新倉孝雄の3人が出席して座談会が設けられた。

ここでまず問われたのが、言葉と写真表現の関係だった。新倉は写真が言葉をトレースすれば「写真とは別のものになってしまう」として否定し、中平は言葉から逸脱したものだけを視覚化するのだと発言している。つまり「写真はことばのための資料」であり、「真実のことばを一つ作るために、写真を資料としてどんどん提出していく」という立場をとる。そして来るべき言葉を待つのだと述べている。

やがて座談会では、20代前半の若い世代に目立ってきた傾向に話が及ぶ。それが表題にある「コンポラ」あるいは「コンポラ写真」であり、おもに平和だが代わり映えしない、いわばなんでもない日常的な風景や人間関係に目を向けた作品とみられていた。

参加者のなかでこれに近いとみられたのは新倉と高梨で、新倉は日常性そのものを撮ることに意味があるとし、高梨は日常のなかでなにか起こる気配を受け止めて写真を撮っていると発言している。また桑原は日常のなかでの孤独、不安、疎外感などが表現できる可能性があるのではないかと述べている。最も手厳しいのは中平で、個のなかに自閉した表現ではないかと批判する。

本誌編集部もまた、コンポラ写真の扱いや評価については戸惑っていた。それに対し、この傾向をいち早く肯定的に捉え、それをフィーチャーしたのは「カメラ毎日」(毎日新聞社)だった。座談会で例として取り上げられた作品も、そのほとんどが同誌の掲載作品だった。では、同誌はコンポラをはじめとする若い写真家をどのように見ていたのだろうか。

アサヒカメラの90年 第12回
シリアス・フォトの挫折と希望

先駆けた「カメラ毎日」

読者から「わからない写真」と呼ばれたコンポラ写真を、本誌が俎上(そじょう)に載せたのは、1969(昭和44)年4月号の座談会「コンポラかリアリズムか」が最初である。だが、ライバル誌の「カメラ毎日」(毎日新聞社)では、それ以前から若い世代のムーブメントとして取り上げていた。

これを主導したのが編集部員の山岸章二で、彼はときに独断でも有望な写真家の作品を掲載することで知られていた。その代表例が65年4月号の、56ページにわたる立木義浩の「舌出し天使」だった。この成功以降、同誌は“大作集中発表”という方針をとり、高梨豊の「東京人」(66年1月号)や小川隆之の「NEW Y ORK IS」(68年9月号)などの話題作を連発した。

時代の動向に敏感な山岸はまた、高梨をはじめ新倉孝雄や柳沢信らの写真に漂う、私的かつ無目的な雰囲気に魅力を感じていた。しかもこの傾向は、若い世代ほど色濃くなるようだった。若い写真家のなかから25歳の下津隆之に注目し、12ページを割いて、デビュー作「沖縄島」を67年12月号で掲載した。

占領下の反米軍基地闘争や日本復帰問題をルポした社会派が圧倒的だった当時、沖縄の日常生活の断片を、広い画角に淡々と収めた本作は異質だった。下津は、いまは「なにかわからぬまま、空間とか、時間とか、日常性とかを追って撮り続けている」のだと解説で述べた。

翌68年1月号、「沖縄島」に対して「ひとりぽっちの視点」という好意的な評が出た。執筆者は素人目線の写真評で知られた、哲学者の福田定良である。福田は、下津の私的で静かな叙情性に「現実のジャーナリスティックな動きにまきこまれずに、当の現実をみなで見なおすことのできるような視点の確立」の可能性を指摘した。

そして同年6月号では、特集「シンポジウム現代の写真 『日常の情景』について」が組まれ、下津のほか牛腸茂雄や佐藤邦子という3人の新鋭が登場した。このうち牛腸は七五三の風景をスナップした「こども」を発表、同時に、ものを見るのは醒(さ)めた行為だが「醒めるという状態には、とても熱い熱い過程があると思う」という言葉が紹介された。「コンポラ」という形容が初めて使われたのは、この特集における大辻清司の報告「主義の時代は遠ざかって」のなかである。それはニューヨークで出版された写真集『コンテンポラリー・フォトグラファーズ』に登場した、社会的風景を乾いた眼で観察する写真家たち(デュアン・マイケルズ、リー・フリードランダー、ゲリー・ウィノグランドなど)との類似に由来する、と大辻は言う。ただし、日本のコンポラ写真はより個人的な傾向であり、共通するのは「日常ありふれた何げない事象」を呼び込むための引きぎみの距離感、説明的な要素が排除された横位置のスナップショットというスタイルである。

さらに、このような撮り方の背景には、科学技術の加速度的な進化や消費社会の高度化による「価値の混乱」があるとした。つまり「うつり変わる事態にもはや論理をうちたてる暇がないし、ぐらついた価値観の上にどんな理論も立てようがない 」なかで、若者たちは自らの感性や論理、対象との関係性を重視することになったのだ。

大辻の見解は、教鞭(きょうべん)をとっていた桑沢デザイン研究所での経験と関係があった。コンポラの先駆けとされる高梨、新倉、牛腸らは同校で学び、もとより大辻と親交が深かった。その彼ら以上に、後に続く学生の作品には私的な領域に閉じこもりがちな傾向が表れており、しかも教師の指摘にさえ無関心だったという(本誌71年4月号座談会「コンポラはどこへ行く?」)。その経験は、大辻自身の写真観にも影響を与えていた。

シリアス・フォトへの道

「カメラ毎日」の特集から10カ月後、本誌の「コンポラかリアリズムか」には多くの反響があり、翌号で「コンポラかリアリズムかを読んで」が組まれた。ここで大辻、栗原達男、多木浩二、細江英公、丹野章がそれぞれの立場から意見を寄せている。

また翌70年6月号の連載「今日の海外作家シリーズ」では伊奈信男が、言葉の由来となったアメリカの「コンポラ派の写真家たち」を詳しく紹介した。こうした解説によって、コンポラ写真はアンリ・カルティエ=ブレッソンからロバート・フランクに続く、戦後のスナップ写真の系譜だという理解が共有されていった。

ただ、日本のコンポラ写真家の範囲については、論者によってかなりの違いがあった。前出の写真家のほか、森山大道、秋山亮二、鈴木清、田中長徳、あるいは70年に叙情的な写真集『S tree tPhotograph』(深夜叢書社)を出版した淺井愼平もそう評された。

すでにコンポラ写真という概念は変化していた。本誌71年4月号の大辻、細江、森永純による座談会「コンポラはどこへ行く?」では、森永がコンポラ写真とはアメリカでいう「シリアスフォト」の一つだと思うと発言している。シリアスフォトとは、ジャーナリスティックな目的をもたない「写真という以外はなにものでもない」自立した表現のこと。「ほんとうに写真というメディアを通して自己表現するということが、日本の戦後の写真歴史(ママ)の中にはあんまりなかった。それがやっと出てきて、これからが楽しみだって気がしますね」

当時、森永もまたシリアスフォトを目指し、そのために細江とともにある模索をしていた。それは写真家の表現と経済的自立をプリント作品の展開に求めることで、じっさい、この年に2人は銀座の画廊でそれぞれが「オリジナルプリント」展を開いている。

72年になると、すでにコンポラ写真は飽きられている。この年、写真表現の動向を総括していた「アサヒカメラ年鑑」に代わり増刊「現代の写真」が発行されると、伊奈、金丸重嶺、渡辺勉による座談会「コンポラ、ブレボケの行方」が企画され、コンポラ写真は「歴史的な役割が終わった」(渡辺)と結論されたのだ。

では、コンポラと併記されたもうひとつのシリアス・フォト、「ブレボケ」の行方はどうか。じつは中平卓馬と森山という立役者の2人は、深い葛藤を抱えていた。

写真の解体の果てに

同人誌「プロヴォーク」が解散して8カ月後の70年11月、中平は初の写真集『来たるべき言葉のために』(風土社)を出版。翌年9月にはパリ青年ビエンナーレに参加し、現地で撮影し注目を集めている。写真を翌日すぐに展示する「サーキュレーション」を実行した。その前後にも写真雑誌や美術誌に作品や評論を寄稿していたが、「何をやっても現実を捉つかまえられない」という焦燥感を抱いていた。

その原因は彼自身の写真にあった。中平は本誌72年8月号での渡辺の連載「インタビュー評論 現代の写真作家」に登場したさい、彼自身が否定するサロンピクチャーに陥りかねない、ポエティックな雰囲気が写真にあることを渡辺に指摘された。すると中平はそれを素直に認め、理由は夜間にばかり撮るからだと答えている。ものの輪郭がボケてしまう暗闇だと叙情が入りこむ隙間ができる、これからは太陽のもとでこそ撮らねばならない、「本当に世界が恐怖に満ちているのは真昼間に違いない」からだ。

翌73年、中平はその決意を評論集『なぜ、植物図鑑か』(晶文社)で明確に表明し、これまで撮ったネガを焼却する。それでもスランプは脱せず、本誌74年2月号の「話題の写真をめぐって」に出席したさいには、「どうしようもなく写真が好きで、やめられないけれども、ただ、今は、どうやって撮っていいか、ちょっとわからない」と、葛藤を吐露している。 一方の森山は複数の雑誌連載を抱え、ときにマスメディアにも登場し、さらにシルクスクリーンによる初個展(70年)を開くなど多忙だった。

本誌でも70年は表紙を担当、翌年は「何かへの旅」を連載した。続く72年には作品発表のほか、4月号で特集「特別レポート 森山大道=その映像のナゾ」が組まれている。渡辺の「インタビュー評論」と鈴木志郎康の評論、それに生い立ちを関係者による証言「エピソードにみる放浪の半生」で構成されたユニークな企画だった。だが、こうした活躍のなかで、森山は自身と写真との乖離(かいり)を強く自覚していた。

その危機は同月に出版した『写真よさようなら』(写真評論社)の後、決定的になった。映像の複写や現像に失敗したネガを用い、ビジュアルコミュニケーションとしての写真の解体に挑んだ本書は、同時代の大きな達成として受け取られた。ただ同時に、その達成はコミュニケーションの担い手である、写真家自身の存在意義さえ否定したのだった。

自らの葛藤について、森山は72年12月22日の朝日新聞夕刊に寄せた「転換を迫られる写真」でこう書いた。「自己の思惟(しい)を表現する手段としての写真は、その一冊の本を出したあたりからはっきりと終ってしまったような気がする」

だから今後は「単純素朴な、それだけに本質的であろうと思うところから写真をやり直さねばならない」と。そこで同年7月から発行し始めた私家版の写真誌「記録」や、翌年の本誌連載「地上」では言葉のとおりと思える作品を発表した。

だが、その素朴さこそ、本質と思想と行為のズレから生じる苦しさの証しではないか。そう指摘したのは、同じ「プロヴォーク」同人の多木だった(73年3月号「話題の写真をめぐって」)。

視覚的興奮

72年11月号の特集「表現のラディカリスムはどこへ行く」には、中平と森山、そして北井一夫が作品を寄せている。粗いザラ紙を使った印刷は、彼らの粗い粒子の写真と相乗的な視覚効果をもたらした。

このなかで、北井は「アサヒグラフ」で三里塚闘争の写真を発表し、71年にそれを写真集『三里塚』(のら社)にまとめたばかりの新鋭である。写真集は、激しい闘争を背景に人間の営みを浮かび上がらせた斬新なルポとして評価された。本誌でも72年5月号で「ディスカバード・ジャパン」を中平と担当して鮮烈な印象を残していた。

この特集では多木も、記号論を軸にした写真論を7ページにわたり展開した。多木はラディカルな写真家たちによって作品という完結した表現は完全に解体し、いま「出来事のように出現する『写真の観念』」への予感が垣間見えていると述べた。ただしこの成果も、写真家が旧来の表現に固執するなら、さまざまな制度と文脈に絡み取られて「退廃」に陥るだろう。その例は、コンポラ写真の帰結に明らかである。「コンテンポラリー・フォトグラフィーと呼ばれた写真は、実際には写真についての観念を示すことに意味があった。しかし、不幸なことに写真家の作家意識がそれをだめにしてしまった。写真家はそれを作品としジャーナリズムはあたらしい流派とした」

この危機に写真家は再び状況と関わり「生の全体の構造を問い直すことを求められている」と、多木は論考を結んだ。ならば、その状況とは具体的にはどのようなものか。

それは雑誌メディアの消長が示しているかもしれない。たとえば同年末には「ライフ」誌が廃刊して、フォトジャーナリズムの後退が顕著になった。一方で、若者を対象とする雑誌、「平凡パンチ」(平凡出版、64年)、「週刊プレイボーイ」(集英社、66年)、「anan」(平凡出版、70年)、「GORO」(小学館、74年)などが相次いで創刊されていた。しかも、そのグラビアには大胆なエロスやメルヘンチックな旅があり、ロックスターやアイドルが輝きを放っていた。その表層的なインパクトは、報道でも広告でも芸術にさえもなかった「エディトリアル」と呼ばれる新しいジャンルの輝きだった。

このエディトリアルの感覚をいち早く写真雑誌に取り込んだのが、「カメラ毎日」の山岸だったのだ。後に、山岸の後輩である西井一夫はそう証言し、エディトリアルを的確に定義している。「エディトリアルにおいては、視覚的興奮、写真的見方そのもののために写真がある。テーマはあってもなくてもどちらでもよい」(「写真」が写真になった日々││あるいはエディトリアル=視覚的興奮の成立││一九六五年前後「写真装置」80年1号)

この視覚的興奮をただ貪欲に追い求めていたのが篠山紀信だった。篠山はこの72年に本誌の表紙を担当すると、毎回違った手法と被写体で読者を驚かせた。例えば3月号では、歌手のにしきのあきらと小柳ルミ子のツーショットを、前年から担当していたブロマイドやアイドル雑誌「明星」(集英社)の表紙スタイルで撮って賛否両論を巻き起こした。

さらに8月号では21歳のモデルと彼女の3人の姉弟をハワイで撮影。健康的でみずみずしいモノクロのヌードを、特別付録の写真集にまとめて話題となった。だが、これは予告編であり、9月には増刊号「ハイ!マリー」として、カラー写真も加えた176ページの本格的な写真集になってより多くの読者を魅了した。

さらに、この12月号には荒木経惟も「情景2」で登場し、以降の誌面は急速にエディトリアルに進んでいく彼らの活躍はエディトリアルもまた、シリアス・フォトであることを示すのだった。

7−9

アサヒカメラの90年 第7回
復刊――「Q」の時代

復刊まで

廃刊からおよそ7年半を経て、「アサヒカメラ」は1949(昭和24)年10月号で復刊した。編集長の津村秀夫はその背景について「復刊の辞」でこう述べている。

「戦後の写真工業の復興に見るべきものがあり、一面また写真技術が平和来とともに益々その社会的要求を増大して行く大勢を眺めて、じっとしておられなくなったからにほかなりません」

確かにカメラ業界の立ち直りは早く、すでに活気を帯びていた。敗戦直後からGHQ(連合国軍総司令部)の後押しもあって、小西六写真工業(現・コニカミノルタ)、千代田光学精工(同上)、マミヤ光機(現・マミヤ・オーピー)、精機光学工業(現・キヤノン)などは進駐軍向けとしてカメラ生産を再開していた。加えて日本光学工業(現・ニコン)や高千穂光学工業(現・オリンパス)などの軍需用光学メーカーが民生に転換、富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)もカメラ製造に進出した。これらの企業には日中戦争以降に蓄積した技術があり開発者もいたが、ほかにも多数のメーカーが生まれた。復刊の年には、GHQが民需用のロールフィルムの販売を許可したことで、国産カメラと感材が入手しやすくなり、アマチュアの写真熱はさらに高まった。

写真雑誌も46年1月に「カメラ」(アルス社)が、翌年には「光画月刊」(光画荘)が復刊。新たに「日本カメラ」(日本カメラ社)の前身「アマチュア写真叢書」(光芸社)や「フォトアート」(研光社)、「フォトグラフィ」(フォトグラフィ)などが創刊されている。とはいえ、まだ印刷用紙も不足し編集体制も不自由だった。

本誌の復刊にもかなり無理があった。まず津村が編集長に指名されたのは49年7月中旬で、準備期間はわずか2カ月余り。しかも、彼は写真について疎かった。30年代から映画畑を歩み、「Q」の筆名による明快で辛辣(しんらつ)な映画評が大衆的な支持を得ていた。復刊を任されたのは映像関係に強いと見られたからだが、本人は戸惑った。そこで戦前に本誌の編集者だった子安正直の参加を条件に、職責を引き受けた。

その津村は「復刊の辞」で、従来のようにアマチュアによる「写真芸術」の展開に留意しながらも「海外の科学知識の吸収とともに、一面また大いに写真の持つ倫理的、社会的任務と責任を自覚しつつ進みたい」とした。社会性の重視という点は、復刊記念として募集した懸賞写真のテーマ「戦後日本の生活を撮影したもの」にもよく表れている。

考えが固まったのは、有力なアマチュア写壇に協力を呼びかけたものの、集まってきた作品に失望を覚えたからだった。津村は社会の現状に即した写真を提示しうる写真家を、一人だけ知っていた。それは報道写真の第一人者、木村伊兵衛である。

初対面は33年12月。津村は、発足したばかりの日本工房に参加していた木村の個展「ライカによる文芸家肖像写真展」を取材しに行った。このとき江戸っ子らしい洒脱(しゃだつ)な話術と「学歴のないくせに芸術的センスのあることでは、なまなかの大学文化出身者などの、とうてい及び難い鋭さ」(『木村伊兵衛写真全集昭和時代 第2巻』筑摩書房)に津村は感心し、同時にウマが合うと確信した。その木村に、津村は復刊第1号の表紙、新東宝の新人女優の角梨枝子のポートレート撮影を依頼したのだった。

木村にとって、これは「寝耳に水」の話だったという。だが「心の中に仕事ができる喜びがこみあげてきて」(本誌69年10月号「特集・私とアサヒカメラ」)快諾した。報道写真の第一人者といえども、当時は仕事に飢えていた。

津村の布陣

大戦中、木村は参謀本部の写真宣伝機関である東方社の写真部長として「FRONT」など対外宣伝誌の制作に携わった。敗戦を経て同社は文化社と名を変え、被爆地広島の記録を担当したり、『東京・1945年秋』などの出版物を出したりしたが、47年に解散。次いで、その年11月に名取洋之助が日本の「ライフ」たるべく創刊した「週刊サンニュース」(サン・ニュース・フォトス)の写真責任者となった。ここで20代の三木淳、稲村隆正、薗部澄、三堀家義、長野重一、田沼武能などの写真家志望者に範を見せたが、これも49年3月号で休刊する。ついにフリーとなったが、先行きは不安だった。

そんな折に依頼された撮影である。木村は久々の緊張を覚え、「女の持っている、色気とか、個性とかいった内的なもの」(前出)を表現すべく四苦八苦したという。だが、この表紙は好評を得た。続く11月号で発表した、津村の企画による初代中村吉右衛門の楽屋と舞台をテーマにした「吉右衛門の石切梶原」も同様の反応を得た。

こうした編集部主導の企画は翌年から「特写」と称され、木村はそれを精力的にこなしつつ、技法解説や座談会でも本誌の中心的な位置を占めた。津村はこの木村を顧問格とし、渡辺義雄と金丸重嶺というベテランにも大いに頼った。

彼らに加え、新しいスターとして期待したのが、戦中から新潟県高田市(現・上越市)に住んで雪国の民俗記録に取り組んでいた、34歳の濱谷浩だった。津村は50年1月号の「孤独に生きる 高村光太郎氏」を皮切りに、濱谷にもたびたび特写を任せた。

さらに、評価を高めつつあった、30歳前後の三木、稲村、秋山庄太郎、大竹省二の4人に注目している。三木は、49年にはじめて「ライフ」誌に写真を発表し、同年8月にはタイムライフ社に採用されて意気軒高としていた。稲村と秋山は早大の同窓で、共同事務所を開いたこともあるが、その後稲村は「週刊サンニュース」で永井荷風を囲む踊り子の写真などを発表、一方の秋山は近代映画社に入り女優の写真で株を上げていた。

大竹はGHQが接収した日比谷のアーニーパイル劇場(東京宝塚劇場)の広報カメラマンとして本場のショービジネスを間近で眺め、高嶺(たかね)の花だったカラーフィルムも自由に使えた。劇場広報部が48年に解散すると、写真雑誌で女性のポートレートなどを発表している。

その大竹の出世作となったのが、51年に本誌で始まる、来日した音楽家たちのポートレートの連作「世界の音楽家」だ。日本人離れした洗練された華やかさと、被写体の内面的な影が同時に表現された写真は人気を呼び、55年に朝日新聞社から写真集として出版されている。同書に寄稿した津村の文によると、当時の大竹は行き詰まりを抱えており、その打開策としてこの企画を提案したとある。

さらに津村は、敗戦の年末に創設された朝日新聞出版局写真部から吉岡専造、大束元、船山克を見いだした。大束は三木らと担当した連載「新東京風景」で都市の情景を叙情的に描写し、吉岡は50年9月号で大関千代の山の力感にあふれた「闘魂」で強い印象を与えた。船山はこの2人に刺激されて、光の効果を生かしたフォトジェニックな作品を発表する。

いつしか「朝日の三羽烏」と称された3人の真価が発揮されたのは52年5月号から5年半続いた連載、社会状況を戯画的に捉えた「現代の感情」だろう。さらに3人は他誌からの原稿依頼も引き受けるなど、スタッフカメラマンの枠を超える活躍をみせた。

このほか、奈良で古寺古仏を撮る入江泰吉(※「吉」の字はつちよし)、長野県・安曇野で山岳写真と高山蝶の研究に励む田淵行男、誠文堂新光社の編集者で自然写真家の田村栄なども起用した。いずれもそのジャンルの第一人者となる人材だった。

アメリカ

こうした布陣に加え、津村が重視したのは、アメリカを中心としたフォトジャーナリストの動向である。まず復刊の翌11月号で金丸、伊奈信男、木村による座談会「戦後アメリカの写真芸術」を開き、ユーサフ・カーシュ、アーヴィング・ペン、リチャード・アヴェドン、ロバート・キャパ、ウィージー、ユージン・スミス、アンリ・カルティエ=ブレッソンらを紹介。翌号から「海外有名作家紹介」を開始し、作品とその横顔を詳しくリポートした。52年からは「USカメラ年鑑」と特約し、より幅広く海外写真家の紹介を行うようになった。

米軍を核とする連合軍の占領下にあった当時、「ライフ」や「ルック」といったグラフ誌への関心は戦前よりもはるかに高かった。また日本に支局を開く通信社も多く、多数の写真家が来日した。彼らは日本人が制限されていた事象も取材でき、それを国際的に発表した。先にあげた日本の若い報道写真家たちはそれを羨望(せんぼう)し、彼らに伍して活躍することを願っていた。

この願望がかたちになったのが、49年の日本青年写真家協会や翌年の集団フォトの設立である。ことに後者は、カルティエ=ブレッソンやキャパらが47年に設立した写真家集団マグナムの結成を意識したもので、三木淳を代表に、大竹省二、稲村隆正、樋口進、山本静夫、石井彰、佐伯義勝、田沼武能が参加し、顧問には木村伊兵衛と土門拳が名を連ねた。彼らは展示などで写真家が主体性をもった、新しい時代の報道写真を啓蒙した。

翌50年に朝鮮戦争が勃発すると、東京は戦線取材の後方基地となった。デビッド・ダグラス・ダンカンを筆頭に、写真家の来日はさらに増え、本誌では彼らを囲む座談会がひとつの名物になっている。

そのダンカンらは日本製のカメラとレンズを高く評価し、アメリカのメディアが大きく報じたことで、日本のカメラ産業は大きな飛躍の機会をつかむことになる。

「リアリズム」と「シャッター以前」

復刊以降、本誌は順調に部数を伸ばし、54年には戦前の記録を更新して16万部に達した。その成長は、ここまで見てきたように津村の慧眼(けいがん)によっていた。

写真評論家の重森弘淹が後に述べたように「復刊『アサヒカメラ』はまさしく『Q』の作品だといっていいほど、『Q』の個性が充実していた」(本誌78年4月増刊「日本の写真史に何があったか」掲載「模索の一九五〇年代・『アサヒカメラ』復刊以後」)である。そして、その個性が最も発揮されたのは批評欄だと重森はいう。

じっさい津村は理論面での柱として、戦前から知られた伊奈に加え、登山家でもあった評論家の浦松佐美太郎を起用している。55年まで毎年新年号に掲載された、この二人を軸とした評論家たちの座談会「作家と作風を語る」や、毎号の「対談批評」は非常な辛口で読者を驚かせるものだった。重森はこうした批評の背景に、当時「カメラ」誌で盛り上がっていたリアリズム写真への対抗意識があることを指摘している。

よく知られるように、リアリズム写真は、50年から「カメラ」誌で月例の審査を務めた土門が、アマチュアに示した方向性である。ここで土門は熱のこもった長文の選評を書き、そのなかでマチエール、モチーフ、パンチュール・オブジェ(写真的実在)といった美学的な概念を頻繁に用いた。この「リアリズム」もそのひとつで、当初のリアリズム写真は、社会的性格を強く持った前衛芸術の勧めというべきものだった。

土門は51年12月号でアマチュアは社会生活の周囲からモチーフを見つけるべきで、そこからリアリズムをつかみだすには「絶対非演出」であるべきだと説いた。やがて社会性を強調する言葉が強くなり、若い世代のアマチュアや写真家志望者を感化した。

土門を起用したのは、48年9月号から編集長を務めた桑原甲子雄である。桑原は今後の写真雑誌は社会と連動して機能するとみていたが、これは津村の方針とほとんど重なるものだった。

一方の津村が掲げたキーワードが「シャッター以前」である。初出は本誌50年4月号の「編集室」欄で、あるレベル以上の写真家にとって「作品の主たる内容はシャッター以前の問題が大きな部分を占める」としている。では「以前」とは何か問うと「人間性の問題であり、同時に美に対する直観力であり、そういうものが養成されているかいないか」(同年10月号座談会「作画精神を語る」)だと答えている。

リアリズムにしてもシャッター以前にしても、推進者たちは戦前から続くアマチュア写壇を批判することで自らをその上位に置いた。しかし写壇にはその批判を吸収したうえで実作として展開するものが少なかった。実力のあるリーダーをすでに欠いていたことが理由のひとつかもしれない。たとえば前回記したように安井仲治はすでに42年に、福原信三は復刊前年、中山岩太は復刊目前に没していた。

もっとも、一般的なアマチュアのあり方も大きく変化している。団体単位ではなく個人での活躍が目立つようになり、雑誌メディアの影響力が直接作用するようになっていた。ほかならぬ本誌にしても、かつて本誌を支える基盤だった全日本写真連盟とは「戦後は殆ど関係がないようになった。つまり互いにそのよりどころではなくなって来た」(『全関西写壇五十年史』全日本写真連盟編)のだった。こうして、写真表現において、個人的主体性が重視される土壌が形成されていった。

アサヒカメラの90年 第8回
写真の復興期の終わり

木村伊兵衛の旅

1954(昭和29)年、復刊5年目の「アサヒカメラ」は、編集長津村秀夫のもとで順調に発行部数を伸ばし、戦前の記録を塗り替えて16万部に達していた。その原動力のひとつが木村伊兵衛の活躍だったが、評価は復刊号の表紙に代表される女性のポートレートに偏っていたから、彼自身はジレンマを覚えていた。ことに51年の集団フォト第1回展で、アンリ・カルティエ=ブレッソンの作品「マチスの生活」を見たことでその思いは強まっていた。

木村は本誌49年11月号の座談会「戦後アメリカの写真芸術」でカルティエ=ブレッソンの有名な「サン・ラザール駅裏」を見て「なんだかキミが悪い」と感想を漏らしている。だが、このとき「俺はこれを忘れていた、写真の使命を忘れていた」(『木村伊兵衛読本 フォトアート臨時増刊』研光社)と痛感した。

その写真に衝撃を受けたのは木村だけではなかった。53年、前年にフランスとアメリカで出版されたカルティエ=ブレッソンの傑作写真集が輸入されると、アメリカ版のタイトル『The Decisive Moment』が「決定的瞬間」と訳されて一種の流行語となり、本誌でも立て続けに特集が組まれた。

一方、発奮した木村は52年には「リアリズム写真」の先鋒だった「カメラ」誌の月例審査員を土門拳とともに担当。さらに戦後、農村の変容をテーマにした連作「秋田」に取り組み始め、翌年は本誌で東京の生活を撮った作品を発表するも、ただ評判は芳しくなく、54年3月出版の『木村伊兵衛傑作写真集』(朝日新聞社)では反省の弁をこうつづっている。

「戦後8年を経て、仕事上の問題を体で解決したつもりだが、横道へそれて、写真メカニズムの持つリアリティを駆使して人間生活の社会的現実をえぐり出すまで自分自身を持って行っていない。何か大きな反省がなければ、ずるずると自己を甘やかしてしまう」

転機を与えたのは、約4カ月のヨーロッパ外遊である。海外渡航が制限されていた当時、貴重な機会を提供したのは津村だった。彼は日本人写真家の海外ロケ作品が本誌に必要と考え、また木村の労に報いようという意図もあった。このとき津村の出した条件は、「カラーでも撮影すること」だった。

本誌54年6月号では木村の出発を8月上旬と告知したが、羽田を発ったのは9月2日。遅れた理由は渡欧決定の直後、写真家集団マグナムに属する2人の著名な写真家、ワーナー・ビショフとロバート・キャパの訃報が届いたからだった。ことにビショフの死はあまりに大きかった。

ビショフは戦後の若い世代を撮影するために、51年8月に来日し、木村とは三木淳を通じて知り合っていた。以降、翌年3月までの滞日期間を通じて、2人は「兄弟のように親しくなった」(本誌54年8月号「ビッショッフさんの思い出」)。

ビショフは人柄も控えめで写真への姿勢も木村に近く、「人間生活の小さな面を掘り下げていくことが、自分の一生の仕事」であり「大きなニュースはその場限りだが、世界の隅々の人間の悲しみや喜びは永遠に人の心をうつ」と語っていた。欧米の写真事情、例えばマグナムやカルティエ=ブレッソンについても詳しく教えてくれた。その概要は本誌51年11月号の座談会「ウェルナー・ビショッフに聞く欧州写真界の俊英たち」から多少知ることができよう。

キャパは54年4月に創刊された「カメラ毎日」の招きで来日し、同誌の対談(7月号掲載)の席で木村と顔を合わせている。キャパはビショフから木村のことを聞いて親しみを示し、3人での再会を希望した。だが、その直後の5月16日にビショフは南米ペルーで、キャパは25日に仏領インドシナ(現ベトナム)での取材中に亡くなった。

思想と骨組み

喪失の悲しみを経て木村は旅に出た。香港、バンコク、ラングーン、カラチ、カイロを経由してアテネに到着。ローマを入り口にイタリアを周遊してチューリヒに向かった。そこでビショフ夫人との再会を果たした。さらに北上してドイツと北欧の3カ国を訪問、パリに入ったのは10月10日だった。

木村は各滞在先で写真を撮り、そのフィルムを日本に送った。本誌では54年12月号から「木村伊兵衛外遊作品集」(翌年12月号まで)と「欧州通信」(翌年2月号まで)の連載が始まった。ほかにカラー作品は巻頭口絵や表紙にも使われ、見知らぬ外国の都市を、通過者の目ではなく、自分の生活圏のように撮った写真は見るものを驚かせた。

その中心は“花の都”パリの写真で、4〜8月号の5号分を占めている。木村は当地で、ようやく開放的な気分になった。1月号の「欧州通信」で、パリは「人間が大人で気持ちよく」「言葉が通じなくてもからだがなにか感じてきます」と書いた。ただ、「パリはうまく写せない所らしい」と弱音を吐く。

エンジンが掛かるのは後半、カルティエ=ブレッソンと対面してから。二人はカルティエ=ブレッソンが準備中の写真集『Les Europeens(ヨーロッパ人)』を挟んで深く話し合い、ともにパリの街を撮影した。さらに生粋のパリっ子であるロベール・ドアノーを紹介されて意気投合し、「私の気持ちが明るくなったせいかどんどん写真が撮れるようになった」(「カメラ毎日」57年5月号所載「パリで会った彼の印象」)。

木村はパリに2カ月滞在し、この間ロンドンにも足を延ばした。そして12月10日に現地を離れ、再びイタリアを回って25日に羽田に戻った。

翌55年、各写真雑誌に外遊作品が掲載されるほか、2月からは銀座を皮切りに全国7都市で「木村伊兵衛外遊作品展」が開催された。同月、「日本写真界につくした功績、特に外遊作品」で菊池寛賞を受賞し、8月には『木村伊兵衛外遊写真集』(朝日新聞社)も出版されて好調な売れ行きを示した。

この間の6月、木村はヘルシンキでの「世界平和集会」に出席するため、再度の外遊に出ている。大会出席後はパリに向かい、カルティエ=ブレッソンとドアノーとの再会を楽しみ、ドイツ、スペイン、イタリアを回って9月20日に帰国した。

木村が外遊で得たのは、他者からの評価だけではない。本誌55年3月号の座談会「欧州撮影旅行から帰って」では、この長旅で「カメラマンの思想と骨組み」の大切さを実感したと述べている。それは、確かなヒューマニズムと社会観によって報道写真家としての主体性を確立し、社会的現実を力強く表現することだった。

木村が本誌と異例な契約を結んだのはその2年後。57年8月発売の増刊号から作品発表が本誌のみになった。「同氏の仕事の分量を整理し、安んじて制作に専念できる場を進んで提供する」ためと、誌面は語っている。専属写真家となった木村は、8月号から連作「日本人」シリーズ(翌年12月号まで)を発表し、さらに「新発売カメラをバラバラに分解してのレポ」と銘打った「ニューフェイス診断室」を担当する。木村の外遊は際立った例だが、写真家の海外渡航そのものは増えている。たとえば渡辺義雄は56年春にアジア連帯文化使節団の一員としてヨーロッパ、インド、ソ連、中国を周遊して本誌に作品を連載(57年1〜4月号)。三木淳は54年にニューヨークのライフ本社に招かれ、5カ月間滞米した。ほかにもひと月前後の短期間の渡航例などはすでに少なくなかった。

海外渡航の増加は、時代の節目を示す現象といえる。55年に国民総生産(GNP)は戦前最盛期の水準を超え、翌年発表された経済白書は「もはや戦後ではない」と結ばれた。日本は高度経済成長期と国際化へのとば口に立っていた。

批評家と写真家

敗戦後、日本の写真界はアメリカを中心とするフォトジャーナリズムから強い影響を受けた。その表現の頂点がカルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」だとすれば、集大成は「ザ・ファミリー・オブ・マン(われらみな人間家族)」である。56年3月の日本橋高島屋から1年半をかけて日本を巡回し、約百万人を動員した史上最大の写真展である。

本展はニューヨーク近代美術館の開館25周年を記念して、写真部長のエドワード・スタイケンが企画し、38カ国を巡回。文化や人種の壁を超えた人類共通の営みを通して普遍的なヒューマニズムを表現することを目的としていた。日本展での総展示数は、日本でのみ出展された写真、例えば山端庸介の長崎原爆被害の写真など30余点を加えて500点以上になった。

展覧会は開催前から世間の耳目を集めた。本誌でも55年11月号でスタイケンを囲む座談会が開かれ、展示に対する期待が語られている。じっさい日本巡回は終始大好評だったが、ひとつの問題が日本の写真関係者に疑問を投げかけた。開幕直後、米国大使の招待で昭和天皇が来場したさい、山端の写真がカーテンで覆われ、後に撤去されたのである。

これに対し日本の写真評論家らはすぐさま連名で抗議し、本誌56年6月号の座談会「最近の話題を語る」でも取り上げられた。ことに名取洋之助は、この展示は「アメリカ人がアメリカ人に見せるもの」「私はこれを日本で大勢が見ることが、果たしていいかどうか、いい影響を与えるかどうか。少なくとも私は甘いと思う」と手厳しい。

前号でも触れたように、本誌の特色は痛烈な批評欄にもあった。例えば、その矛先は新しいスターと位置づけられていた濱谷浩にも向けられている。濱谷は、戦前から撮り続けていた新潟県の山間部の民俗行事や農業儀礼を、56年に写真集『雪国』(毎日新聞社)にまとめて、第2回毎日写真賞を受賞。さらに、戦後の復興から取り残された日本海側を取材した「裏日本」シリーズを「中央公論」などに発表して話題を呼んでいた。57年1月号の座談会「話題の作家を検討する」では、その濱谷に対して、まず伊奈信男が口火を切る。

「あの人の根本的な態度というか、そういう深いところに問題があるような気がする。自分が、何か頭の中に造っているようなものばかり探している。だからほんとうの日本の貧しいところとか、裏日本のわびしいところとか、そういうものの実感があまりない」

それを受けた渡辺勉は感傷的な濱谷が「ルポルタージュをやると見られない。何をもとにしているかわからない」と述べ、浦松佐美太郎は造形性は優れているが「社会問題でも何でもない」とした。

この辛辣(しんらつ)な評は読者からの反発を招いた。翌号の投書欄「談話室」には、思想的な裏づけのある濱谷の写真を、ある型に嵌(は)めて評するのは不当であるとの意見が掲載された。差出人は早大生の栗原達男で、彼は3年後の安保闘争下で濱谷の取材を助け、卒業後には朝日新聞社出版写真部の一員となって活躍する。

もちろん、最も不満を募らせたのは当の写真家たちだ。4月号の座談会「写真批評をめぐって」では、三木、秋山庄太郎、稲村隆正らが評論側の浦松と金丸重嶺に反論した。批評家は何を基準に語るのか、批評の対象範囲を広げ、写真家を伸ばすような示唆を与えるべきではないか。対して批評家側は、見るには物理的な限度があり、そもそも批評は写真家に対して書くものではないと異議を退けた。

いつの時代にもある葛藤だが、それがこれほど率直に語られた時代も珍しい。敗戦で主体を喪失した写真家と批評家たちは、それぞれが「思想と骨組み」とは何かを真剣に求めていた。そして、編集長津村が、その欲求を活性化させる場を設けたのだった。だが、戦後の復興期が過ぎゆくにつれ、求められるものが変わり始めたようだ。それを察知したように、津村は同号で編集長を去り、伴俊彦にその席を譲った。

この頃、本誌には新しい世代の写真家が登場し始めていた。それはアメリカ国籍を持ちシカゴのニュー・バウハウスで学んだ石元泰博、岩波写真文庫を経てフリーになった長野重一と東松照明。「ザ・ファミリー・オブ・マン」日本展と同年に初個展を開いた奈良原一高、今井寿恵、常盤とよ子、北代省三。さらに近代映画社から独立した中村正也。海外作家ではロバート・フランクやウィリアム・クラインなども話題に上った。

また、ドイツのオットー・シュタイナートが提唱したサブジェクティブ・フォトグラフィーが「主観主義写真」の訳で日本に紹介され、56年には「日本主観主義写真連盟」が結成されている。運動として大きな盛り上がりには至らなかったが、写真のあらゆる方法を使い、写真家は主観的な表現をすべきという主張は、先の若い世代の表現と共通する傾向だった。

ことに奈良原は火山灰の村と海上炭鉱を新鮮な映像感覚で切り取った「人間の土地」展で非常な注目を浴びていた。

アサヒカメラの90年 第9回
1960年前後、「第三の新人」たちをめぐって

写真産業の青春期

1962(昭和37)年6月号に、木村伊兵衛の「57台のカメラで銀座夜景を撮影する」というリポートが掲載された。

「銀座夜景」といっても、ロマンチックな思い出を語ったわけではなく、57年8月号から担当してきた「ニューフェース診断室」で取り上げたカメラやレンズについて振り返っ
たものだ。

「銀座夜景」とは、銀座4丁目の三越百貨店前から晴海通りに沿い、日比谷方面を狙って夜間にテスト撮影を行うからだ。見通しがよく、通り沿いの建物が立体チャートの代わりになるし、夜であれば季節ごとの天候や光線状態に左右されない。

この欄を担当してからの5年間の変化はまことに激しい、と木村は言う。まず晴海通りを走る自動車の量や、ネオンサインの数が飛躍的に増えた。しかし、こうした風景の変化よりも重要なのは、カメラの主流が変わったことで、「五年の間に距離連動カメラから一眼レフになり、大衆用カメラに露出計が内蔵され、近ごろではEE式になってきた」のだ。

日本のカメラメーカーが一眼レフの可能性を模索し始めたのは、50年代半ばから。それは54年に発売された、初めてクイックリターンミラーを採用したアサヒフレックス供憤宛学工業)や、翌年のペンタプリズムを付けたミランダT(オリオンカメラ、後のミランダカメラ)から始まった。開発への努力は54年にレンジファインダー機の完成形、ライカM3が発表されると拍車がかかり、5年後にはニコンFとキヤノンフレックスという高級機が発売されるに至った。

このうちニコンFは、一眼レフの代名詞的となる世界的なヒット機種に育ったことはよく知られている。ただし59年9月号の「ニューフェース診断室」では、工作精度は高いが、内面反射が多くミラーショックも大きく、デザインにも難点があると指摘している。

興味深いのは、これを読んだニコンの若手技術者が編集部に乗り込んできたことだ。木村は彼らの行為に驚きつつも、「疑問をはらすための熱心さかと思えば、却って好感が持てた」と振り返っている。また、この話とは直接関係はないが、61年5月号に掲載されているキヤノンの広告には「平均年令27才」というコピーが入っている。これは前年のフォトキナで発表した50mmF0.95のレンズを開発した技術者たちの年齢だとある。

いずれのメーカーも若い情熱によって、戦前から追いかけてきたドイツ製カメラの量と質とを猛追していた。そして工作精度の向上、自動演算装置を使った合理的な設計、徹底したコストダウンと品質管理によって輸出は急増し、その目標は手の届くところまできていたのだ。木村はこうした努力を重ねるカメラメーカーの努力を認めながらも、機材の個性、ことにレンズの味を出すように求める。「もっと各社が個性をもつべきだ。解像力だけにきゅうきゅうとなってはいけない」と、呼びかけたのである。

「第三の新人」

本誌の編集長は、60年7号に伴俊彦から小安正直に代わっている。

休刊期を除き、36(昭和11)年から本誌の編集に関わってきたこの大ベテランは、12月号の巻頭に今年の10大ニュースを挙げた。それは土門拳の『筑豊のこどもたち』(パトリア書店)の出版、第1回日本カメラショーの開催、安保反対デモへの写真家たちの参加と濱谷浩の『怒りと悲しみの記録』(河出書房新社)など関連写真集の出版、日本写真家協会による共同制作展「ここにあなたは住んでいる」の開催などである。

加えて、小安は「とくに目立ち、問題を将来に残している二つの傾向」を紹介した。それは「若い写真家たちによる“新しい写真表現”の試み」と「高級カメラの大衆化」で、後者は前節で触れたことと関連する。

また前者はテーマをより主観的に解釈して、写真家個人と世界との関係を一種のイメージとして描き出す写真家を指す。ただ、彼らが悩ましいのは、「今年のカメラ雑誌のほとんどを圧倒したといってよいほど、立派な問題作を残した。それと同時に、抽象化された画面、非常に強調された色調、そして特異な写真処理といった特徴は、アマチュアたちの間に“自分たちはついていけない”の嘆きさえ生みだし」ていたからである。

そんな写真家たちの先頭にいたのが奈良原一高だった。56年5月に2部構成の初個展「人間の土地」を開催した当時、奈良原は写真界とは縁がない、美術史を専攻する25歳の大学院生だった。つまり突然現れた新人が、こと同世代に痛烈な刺激を与えたのである。

たとえば奈良原より3歳年長の写真評論家福島辰夫は、展示から数カ月を経てもその記憶が薄れなかった。なぜなら、「あんなに時代のいぶきを全身に受けて、いきづいている写真を見たことがなかったからである。自分の世代と人生を誠実に生きている写真を見たことがなかったからである」(「カメラ」57年2月号「これからの写真家・2 青白い火花 奈良原一高」)。

この展示に刺激を受けた福島は、翌57年、同じ時代感覚を共有する若い写真家による「10人の眼」展を企画、奈良原をはじめ細江英公、石元泰博、川田喜久治、川原舜、佐藤明、丹野章、東松照明、常盤とよ子、中村正也がこれに参加した。彼らは年長の、三木淳ら集団フォトの世代とは区別されて、写真界の「第三の新人」あるいは「映像派」などと呼ばれた。

そのなかでも奈良原は一頭地抜けていた。ことに58年9月に、北海道のトラピスト修道院と和歌山の女子刑務所を撮影した、やはり2部構成の写真展「王国」によって日本写真批評家協会賞新人賞を受賞すると、世代を超えた評価を確立した。

福島と同じく、写真評論家の伊藤知巳もまた奈良原を強く支持し、「フォトアート」誌59年9月号の「今月の話題・問題」では「奈良原の存在意義は、一般に考えられている以上に重要な意味合いをもつ」と位置づけている。それは「第三の新人群と総称しても、方法意識の強烈さでは、かれの右に出るものはないと思われた」からで、常に自己の孤独な内面を見つめる奈良原は、思想を持った写真家と呼びうる希少な存在とした。伊藤は写真界の発展には、このような写真家のさらなる出現が必要だと訴えた。

伊藤がこの原稿を書いていた7月、その奈良原を含め、東松、細江、丹野、佐藤、川田はセルフエージェンシーであるVIVOを結成した。新しい写真家たちそれぞれの、経済的自立と創作の場の確保を目的とした有限会社であった。

1960年の戸惑い

60年は新年号から「“新しい写真表現”の試み」といえる3本の連載が始まっている。北海道の歴史性を重層的に浮かび上がらせた奈良原のカラー作品「カオスの地」、時事問題をテーマにした長野重一の「話題のフォト・ルポ」、そして在日米軍基地の周辺を撮影した東松照明の「基地」である。

このなかで長野は、奈良原や東松より5歳ほど年長で、集団フォト世代に入る。ただ、その「フォト・エッセイスト」と称された作法は、「第三の新人」たちの表現性と近い。日常生活から社会的なテーマを見つけ、正論やコンセンサスをひっくり返して、個人的な視点と生理的な感覚によって撮影していた。

そんな長野だが、この連載では様子が違っていた。日常生活ではなく、日米安保条約改定前後の政治状況をテーマに据えることが多く、「ある学生たち」(2月号)、「警視庁機動隊 国会流血事件前後」(8月号)、「政治屋たち」(9月号)、「選挙区の名士たち 池田首相のお国入り」(11月号)と全体の3分の1を占めたのである。そこには戦時下に大学時代を過ごし、多くの同輩を戦場で失った世代としての怒りがストレートに表明されている。

また翌年7月号では「空と海との間に ある鉱山企業の歴史」を15ページにわたって発表している。愛媛県にある別子銅山の現在から、財閥を基礎にし、日本の資本主義の発展過程を象徴的に表現しようとした意欲作だった。

東松の「基地」は、戦後の社会状況を米軍基地の街を通して描出したもので、長野の「話題のフォト・ルポ」に比べてかなり詩的である。後にこれが「占領」シリーズと呼ばれるのは、いずれの冒頭にも「とつぜん 与えられた 奇妙な果実 それをぼくは<占領>と呼ぶ」というコピーが挿入されたからである。

占領は以降も東松にとって重要なテーマであり続けるのだが、このときは「HARLEM(黒人街)」(横須賀)、「視線」(千歳)、「周辺の子供たち」(三沢)の3回で終わった。一部の強い支持を集めたものの、多くの読者と編集者には戸惑いを与えたようだった。

その戸惑いを解きほぐすべく、評論家の渡辺勉は9月号に「新しい写真表現の傾向」を寄稿した。渡辺は、新しい写真家たちは写真という表現ジャンルが確立した後に育った世代だから、「写真の視覚的表現力を自由に探究」できるという。そんな彼らは、事実を伝達するために映像的レトリックの効果を用いるのではなく、方法論そのものに自己のイメージを託す。このような傾向は「これから普遍的となりつつある」のだと渡辺は説いた。

だがこの理解に対し、翌10月号で名取洋之助が「新しい写真の誕生」で異議を唱えた。名取は、「新しい写真」とは組写真におけるイメージの連なりのなかでこそ現れる傾向だとし、それを論証するために同じ「岩波写真文庫」出身の長野と東松を例に挙げる。

小さな論争

長野と東松、この二人は報道写真から出発したものの数年前から違う道を選んだ、と名取は言う。長野の場合、映像的なレトリックを駆使してもそれは「ストーリーを理解しやすくするための手段に過ぎず」、本来の報道写真家の舞台ではない写真雑誌でひとつの「芸当を見せただけ」のことである。

一方、東松は組写真からストーリーを消し、イメージのみを残す道を選んだ。それは報道写真家にとって必要な「特定の事実尊重を捨て」て「時とか場所に制限されない方向に進む」ことである。つまり、彼は「報道写真とは、時間、場所にとらわれないことによって絶縁してしまったのだ」。

さらに11月号では東松が「僕は名取氏に反論する」を、奈良原が「ある未知への発端」を発表してこれに反論した。ここで東松は、自分はそもそも名取のいう報道写真家ではなく、「いわゆる報道写真を拒否したまでだ」と述べる。なぜなら「写真の動脈硬化を防ぐためには『報道写真』にまつわる悪霊を払いのけて、その言葉が持つ既成の概念を破壊すること」が必要だからだ。この「悪霊」とは、名取らが主導して軍国プロパガンダに陥った、戦前の報道写真の歴史に対する端的な形容である。また奈良原は、自身が写真に関わる理由は、個人的な生理感覚によるものだとした。

以上のやり取りは「名取・東松論争」と呼ばれ、誌面に小さな波を立てた。

その余談ではあるが、論争の発端となった名取の「新しい写真の誕生」は、当時から名取ではなく、そのマネジャーの犬伏英之が書いたものと推測されている。それは東松自身も感づいていたようだ。ただ、さらに後になって、「岩波写真文庫」時代から常に名取が自分に仕事を回していたことを知り、「そういうことを分かっていればあんな論争できないですよ」(『写真年鑑2008』日本カメラ社)と振り返っている。

さて、翌61年にはかつて朝日新聞出版局写真部のカメラマンが担当していた「現代の感情」が、新しい写真家を紹介するためのページとして復活している。そのラインアップは川田喜久治、川島浩、今井寿恵、中村正也、石黒健治、藤川清という、すでに知られた才能だった。これが62年には「新人」と改題され、キャリアの少ない若手にとって登竜門的な役割を果たすようになる。

むろん本誌は、新しい写真家ばかりを取り上げていたわけではない。61年には濱谷浩が「日本列島」を連載し、その迫力に満ちた空撮は読者の大きな反響を呼んでいる。これは国民的な盛り上がりを見せた安保闘争をすぐに忘れた日本人の国民性に疑問を感じた濱谷が、その心性がどんな地形や風土から育ったのかを見つめようとしたシリーズだった。

日本人が戦後の高度経済成長を実感しているこの頃、日本人の民族性をテーマに据えた作品は少なくない。その筆頭は間違いなく土門拳で、彼は59年に1年間、「カメラ毎日」で「古寺巡礼」の連載を手がけ、それと並行して本誌でも全国の祭礼をめぐる「日本風土記」を、62年には歴史的な建築や遺物を凝視した「偏執狂的な風景」を連載した。さらに、この間の60年には『筑豊のこどもたち』とその続編を出版したが、同年、脳出血で入院を余儀なくされ身体的なハンディを負った。

こうして写真雑誌の主役が交代しながら、誌面を飾る写真表現の範囲も拡大していった。高度経済成長とともに広告やファッション、あるいは自然をテーマにした写真が誌面に華やぎをもたらすのである。

4−6

アサヒカメラの90年 第4回
絶頂期とその転落─―小型カメラブームとともに

アサヒカメラ時代」来る!

『朝日新聞出版局史』によると、創刊時が7千部台だった「アサヒカメラ」の発行部数は、10周年を越えた1937(昭和12)、38年ごろ9万部台に達したとある。

じっさい37年1月号「昭和十二年を迎へて 本誌発行部数の驚異的飛躍」には、33年以降、毎年50〜60%の伸び率を記録していること、掲載広告も記録的に増加したことが報じられている。この実績を背景に筆者は、「今や全く『アサヒカメラ時代来る』の観を呈するに至ったのであります」と得意げだ。確かに、部数と内容とも、この時点がひとつの絶頂だった。

この成功に導いたのは、3代目編集長の松野志気雄である。松野は25(大正14)年、早稲田大学在学中に東京朝日新聞社に入社。成沢玲川のもとで「独逸国際移動写真展」などに携わった後、33年7月号から編集を任されると、より娯楽性に富んだ大衆路線を推し進めた。誌面に漫画や小説的なグラフ構成を取り入れるほか、先端の芸術論だけでなく、体験談や座談会など写真家の生の声を積極的に紹介した。さらに別冊付録や、安価な増刊号(季刊)の発行など新企画を打ち出している。

もっとも本誌だけが順調だったわけではない。すでに大小合わせて20以上の写真雑誌が発行されていて、その多くが初心者を対象に成果を上げていた。つまり写真趣味のすそ野自体が急速に拡大していたのだ。

背景には昭和恐慌からの経済回復があった。高橋是清蔵相の主導する為替切り下げによる輸出増、低金利と財政出動による景気刺激策が奏功したのだった。重工業に大きな発展がみられ、自動車会社など新しい産業も誕生した。写真関係では、34年に富士写真フイルム(現・富士フイルム)が設立されている。

なにより写真趣味に決定的な影響を与えたのは、カメラの小型化と感光材料の進化だった。小型カメラは、すでにヴェスト判の各種カメラに一定の人気があったが、フィルムの感光・感色性能やレンズの描写力も貧弱で、新興写真ブーム以降の精密な描写を求める声に応えられない。そこで注目されたのが、ドイツのライツ社製のライカだった。

最初のライカA型が発売されたのは25年で、本誌ではすでに創刊年から広告が掲載されている。だが固定レンズであることや、映画用の35ミリフィルムという原板の小ささからアマチュア写真家は好まず、記事でもあまり取り上げられていない。

だが30年のC型からレンズ交換式となり、2年後のD型でレンジファインダーが採用されたことで活用範囲が広がった。さらに、このころ映画用フィルムが改良されてパンクロマチック(全色感光)になり、トーキー化にともない微粒子現像の技術が発達したことで高画質な印画が得られるようになり、一気に人気を得た。

さらにライカの後を追うように35ミリのコンタックスI型(32年)などの高性能機種が登場したことで、小型カメラブームが訪れた。そんな折、佐和九郎らが35年8月号に執筆した「『ライカ』と『コンタックス』とどちらがよいか?」はさらに人気を煽って、長きにわたるライカ・コンタックス論争の突端となった。

同時に日本でも小型カメラの可能性が模索され始めた。たとえば精機光学研究所(現・キヤノン)による35ミリレンジファインダーの試作機「KWANON」の広告が掲載されたのは、34年6月号のことである。

本誌でライカが特集されたのはその前年、33年10月号の「特集小型カメラ写真術」が嚆矢である。そのうち「ライカ写真術」の項を執筆したのが30年にA型を購入して以来、そのメカニズムを研究し尽くしていた木村伊兵衛だった。彼はまず自信に満ちて「ここ数年間はライカカメラを凌駕する程の、精巧にして堅牢、又多面的なカメラは現れないでせう」と前置きしてから、2号にわたり扱い方を解説した。

ちなみにこの時点でのライカの値段はC型がおよそ300円、D型で420円と極めて高額。その値段にふさわしいことも、木村が実作によって立証したのである。

報道とスナップ

木村がライカ使いとして手腕を発揮し始めるのは、32年創刊の同人誌「光画」からと見てよい。同誌は木村のほか野島康三、中山岩太という個性的な実作者と、2号から参加した先鋭的な評論家の伊奈信男という同人に加え、多彩な実作者や理論家が寄稿したこともあって写真界の耳目を集めた。

木村は同誌で、近代化されてゆく東京の、庶民の日常的な暮らしをスナップした作品を相次いで発表した。そこにはモダンデザイン的な感覚で都市空間を切り取った新興写真とも違う、リアリティーの追求があった。木村の志向は、創刊号に掲載した「工場地帯」を指して野島に放ったという次の言葉からもうかがえる。

「ここに人間が住み、ここには人間の赤裸々な生活がある。これが本当の写真だ」(『フォトアート 臨時増刊 木村伊兵衛読本』研光社 56年)

木村の実作を、理論面で補完したのは伊奈である。創刊号に掲載された論文「写真に帰れ」で、彼は機械の目を通して生まれる新しい写真芸術は「その人間の属する社会世界の断面であり、自然世界の一般事象以外にはあり得ない」とし、そうした写真を「現実写真(レアール・フォト)」として位置づけている。

33年のヒトラー政権の誕生で、ドイツでルポルタージュ・フォトの仕事ができなくなり帰国していた名取洋之助もまた、木村や伊奈の活動に注目していた。彼には、ある構想があった。海外に向けて日本を紹介する写真の配信などの版権業務と、写真を使った印刷物の制作のための組織を立ち上げることで、そのために必要な人材だと考えたのである。

そこで2人に加えて図案家の原弘など「光画」に集った人々を誘い、名取は同年8月に日本工房を立ち上げた。そのさい伊奈が、日本にはなじみの薄い組み写真をもとにしたルポルタージュ・フォトを「報道写真」という言葉に置き換えている。

日本工房は、彼らの掲げる報道写真を実例で示すため、12月に銀座で木村の「ライカによる文芸家肖像写真展」を開催した。展示された二十数名の作家や評論家らの肖像写真は、顔に強く照明を当て一瞬のナチュラルな表情を切り取ったもので、ローキーに仕上げられていた。それは写真館で撮られるのとはまるで異質な表現であった。木村自身「この文芸家の肖像写真は、従来の肖像写真への対決」(『木村伊兵衛読本』)と位置づけ、被写体の性格描写に取り組んでいた。本誌34年1月号にも掲載され、木村の技量とライカの性能が全国の読者に広く知られた。

このように、活用範囲の広いライカをじっさい実用に使ったのは木村や名取をはじめ、渡辺義雄、堀野正雄、濱谷浩といった新しい報道写真の担い手たちだった。それに対して、新聞社や通信社など、既存の報道機関で採用されるのは遅く、その契機は36年の「2・26事件」だったといわれている。ただそれでも長く手札判以上のパルモスなどが主流だった。

その理由については、32年7月号「新聞写真 未発表の撮影戦」座談会がヒントを与えてくれる。原板の小ささに不安があり、撮影枚数も多すぎて持て余すという発言があるのだ。これは起こった事実を一枚で的確に表す新聞写真と、複数枚による組み写真によって事実の経緯を多面的に物語るルポルタージュ・フォトが、報道という同じ分野にあっても違った思想に基づくことを示している。

あこがれのハワイ航路

当時、ライカ作家として読者から最も人気があったのはパウル・ヴォルフ。躍動感をともなった明朗なカメラワークと、35ミリの原板から全紙への大伸ばしに最適な現像法を発見したことで知られるドイツの写真家である。35年に東京で「パウル・ウオルフ写真展」(東京朝日新聞社主催・日本工房提供)と「パウル・ヴォルフ・ライカ作品展」(ライツ社主催)を開催して大きな成功を収めた。本誌でも展覧会に合わせ10月号で「DR・PAUL WOLFF傑作写真集」が特集された。その解説に成沢玲川は、ヴォルフの作品は芸術的であり実用的、また作風の中庸さゆえに「永遠性」があるとし、「古い『芸術写真』も新しい『新興写真』もその使命を終えた」と宣告している。

この時期の誌面は小型カメラブームによって、活動的なスナップ写真で彩られている。それを通して見えてくるのは、当時の都市文化やレジャーブームに、写真が強く密接に結びついていることだ。

前者は木村が審査に当たった「都市美・都市醜の写真懸賞募集」(36年8月号)のほか、矢野修二の「冬の都会に取材を探る」(37年12月号)といった記事に表れている。また脚本家北村小松が原作を、金丸重嶺が写真を担当した、ミステリー仕立てのグラフ構成「連載小説 骰子」(36年1〜3月号)なども都市の暗黒的な魅力をよく描いた。

後者についても、実践的な撮影ノウハウや作例が繰り返し掲載されている。それは郊外へのピクニックから始まり、山野での野鳥の生態観察、登山、航空写真、各種スポーツなどと多彩である。具体的な撮影地ガイドが本誌に掲載され始めたのもこの時期からで、鉄道のほか普及し始めたばかりの自動車からの撮影術を教示しているのも興味深い。

一般の読者にとって、夢のような特集も登場した。36年7月号の野島康三による「ワイキキの唄 布哇カメラ行脚」だ。野島夫妻が福原信三夫妻とともに訪れたハワイ旅行の記録を、16ページにわたって構成した、いわば観光ルポである。重厚な作風で知られた野島が伸びやかなスナップ写真を披露したことも、新鮮な印象を与えた。

この30年代における観光ブームは、外国人観光客の誘致を目的とした国策から生まれている。鉄道省に国際観光局が設けられたり国立公園法が制定されたりするなど、観光インフラが整備されて、日本人の国内旅行も活性化した。

誕生したばかりの報道写真の揺籃も、この観光政策だった。外務省系の国際文化振興会の協力によって、34年に日本工房から創刊された対外宣伝誌「NIPPON」には日本の文化的魅力をアピールする目的があった。その日本工房から早々に分かれた木村伊兵衛らが参加した国際報道写真協会は、国際観光局発行の観光用グラフ誌「TRAVEL IN JAPAN」の編集に携わり、37年のパリ万博では巨大な「日本観光写真壁画」の制作を担当した。さらに同年11月の木村による「日本を知らせる写真展」と、翌年それをまとめた英文写真集『JAPAN THROUGH A LEICA』(三省堂)も同様の目的をもっていた。

暗転

さらにこの時期の誌面の特徴として挙げたいのは、学生写真家の登場回数の増加だ。このころ多くの私学や帝国大学に写真部が次々と誕生し、横断的な組織である全日本学生写真連盟も結成され、その盛り上がりは、中年層が主流だったアマチュア写真界に爽やかさを与えた。

大学写真部のなかで有力だったのは慶應のカメラクラブ(KCC)と早稲田の早稲田写真会で、それぞれに百数十人の部員が所属し、両校の対抗写真展も行われた。ことに慶應にはライカやコンタックスを使うものも多く、野島康三や佐和九郎らを顧問に迎えて写真の質を高めていた。そこから在学中に写真工房を開き、指南書さえ執筆した原正次のような才能も育った。

ともあれ絶頂期の本誌は若々しく華やいでいて、写真界の将来性も予感させる。その気分をより端的に知ってもらうには、37年3月に本誌提供で発表された流行歌、サトウハチロー作詞による「恋のプロフィル」の歌詞に触れるのが早道かもしれない。

「むねのレンズに いつよりか あの面影が やきついて いくらふいても 消えませぬ いっそシャッターを きりましょか」

この甘く切ない曲が、どれほどヒットしたかは定かではない。結果を知る前に、この絶頂期は突如として終わりを告げたからだ。

37年7月の盧溝橋事件と翌月の第2次上海事変から始まる日中戦争が、本誌の誌面を一気に変えた。事変以降の特集をみると、10月号「戦争」、11月号「決死従軍写真班 北支・上海を語る」、12月号「戦争写真物語」と並ぶ。戦場写真のグラフ・モンタージュや写真記者の体験談が大きく扱われ、無論、銃後のアマチュア写真家への指導的提言も掲載されはじめた。

一方、多くの読者の気持ちは、39年版の『日本写真年鑑』(朝日新聞社)に唐澤純正が寄せた「アマチュア写真界の足跡」の冒頭に書かれているようなものであったろう。

「いい気になってカメラ片手に浮かれていると、いきなり後ろから、それこそ予期しなかった強力な手で、いやと云ふ程どやされた。それも一度ならず、二度三度と続け様に殴られた。そして当然、意識朦朧として茫然自失してしまった」

以降、戦争が長期化するにつれ本誌の編集方針はより委縮し、積極的に国策に沿うようになるのである。

アサヒカメラの90年 第5回
写真雑誌の思想戦

アマチュアへの締め付け

1934(昭和9)年3月号に「写壇の権威をあつめて写真の動向を語る」という座談会が収録されている。出席者は福原信三、江崎清、森芳太郎、秋山轍輔、田中敏男、板垣鷹穂、山脇巌、谷口徳次郎、東京朝日新聞社からは編集長星野辰男と計画部長成沢玲川の計10名。ここで新興写真運動が発祥の地であるドイツで終息したことが話題に上る。秋山が前年政権をとったナチスの弾圧でバウハウスが解散してモホリ=ナギも難しい立場になったと語り、さらに森が日本でも同様の事態が起きるのではと懸念を表明した。

「お膝元の日本も、ナチスのように表面立っての圧迫は来ないでせうが、全体としての人心が日本精神の高調といふ方に向って居りますから、これが極く自由な作家の発達を必ず拘束して行く、一種の日本型に、―我々の余り好まない型にはめていきやしないか、と案じて居ります」

対して成沢は、「日本人は中庸を得た国民」だから「極端まで触れない」だろうと返す。

「随分ファッショの心配もあるやうですが、僕等はその心配はないと思ふ。芸術にまで干輿されるといふやうなことが、若しあるとすれば、勃然として反発するだけの輿論が起こることゝ思ひます」

だが3年後に日中戦争が始まると、森の懸念はまず経済面から現実になった。8月には北支事件特別税として撮影機材や感光材料に20%の税金が課せられ、翌月にはカメラの輸入が軍や研究機関関係に制限された。以降、旧満州や中国を通じての裏口輸入はあったが、当然価格は高騰した。

さらに12月に首都南京が落ちても国民政府は降伏せず、予想外の長期戦になった。そこで翌年4月、近衛内閣は国民総動員法を制定し戦時経済体制へと移行、政府の統制下でぜいたくな写真趣味はさらに萎縮した。ただ、皮肉にもこの統制が国内メーカーを育て、戦後の写真産業の発展の基礎ともなる。戦争の長期化はその遂行目的も変質させた。それはスローガンによく表れていて、当初の「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」から、日本・中国・満州の協調による「東亜新秩序の建設」が叫ばれるようになる。戦争が「聖戦」と称され、思想戦の側面が強調された。

日中戦争によって委員会から昇格した内閣情報部が、その思想戦のためにあらゆるメディアを指導管理するなかで、報道写真の積極的活用を始める。当時、写真を使った宣伝戦において日本は遅れているという危機感が政府や軍部、そして新聞社などに共有されていたからである。ことに36年にアメリカで創刊された週刊グラフ誌「ライフ」(タイム社)には、中国における日本軍の行為を非難するルポがたびたび掲載され、日本を非難する国際世論を喚起していた。

内閣情報部は38年1月に、国民啓発の国策グラフ誌「写真週報」を創刊、木村伊兵衛や土門拳など報道写真家を起用する一方、掲載写真を国民からも広く募集した。集められた写真は同誌に掲載するほか、対外宣伝にも使うのである。

写真の活用が重要視されるなかで、アマチュアたちにも「写真報国」や「カメラ報国」が求められるのは当然だった。ただ、そこには厳しい制限が設けられた。防諜を目的とする軍機保護法や要塞地帯法などで撮影制限が強められ、検閲も強化された。ときには思想警察である特別高等警察に拘引されたものもいた。

報道と前衛

本誌を含め、写真雑誌は当局の方針に進んで協力した。誌面には戦地で撮られた報道的な作品が特集され、記事では報道写真や戦線将士への写真慰問の奨励、日本精神の発揮、国産品使用の推進などがより目立つようになった。

時系列的にみると、南京陥落直後に編集された38年2月号には、南京攻城戦で殉職した26歳の写真部員濱野嘉夫の戦場写真をまとめた「事変写真集 故濱野君の『戦争したフイルム』」が大きく扱われている。3月号では時局下の写真業界の動向をまとめた「支那事変と写真」、美術評論家柳亮による「戦争グラフの心理性とその効果(事変と報道写真)」が掲載された。4月号では「文壇人の戦線写真集」が組まれ、従軍した西條八十、林芙美子、大宅壮一、吉屋信子ら作家の写真が直筆原稿とともに紹介された。さらに伊奈信男が「対外宣伝写真論」を書いて、組写真による報道写真こそ「対外宣伝手段としても、最も強力であり適当なものとなり得る」と説いている。

国家総動員法公布を受けた5月号の特集は「写真と宣伝」で、内閣情報部長の横溝光暉が「思想戦と写真」を寄せ「(読者)諸君の腕と機械と設備はいつでも銃後の戦士になり得ることを提唱したい」と宣伝写真の制作を呼びかけた。10月号の特集「報道写真」では渡辺義雄や図案家の原弘という、対外宣伝の実践者たちが「ライフ」の誌面づくりを詳細に分析、極めて高く評価している。また9月号には読者から募集した写真による小冊子「銃後の感謝」が付録されている。都市風景は少しで、女性が田畑で働きつつ家庭を守り、子どもたちが日の丸を振って遊ぶ姿が多く、これぞ求められる慰問写真という典型が示されている。

こうして宣伝と報道への傾斜を強める一方で、芸術表現の新しい傾向がいっときクローズアップされた。シュールレアリスム芸術の思想に基づく「前衛写真」である。

まず7月号でアシヤ写真サロンが、8月号では丹平写真倶楽部と浪華写真倶楽部の傑作集が紹介され、続く9月号の「全関西写真連盟競技傑作集」でも前衛写真とみられる作品が多数含まれている。しかもナゴヤフォトアバンガルド倶楽部の坂田稔が「初歩者のための前衛写真の通俗的解説」を7ページにわたって記したのは、この時期において唯一、芸術写真家たちの成果である。

このように前衛写真は関西写壇から広がりを見せたムーブメントといえる。それが、この年には東京でも「フォトタイムス」誌の後援で、かねてアジェやブラッサイを高く評価していた美術評論家の瀧口修造を中心に、永田一脩、奈良原弘、濱谷浩、田中雅夫らによって前衛写真協会が結成された。

瀧口が同誌38年11月号に寄せた「前衛写真試論」では、カメラによって意図的に現実をゆがめる以上に、客観的な「記録性」の重要さが説かれている。記録とは「自然や生活の中から見出した影像を複製することではなくて、熾烈な証拠を示す」ことであり、「新しい実在性と美の証拠を発見せしめる」からだ。さらに、この「記録性の精神の確立」は、国策における報道写真の基礎をなすだろうともして、時局への配慮を示した。

だがこうしたアピールに効果はなく、前衛写真は広がらなかった。「前衛」や「アバンガルド」という言葉自体が、否定すべき共産主義思想を連想させたからだ。そこで翌年にはナゴヤフォトアバンガルド倶楽部が「名古屋写真文化協会」に、前衛写真協会が「写真造形研究会」へと改称を余儀なくされ、活動は下火になった

戦地にて

長引いて日常化した戦争、それ自体をテーマとして、報道写真家や有力なアマチュア写真家たちは作品を発表した。もちろん彼らの作品は国策に沿った報道的なもので、従軍文士たちが「ペン部隊」として文芸界で果たしたのと近い役割を担ったといえる。

38年11月号から翌年5月号まで連載された、金丸重嶺の「漢口攻略写真従軍日記」はこの点を強く意図したルポである。金丸は9月から2カ月間従軍し、破壊された町や難民、そして日本軍の部隊の様相を写真と文章でつづった。だがそこに彼らしいシャープな切り口は見られず、淡々とした描写に終始しているのは、検閲や自粛のためだろうか。

この従軍中、金丸は名取洋之助や白木俊二郎ら「プレス・ユニオン」の一行としばし同行した。プレス・ユニオンとは、名取が中国派遣軍の肝いりで上海に設立した宣伝用の通信社。この連載の最後は、そのカメラマンだった白木が漢口の激戦で殉職したことへの哀悼で締めくくられている。その言葉は簡潔だが、言いようのない苦さに満ちたものだ。

39年には、福田勝治「鮮満風物写真行脚」(3月号)、小石清「南支従軍写真集」(5月号)、堀野正雄「満蒙支点描」(9月号)、「大陸写真家傑作集」(10月号)などが掲載された。これらは戦場ではなく現地の民俗文化や日常生活をそれぞれの作風のなかで描写したもので、民族の相互理解による「東亜新秩序の建設」を啓蒙する役割を担っている。

40年になると、出征兵士が撮影した写真が掲載されたり、戦地での現像法などが解説されたりし始める。口火を切ったのは2月号の特集「カメラと兵隊」で、『麦と兵隊』で知られる火野葦平が広東省に出征したおりの撮影体験を語っている。火野によれば写真好きの将士はカメラを背嚢(はいのう)に入れて大陸各地を転戦し、記念のポートレートやスナップなどをよく撮っていたという。

まさに火野自身もその一人であり、この号から彼の写真による「僕のアルバム」が連載された(12月号まで)。その写真は前記の金丸の写真よりもフランクで、戦地の日常的雰囲気をよく伝えている。

5月号では「帰還勇士の戦線写真懸賞」の入選作品が発表されている。それらの写真はみな明るいが、別頁の九州のアマチュア江頭茂による「写真が出来ないといふことについて」という妙な雰囲気の手記が興味深い。江頭は戦地では盛んに撮影したものの、負傷して除隊してから全く写真が撮れなくなり「何な画集をみても、本当の事が解らん」と呟く。それは語ることの許されなかった、帰還兵たちのトラウマさえ連想させる。

ナショナリズムを鼓舞せよ

表現の可能性が報道写真に収束するなか、2人の新しい写真家が注目された。同じ1909(明治42)年生まれ、報道写真家の土門拳と信州の童画家熊谷元一である。

日本工房に所属していた土門は「報道写真家はカメラをペンとした文明批評家」だと主張して、38年7月に藤本四八、杉山吉良、濱谷浩、田村茂、林忠彦らと青年報道写真研究会を結成。同年の「ライフ」9月5日号には彼のクレジットで、宇垣一成外相のフォトルポが掲載されたこともあって一頭地抜けた存在と目された。ただし「ライフ」のクレジットは日本工房にとってルール違反で、同社を辞職する原因ともなった。翌年、土門は国際文化振興会の嘱託に転身すると、室生寺の撮影を始めるなど独自の道を歩きだす。

一方、熊谷は郷里の會地村(現長野県阿智村)の暮らしを2年にわたり記録した『會地村 一農村の写真記録』を、38年末に朝日新聞社から出版して絶賛された。本書はもともと村史を調べていた熊谷が、本誌で批評や展評を執筆していた美術評論家板垣鷹穂の著書から影響を受けて個人的に制作を始めたものだった。熊谷からの手紙でそれを知った板垣は、作業を全面的にサポートし、出版にまで至らせたのだった。

本書が反響を呼んだのは、板垣を含め、当時の写真関係がそこにアマチュアに求めていた理想を見いだしたからである。それはナショナリズムの高揚にも資する、郷土愛をもとにした報道写真の実践だった。翌年、本書の成功によって熊谷は拓務省の嘱託写真家となり、満蒙開拓青少年義勇軍や移民の姿を日本と満州各地で記録している。

土門と熊谷は41年5月号の座談会「日本精神と写真の行くべき道」で初めて顔を合わせている。その席で「ただ村のためになるやうな仕事」をしたかったと述べる熊谷に対し、土門は各地のアマチュアがこれに続かないのは「(郷土への)愛を持っている人が少ない」からだと嘆いた。

さて、この間、欧州ではすでに大戦が始まっていた。39年9月にドイツ軍はポーランドに侵攻し、翌年6月にはフランスに勝利した。3カ月後には日本・ドイツ・イタリアで三国軍事同盟が締結された。

すでに日中戦争後から、ナチスの効率的な写真活用を好意的に紹介するグラビアや記事は増えていた。時系列的には小島威彦「ナチスの写真政策」(38年6月号)、「海外グラフ傑作集 ナチスの少年教育」(同11月号)、「ヒトラーと少年少女」(39年3月号)、須地文三「PK隊の使命とその活動」(40年11月号、PK隊は宣伝中隊のこと)などである。それがフランスを敗北させた直後には28ページを費やした「ヒトラー写真伝」(40年7月号)や「空・海に獨軍の威力」(同8月号)など、ドイツの独裁者への礼賛と連帯を強めた。

友邦ドイツの快進撃を背景に、国内では政党が解散して10月に大政翼賛会が発足。全体主義に基づく新体制運動が称揚され、写真界にも翼賛団体として「日本報道写真家協会」「興亜写真報国会」などが設立されていく。こうした世の空気が写真趣味にとってどのようなものかは、40年11月号の、大江素天による記事の表題を読むだけでもわかるはずだ。求められたのは「芸術写真と新体制 国家意識・民族意識の協調」なのである。

6年前に成沢が否定した「芸術にまで干輿」されることに対して「勃然として反発するだけの輿論」は起きず、本誌がそれを提起することもついになかったのである。

アサヒカメラの90年 第6回
廃刊までの道のり

防諜と写真趣味

1940(昭和15)年12月号の表紙には、冬らしく、全面にゲレンデでスキーやソリに興じる子どもたちを俯瞰(ふかん)した写真が使われている。ただ、右下のコピーはそれに水を差すように「法を守って楽しくパチリ」とある。

これは10月号で募集した「写真と防諜の標語」の1等作品である。ほかに「此処は写してよいとこか」「防諜・構図・距離・シャッター」「防諜へ常焦点のカメラ陣」「空襲はこの一枚の写真から」などが入選、以降の表紙に掲載された。

前年、欧州で再び大戦が始まると「防諜」、つまりスパイ活動への警戒がアマチュア写真界に強く求められた。写真撮影を制限する法律が改正・強化されたことは前回触れた。具体的には、要塞地帯法によって国防施設周辺の範囲が拡大され、港湾施設・鉄道・橋などもそれに含まれた。軍機保護法では20メートル以上の高所での撮影が禁止された。

こうした詳細は同号の「写真と防諜 座談会」でより明確に語られている。出席者は、当局側から陸軍省の匿名の少佐、内務省の緒方信一、2年前に「写真週報」を創刊した内閣情報部(のちの情報局)の林謙一、そして本誌を含めた各写真雑誌の編集者。当局側は、改めて規制の要点を徹底することを求め、不用意な作品は敵国の宣伝に逆利用されると注意を促した。また顕微鏡などを使う科学写真や土木工事などの現場写真、そして宣伝に活用できる報道写真をアマチュアに勧めている。当局の圧力の強さは、タイトルも内容も同じ記事が、どの写真雑誌にも掲載されたことが物語っている。

すでに写真雑誌はかなり萎縮していた。盛んだった都市のスナップも、前衛的な作品もあまり登場しなくなった。代わって増えたのが農村の生活風景や、ことに家庭生活をテーマにした作品だった。

「まず風景写真が影をひそめ、その代わり人物中心。とくに子どもを題材とした家庭写真風のものが俄然多くなってくる」

当時、玄光社の編集者で、のちに写真評論家として活躍する伊藤逸平は、月例の変化をそう振り返っている。この言葉のとおり、本誌でも「家庭欄」や月例の部門として「家庭写真」が設けられていた。加えて、対談の後からは科学写真が頻繁に登場する。

さらに本誌の翌年3月号では、編集部が情報局と大政翼賛会とに見本となる写真を持参し、より具体的に意見を聞くという「持ち回り座談会」が企画された。まず林ら情報局の担当官たちは、芸術写真の大家の作品はあいまいで対外宣伝には使いづらい、求めるのはより「文学的」で「日本の姿を芸術的に現し」、しかも対外的な影響を考えた報道写真だと言う。一方、大政翼賛会の宣伝部は、科学写真や民俗写真を例に挙げ、どんな写真でも社会性、政治性、科学性を考えるべしとした。そして高価なカメラを嗜好(しこう)することを反省し、健康的な趣味として発展させよと諭す。

こうした圧力のもとでは、アマチュア団体の性格も変わらざるを得ない。創刊以来本誌を支えてきた全日本写真連盟は、全関東と全関西に分かれ、それぞれ独立した運営がなされてきた。だが、41年4月1日付で「写真報国の実を挙げる」ことを掲げて再発足し、さらに関西と関東それぞれの学生写真連盟を新連盟のもとにおいて統合した。

もちろん、多くのアマチュアにとって、この状況は楽しいものではない。それでも全日本写真連盟や興亜写真報国会などに所属することが、身を守りつつ写真趣味を続けるただひとつの方便だった。たとえそれが戦地に送る慰問写真程度のものであったとしても。

芸術写真家の抵抗

当局はアマチュア写真家たちを国策協力に導くためにも、写壇のリーダーたちに協力を求め、統制団体の上位に据えた。つまり長年実作と理論とを示し、写真芸術を指導してきたその歩みが否定されたわけである。その苦しい心情を抱えながら、彼らはどのような態度を取ったのだろうか。

写壇の重鎮である福原信三は国策に異を唱えもせず、といって迎合もしなかった。大正期以来の「光と其その階調」に基づいて実作に励み、会長を務める日本写真会での指導方針も変えなかったのである。その超然とした態度は、これまでどのようなムーブメントが来ても保たれてきたもので、それゆえ保守的と批判されることも少なくなかった。しかし、ここに至って福原への見方は大きく変わった。本誌の展評欄を長く担当する板垣鷹穂は、写真展による国民啓蒙を以前から主張していた。その彼でさえ40年5月号で、日本写真会展(作品の一部は同号「日本写真会展傑作集」に掲載)について次のように書いている。

「今年の写真界の中に日本写真会を組み込んでみると、騒然たる雑音がないのが反って快く、静かな楽しさを感じさせる。(中略)日本写真会そのものは少しも従来と変わっているのではない。然し、世の中の写真界が非常に変わって来たのである。今年の日本写真会から著しく感じるのは云わば『相対的』な味ひである」

「写真文化」6月号でも、常に福原に手厳しい森芳太郎が「強烈な個性の欠如、繰り返し、単調、退屈」としつつ、今年の展示は「有り難かった。渇いたものが水を得た感じだった」として、こう続ける。

「日写(日本写真会)の諸君は時局の攻勢にたじろがず、流行の笛太鼓に踊らず、粛然としてその道を踏み、本当の貢献を世に捧げようとしている。展観は斯くあらねばならぬ」

福原の態度は、41年12月のアメリカとの開戦以降も変わらなかった。43年には日本写真会の写真集『武蔵野風物』(靖文社)を編み、『福原信三随筆 写真を語る』『福原信三論説 写真藝術』(ともに武蔵書房)を上梓している、ただ、これは最後の静かなる抵抗となった。敗色濃厚になる翌年には日本写真会もついに解散に至り、あらゆる写真団体を一元化した「大日本写真報国会」に吸収されたのだった。

一方ではっきりと圧力を拒否したのが野島康三である。野島は本誌41年6月号「芸術写真家から見た報道写真」という欄に「写真に於ける智情意」を寄稿。素人と芸術写真家との対話という文体を使い、その立場を鮮明に表明した。

「写真をやる人の才能にまかせて苦労出来る方向の仕事をやったらいゝぢゃありませんか。私は芸術写真をやります。君は報道写真がやりたかったらやればいゝでせう。苦労して、そこに喜びを求める仕事をすることですよ」

さらに、「芸術写真家には感覚の確かな人がたくさんいますが報道写真家には乏しいように思います」とも言い放っている。

関西写壇の中心にいた安井仲治は、41年10月に朝日新聞社主催の「新体制国民講座」の一環で「写真の発達とその芸術的諸相」というテーマで講演を行った。そこで、現在では報道的任務が「唯一の写真家としての途」とされるが、自分はその立場にはない、だが、どのようなかたちでも「写真を正しい姿に発展させて行きたい」と語った。そのためには「全人格的な写真家の修練とカルチュアーが必要」であり、「技術以上に全人格としてこれを行わなくてはならない」とし、明治天皇の御製を引用して「戦の庭に立つも立たぬも」同じ写真の「道」だと説いた。

彼を慕っていた浪華写真倶楽部の小林鳴村は、この講演を見ていた。すると熱を帯びてしゃべる安井の顔が、しだいに仏像のように見えだし「不吉な予感に慄然(りつぜん)としながら」いつしか涙が流れてきたと振り返っている。

小林の予感は的中する。このとき安井は高血圧と腎臓の病を得ていて、それもかなり進行していた。のちに「写真文化」の編集長になる石津良介は、おそらく丹平写真倶楽部の東京展のためだったと思われるが、病を押して上京した安井と会い、銀座の酒場でこう頼まれたという。

「これからどんな世のなかになっても、写真文化の火は、たとえどんなに小さい灯でもよいのです。この灯だけは消さないで下さいね」

翌42年3月15日、安井仲治は39歳の若さでこの世を去った。それは「アサヒカメラ」廃刊号発行の10日ほど前に聞こえてきた悲報だった。

統合から廃刊まで

日中戦争以降、どの出版社も印刷用紙の調達に苦労するようになった。それは当時、最大部数を誇っていた朝日新聞社でも同様だった。東京と大阪の出版部門が統合されて出版局(現在の朝日新聞出版の前身)が誕生した38年には、雑誌用紙の割り当て全体が2割削減されている。それからページ数は微減を続け、本誌40年9月号には「節紙国策」のため、以降は予約販売制になるとの告知が出された。

その年の12月には情報局のもとに統制団体である日本出版文化協会が設立され、翌年には日本出版配給も設立された。政府や情報局はこうした統制団体を通じて用紙の調達から配本までをコントロールし、出版界を指導したのである。

ところが『朝日新聞出版局50年史』には、出版局に対して「言論の統制はなかった」と書かれている。その理由は、のちに廃業を命じられる中央公論社や改造社のように総合雑誌を持たず、情報局の指示に対して忠実に自己規制を行い、それゆえ利用価値が認められたからだと推測されている。

また日米開戦を経るなかで、全体に占める出版局の売り上げの比重は高まっていた。新聞の制作は従軍記者を戦地に送るなどで費用がかさむ一方、紙幅とともに広告収入が減ったのだ。それを雑誌や書籍の売り上げがカバーしていたため、「敗戦の破局にいたるまで、平穏に発展」することになったと、同書の編者は苦々しく振り返っている。

何より出版界に衝撃を与えたのは、40年7月に新聞・雑誌の統廃合が指示されたことで、翌年1月号からは写真雑誌も以下の4誌に絞られてしまった。つまり大衆写真雑誌「アサヒカメラ」(「芸術写真研究」「肖像写真研究」を吸収)、綜合写真雑誌「写真文化」(アルス・「カメラ」「写真サロン」「カメラクラブ」が統合)、報道写真雑誌「報道写真」(写真協会・「フォトタイムス」「カメラアート」が統合)、写真技術研究雑誌「写真日本」(明光社・「小型カメラ」「アマチュアカメラ」「光画月刊」が統合)である。このほか廃刊したタイトルも少なくない。

幸い存続した本誌だったが、家庭写真、科学写真、報道写真を中心とした誌面になっている。また、すでに敵国となっていたアメリカに対する対抗心を扇動するページが増えている。例を挙げると41年6月号から3回連載された「我が南方の共栄圏」では東南アジア各国の風俗写真を、金丸重嶺がグラフ構成に仕立てたもの。写真は観光的だが、アメリカの野望を打破し、日本の指導でブロック化したときのために視覚的教養を提供するのが目的だった。

10月号はオール戦争特集である。グラビアは「挺身東亜の再建へ」「前線に捧げる臨戦銃後都会の報告」「力強き銃後」「第二次世界大戦の表情」が、特集記事には「戦争と写真科学」「戦争と写真宣伝」「写真も国防第一線に出でよ」などに占められた。ただし、これほど忠実に自己規制を行っても、趣味の雑誌に対する紙配給は減らされるほかはない。次号から現行の130ページから30ページほど薄く、定価を80銭から50銭に下げた「新体制版へ」の移行が告知されている。

そして12月8日の日米開戦を経た42年には、ついに趣味的な作品はコンテスト欄でしか見られなくなる。従軍カメラマン提供の報道写真や、軍人からの指導的記事が大半を占めた姿には、もはや大衆写真雑誌の面影さえない。辛うじて目を引くのは、3月号で木村伊兵衛、杉山吉良、土門拳、濱谷浩、加藤恭平、渡辺義雄による「報道写真家の撮った人物写真」くらいだろう。

そして4月号で、本誌は廃刊を宣言した。月例と前線への献納写真アルバムの入選作品を紹介した別冊の巻末に「大東亜建設という光栄ある重大使命に向かって総てのものが動員されなければならぬ秋、本誌の役割は一応達成された」との「謹告」を出した。その隣には創刊から関わった福原信三、成沢玲川、大江素天らの言葉が並んでいるが、そこに編集長松野志気雄の名前はない。

当時松野は前年10月に創刊された「科学朝日」の編集長も兼務し、そこで能力を発揮はしていた。だが一時は「アサヒカメラ時代」と自らうたったほどの絶頂期を築いた人は、本誌の最後をどう受け止めていたのだろうか。

この後、さらに戦争は激しくなり、宣伝手段としての報道写真はいっそう強く推進されつつ、45年の敗戦を迎えることになる。その前後の詳細については白山眞理の『〈報道写真〉と戦争』(吉川弘文館)が詳(つまび)らかにしている。

重要なのはこうした流れが、戦後の写真界に大きな影響を与えたことだ。報道写真は、こと若い世代に写真によって社会的意識を表現する技術と意義を教えた。彼らはそれを受け継ぎつつ、批評的な主体性を持たなかった過去を反省し、新しい表現を築いていく。それは同時に芸術写真家である先達との間に断絶をもたらすことでもあった。その葛藤は、49年の復刊以降の本誌の歩みのなかで語られるだろう。

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創刊前史――】 1920年代の「写真ルネッサンス」
創刊号を読む

「アサヒカメラ」は1926(大正15)年4月に、東京朝日新聞社から創刊されている。創刊号は広告も含めると全114ページで定価は80銭。判型は現在と同じだが、もちろん雰囲気はまるで違っている。

手に取ってすぐ気づくのは、表紙が写真ではなくイラストであることだ。カタカナの「アサヒカメラ」は中央に配されているが、その上の英文の「ASAHI CAMERA The Japanese Journal of Photography」というロゴが強調されている。巻末には英語による本誌紹介欄も設けられ、欧米の写真界を強く意識していたことがわかる。

肝心の内容はどうか。一般的に写真雑誌の基本的な構成要素といえば、巻頭作品、特集記事や国内外のニュース、機材の詳細な情報(メカ記事)、ハウツーもの、月例コンテストといったところだろう。創刊号も、およそそれに準じてはいる。

まず巻頭には創刊懸賞の1等を獲得した田中虎一の「柿」を筆頭に、8人の作品が網目銅板刷りで掲載されている。うち2人はオーストラリアからの寄稿だが、東京写真師協会会長の江崎清を除けば、それ以外は写壇、つまり有力なアマチュア写真団体のリーダーたちの作品である。掲載順に挙げると、淵上白陽「横を向いたポーズ」(日本光画芸術協会)、米谷紅浪「農夫」(浪華写真倶楽部)、石田喜一郎「プロムナード」(日本写真会)、福原信三「閑日」(日本写真会)となる。彼らの作品は対象の違いこそあれ、いずれも絵画的なテクスチャーを持った単写真、つまり当時の表現の主流にあった「芸術写真」だ。彼らは、これから始まる月例コンテストの審査員でもある。

予告によれば、月例は5部に分かれている、本誌編集部が第1部で、そのほかはやはり有力な写壇である東京写真研究会の秋山轍輔、福原、米谷、淵上が担当するのである。読者は、後述するような彼らの作風の違いをすでによく知っており、それぞれに部を選択して応募するというシステムなのである。

そのほかの口絵はグラビア印刷で、創刊懸賞の入選作品、東京写真研究会主催の公募展「研展」、東京写真団体連合展での優秀作品が紹介されている。どの作品の下にも、作家とタイトルの英訳が記されているのが印象的だ。創刊時の「アサヒカメラ」は主としてアマチュア写真作家が力を競い合い、交流する場であり、さらに海外に開かれた窓口であろうとしていたのだ。

その志は、東京朝日新聞社のグラフ部長であり創刊編集長の成沢玲川(本名・金兵衛)による巻頭言「創刊の言葉に代へて」によく表れている。彼は全体にやや芝居がかった調子で、関東大震災後の写真界も出版界も行き詰まりのなか「限られた読者しか持ち得ない写真雑誌を創刊する。単なる算盤勘定でないことは明か」と決意をまず語り、前年に自社が主催した「ニエプス写真百年祭」の成果を自負する。確かに、後述するこのイベントの刺激によって、樺太から朝鮮や台湾までを含む写真団体の連合機関として、全関西写真連盟と全関東写真連盟が成立した。成沢はまた、前年7月に東京朝日新聞社から発行された『日本写真年鑑』が、英国写真協会の「ブリティッシュ・ジャーナル」誌上で「写真芸術は我が英国よりも、日本に於いて、より重要視され」ている証しだと評されたと、誇らしげに綴っている。

アマチュア写真家たちの芸術革新運動

「アサヒカメラ」の創刊は、20年代を通じてアマチュア写真家たちの活発な活動がもたらした大きな成果だった。この期間について、米谷が「写真月報」(小西本店・現コニカミノルタ)誌上に連載した緻密な回想記「写壇今昔物語」で、「写真ルネッサンス」と形容したほどの高揚を見せていたのだ。では、「写真ルネッサンス」の具体的な中身とはどのようなものだったのか。

日本のアマチュア写真界は、ごく一部の富裕層や外国人によって、明治初期に誕生した。明治10年代、西暦では1880年代から親睦団体が結成され始め、すでに明治末までには北海道から台湾にいたる各地域に写真クラブがあった。

そのうち東京の東京写真研究会と大阪の浪華写真倶楽部は、それぞれ小西本店と桑田商店という大手の写真材料商の後援をうけて発展し、写壇として機能するようになる。東京写真研究会が主宰する公募による「研展」や、浪華写真倶楽部の「浪展」は表現動向をリードする、一種のアカデミーとして、芸術写真に励むアマチュア写真家たちの目標として機能していたのだった。

先にも触れたように、ここでいう芸術写真とは、印画に絵画的な効果を与えた表現のことをいう。そのために用いられたのが、ピグメント(顔料)を使う手法だった。それは光によって硬化するアラビアゴムを用いたゴム印画法から始まり、やがて印画を漂白して油性インクで濃淡をつけるブロムオイルなどのオイル印画法などが流行した。いずれも完成までにかなりの時間と手間を要するものだった。

大正期に入ると、趣味としての写真のすそ野が広がる。第1次世界大戦が始まる1914(大正3)年ごろには、コダック製の比較的安価な単玉カメラ、ベストポケットコダックが輸入された。このカメラはレンズフードを外して撮影すると、手軽に柔らかな雰囲気が得られたこともあって人気を博した。それまで富裕層の道楽だった写真が、大戦下の好景気のもと、増加した中間所得層の趣味となったのである。その熱は、第1次大戦後に起きた恐慌を超えるほどにまで高まっていく。「写壇今昔物語」には、当時の写真コンテストの盛況ぶりもリポートされている。米谷は各種の懸賞写真の応募点数について、明治末から大正初年にかけてはおよそ500点平均だったと記している。それが18(大正7)年以降は千点を超え、20年代には1万点を超えるケースも見られるようになったというのだ。

写真ファンが急増すると、各種の技法書が盛んに刊行される。さらにそのヒットを受け、21(大正10)年には「カメラ」(アルス)が、穏健な写真愛好者を対象にした写真趣味のための雑誌として創刊された。

このころ、質の面においても芸術写真は成熟期を迎えている。団体によって、作品の傾向が明確になり、それぞれに優れた作家が誕生した。

東京写真研究会やその流れを受けた愛友写真倶楽部は日本画的な風景の作品が多く、商都大阪の浪華写真倶楽部では都市生活の風景や静物などの作品が目立つようになる。それぞれ代表的な作家を挙げれば、東京写真研究会では野島康三や小野隆太郎、愛友写真倶楽部では日高長太郎。浪華では米谷のほか梅阪鶯里、福森白洋、瞠目すべき新人として安井仲治がいた。彼らは相互に交流し、互いに研鑽しあってもいた。21年に開催された小野と米谷の個展は、その成果と評されている。

この年は、既成の写壇に新風を吹き込む団体が登場している。資生堂の革新的な経営者でもあった福原が立ち上げた写真芸術社である。彼は弟の福原路草(信辰)、千葉医学専門学校(現・千葉大学)の後輩で現像・焼き付けに秀でていた掛札功、音楽評論家の大田黒元雄を同人として会を結成。福原は、写真の本質とは瞬間の光が対象に与えた印象を印画紙上に凝結させることだという主張を、実作と理論をもって展開し始めた。

神戸で写真館を開業していた淵上が、日本光画芸術協会を結成したのはその翌年だ。淵上らは「ラインとマッスの意識的な構造」を強く意識し、そのため焼き付けの時点で画像をゆがめたり、変形させたりするデフォルマシオンを積極的に行った。その幾何学的で抽象性の強い表現ゆえに、彼らは「構成派」と呼ばれた。

20年代の「写真ルネッサンス」とは、こうしたアマチュア写真家たちの展開が、芸術革新運動と呼べる段階にまで達したことを指している。それは従前からの展示活動の拡大のほか、技術的改良が進んだ印刷メディアによって周知された。明治期からある写真材料商肝いりの「写真月報」や「写真新報」(浅沼商会)などに加え、各写壇の機関誌が発行されるようになった。

福原の写真芸術社では、結成と同時に「写真芸術」を発行。翌年には福原の個人写真集『巴里とセイヌ』を、翌々年には『光と其諧調・福原信三写真画集』が上梓されている。後者のタイトルにもあるこの「光と其諧調」こそ、その印象主義的な写真芸術論を集約したキーワードである。淵上らの日本光画芸術協会もまた同年に月刊写真画集「白陽」を創刊して、その重厚な作品をアピールした。 このようなアマチュアたちの活発な活動は、23(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって、いっとき中断する。もちろん彼らはそれさえ乗り越えるのだが、そこには紙面のビジュアル化と出版物の多角によって業容の拡大を図っていた新聞社、ことに朝日との連携があった。

ニエプス写真百年祭

新聞社のアマチュア写真界に対するアプローチ、つまり懸賞や写真競技会の開催と写真展などの文化事業も20年代を通じて、より活発になっている。

朝日新聞社では23年の春から夏にかけ、英国の肖像写真家E・O・ホッペのゴム印画189点を集めた個展を東京、大阪、神戸、名古屋で開催。7月には、写真界の動向をまとめた『日本写真年鑑』を刊行している。この編集を担当した成沢が、福原に始めて出会ったのは本書への協力を依頼するためだったというから、これを機に彼のアマチュア写真界への接近が急速に進んだのだろう。

成沢は、現在でいうビジュアルジャーナリストの先駆者というべき経歴をもっている。信州上田で生まれた彼は、10代で内村鑑三に私淑。06(明治39)年に29歳で渡米すると、オレゴンで日刊邦字新聞「央州日報」や「ヤマトグラフ映画社」を経営した。この間に写真を始め、アメリカの写真雑誌のコンテストでは2、3度入賞もしている。7年後に西海岸の日本人移民を撮影した1万2千フィートにおよぶ映画フィルムを携えて帰国し、全国を講演して歩いた。

成沢は寄稿をきっかけに、18年(大正7)年に東京朝日新聞社の調査部に入社、5年後の1月に日刊写真新聞「アサヒグラフ」が創刊されると技術部長に就任した。同紙は第1次大戦中に、ロンドンの「デイリー・ミラー」、ニューヨークの「デイリー・ニューズ」などの絵入り新聞が100万部を超えたことを受けて企画されたのである。『アサヒグラフ』は四六判の判型で16ページ、定価は3銭。実売は3万部ほどだったという。注目すべきは、創刊時に総額1万円という高額な懸賞写真を募集し、それを何度かに分けて大きく紙面に掲載していることだ。まだ写真部が手薄なこのころ、写真新聞に必要な写真素材をアマチュア写真家らによって、ある程度まかなおうとしていたのではないか。

とはいえこの日刊写真新聞という斬新な試みも、関東大震災によって7カ月で終わった。翌々月には編集体制を縮小再編し、「アサヒグラフ」は週刊画報誌として再出発することになり、成沢はグラフ部長としてその編集を任された。

彼が『ブリティッシュ・ジャーナル』の記事を見て、一大イベントを思いついたのはちょうどこの時期だった。そこにはロンドンとパリで、ジョセフ・ニセフォール・ニエプスによるヘリオグラフィー発明記念の行事が開催されたと書かれていたのだ。これに発想を得た成沢は、大阪朝日新聞社の新聞整理部長で関西写壇とも近い大江素天とともに、社の力を結集した一大イベントを企画する。

そして25年10月末から11月にかけ、大阪と東京で「ニエプス写真百年祭」は、震災後の写真界の期待を一身に集めて開催された。それは11月8日の日比谷公園の野外音楽堂での「東京の部」の開会式に、1万人以上の観衆が詰めかけたことでもわかる。1週間の会期に詰め込まれた内容も豪華だ。4カ所では各写壇や写真史をたどる展示などが開催され、昼には大講演会や写真競技会が、夜には帝国ホテルで大懇親会がもたれ、さらにこの年に放送が開始されたラジオに成沢が出演し、写真史についての講演も行われた。終了後、その詳細は12月に発売の「アサヒグラフ臨時増刊 写真百年祭記念号」に詳細に紹介されている。

そして、この「ニエプス写真百年祭」の高揚感がいまだ残る11月にまず全関西写真連盟が、翌26年2月には全関東写真連盟が設立された。二つの連盟に集った団体は約420に上り、彼らを後援するメディアとして「アサヒカメラ」が誕生。さらに本誌を媒介として、その年末に全日本写真連盟が誕生した。

大正期の芸術写真による「写真ルネッサンス」は「アサヒカメラ」の誕生によってそのピークに達し、本誌はまた新しい写真の時代の受け皿として機能していくことになるのである。

[連載]アサヒカメラの90年 第2回
1929年まで【変化への胎動】

月例作家たち

写真雑誌にとって、コンテストは新しい才能を発掘する場であり、新しい写真表現や社会の動向を広く啓けい蒙もうする装置である。ことに創刊間もない「アサヒカメラ」にとっては、誌面を活性化させる大きな推進力だった。

その種類を挙げると、まず月例懸賞がある。注目度の高いビッグイベントとして、全日本写真連盟主催で国際写真サロンと日本写真大サロンが翌年から始まり、1930(昭和5)年には東京朝日新聞社主催の「広告写真懸賞」(第1回は「国際広告写真展」として開催。64年まで続いた)がその列に加わった。これらは創刊編集長の成沢玲川の企画で、27年に現在の企画事業本部にあたる計画部長への異動を機に、これらを立ち上げたのだった。

また単発のコンテストも多い。時系列に沿って一部を挙げると30年「グラフ写真模様」、34年「海外宣伝用写真懸賞」、36年「都市美・都市醜の写真懸賞」、37年「オリムピツク写真訓練作品」、38年「銃後写真懸賞」、39年「広告にすぐ使へる写真懸賞」、40年「海洋写真懸賞」などがある。タイトルだけでも世相が見えるようだが、年が進むにつれ、実用的な課題が多くなっていることにも気づく。写真芸術を志すアマチュア写真家の機関誌という当初の編集方針が、変化していく。

一方、応募するアマチュア写真家、ことに東京・大阪の有力写壇から遠い地方在住者にとって、雑誌のコンテストは多いほうがよい。なかでも毎月開催される月例は腕を試すチャンスであり、そこから頭角を現すケースも少なくなかった。もちろん月例にしても時期ごとに、応募規定、カテゴリー、審査員は変化する。そのため月例作家の消長にも、本誌の変化は見えてくる。

たとえば第1回月例において、「漁村」で浪華写真倶楽部の米谷紅浪審査の4部で1等を獲得した塩谷定好は、大正期の芸術写真家の気風を持っていた。鳥取県赤碕町(現琴浦町)の有力な回船問屋の7代目として生まれ、子どものころからカメラを手にし、19(大正8)年に20歳で「ベストクラブ」を設立。家業の経営権をすべて関係者に譲るほど、写真ひとすじに没頭し、こと印画に注ぐ情熱には並々ならぬものがあった。1回あたりの月例への応募点数も多く、雅号の「玉光」や息子の「宗之助」の名前での投稿作品も誌上に散見される。塩谷が傾倒したのは、「芸術写真研究」誌を主宰する中島謙吉のベス単派の柔らかな風景写真だったから、応募作品には地元の海岸風景が多くを占めたが、静物やポートレート作品も少なくない。

そのポートレートでは29年7月号で4部1等に入った、袈け裟さをつけた少年僧を正面からとらえた「小坊主」が印象深い。その作品解説で塩谷は、子どもを失ったことを機に寺に通い始め、しだいに宗教と芸術の関係に目覚め、これからはその道を追求したいと綴っている。本作に感銘した審査の米谷は「此作者近来の名作であり又同時に制作上の一転機を示」すものと評した。

初期の月例で、塩谷と並んで最も活躍したのは京都の真継不二夫である。27年1月号で淵上白陽選の5部2等に「花瓶とH」が入賞して以降、彼も本名とペンネームの「星兒」を使い分けて頻繁に入賞を重ねた。ことに女性のポートレートには独特な華やかさがあった。真継は独学で写真を学んだが、印画には淵上からの、テーマや構図などには国画会系の日本画家たちの影響がみられる。

創刊号で塩谷の作品と並んで掲載されているのは、東京写真専門学校(現東京工芸大学)の学生だった田村榮の「顔」である。5部1等を獲得した本作に続き、翌年1月号の「静物と裸婦のポーズ」では、真継を上回って同部1等を獲得した。この裸婦像に対し、淵上は「稀に見る傑作」との賛辞を送っている。同作はまたこの年から設けられた年度賞のひとつにも選ばれている。当時はポイント制ではなく、上位の作品から最優秀作品を選ぶというシステムだった。しかしながら、当時の読者でこの作品を見たものはいない。ヌードを理由に、現在の警察庁にあたる内務省警保局から検閲を受け掲載ページの削除を求められた。

さて、創刊間もない頃に活躍した月例作家の多くは、30年前後には本誌への投稿を卒業している。この3人も同様で、それぞれ別の道を歩んでいった。塩谷はその後も地元に腰を据えて芸術を追求した。真継は31年に上京して婦女界社の写真部長となり、やがてフリーの報道写真家に転身する。田村は28年に学校を出てオリエンタル写真工業に入社。宣伝部を経て同社発行の「フォトタイムス」誌で、新しい写真のムーブメントを牽けん引いんする立場となるのである。

求められた写真論

読者たるアマチュア写真家への最大の啓蒙は、秀でた写真家が理論と実作とを示すことである。その役を最初に担ったのは福原信三だった。福原は創刊から29年の秋までほぼ毎号本誌に写真論を寄稿し、作品を発表した。

このころ福原は日本写真会の会長という立場にあった。日本写真会は、彼の写真芸術社の活動が震災によって中断したのち、新たに立ち上げた「シセイドウ・ホト・ジュニオルサークル」と、東京美術学校の卒業生を中心にした「光画会」が合併して1925年に生まれた団体である。また全関東写真連盟の委員を務め、本誌創刊にあたって写真芸術社の同人である佐藤信順を編集スタッフに推薦するなど協力を惜しまなかった。

その福原が本誌で書いた最初の写真論のタイトルは「写真道」で、写真に関するどんな名論卓説も、1枚のベスト判(4×6.5センチ)フィルムの密着印画と等しいとした。その印画とは光と影が刻々と織りなしてゆく風景の印象をつかまえたものである。「影のあるところには必ず光があり、この光と影が写真の生命である事は、不変の真理であると、かう言ひ切る事が出来る。この生命が吾々写真家の掌中に握られているのだ。何處迄もこの生命を育まなければならない」

すなわち写真とははそれぞれが短い詩であり、ことに「俳句を写真で読む」ようなものだと説く。俳句を写真と重ね合わせて論じることは今日でもよく試みられる。だが福原のユニークさは「俳句という境地は日本のみが徹し得る独自なもの」と位置づけたことであり、やがて写真を日本の国民芸術に至らしめるという構想を得るのである。
興味深いのは、この俳句写真論を時代遅れにしてしまう写真論が、翌年5月号に登場したことだ。ドイツに渡りダダイズムや構成主義などの新興芸術を吸収した村山知義による「写真の新しい機能」である。村山はここで芸術写真が「実用性」を無視している点を批判したが、それは福原のことを暗示している。「たゞ単に、ソフトフォーカスで現実をごまかしたものや、地平線を普通より高くとって之に影を落としたものや、そんなたぐいの芸術写真はどうも私の考へでは大変にくだらないものとしか思えない。絵画でたとへてみればこれは印象派である」

村山はそれに代わってマン・レイのレイヨグラムをとりあげたうえで、最も可能性があるのはソ連の「構成派」のあり方だと述べる。つまり写真の精密な描写力を造形的な構図のなかで発揮させ、それをグラフィックデザインの要素として活用する。それによって写真の「現実性を更に更に『厖大な現実性』にまで高める」ことができるとしたのだった。

第1次大戦後の欧州では伝統的な価値観や共同体が解体し、新しい思想や前衛芸術が勃興していた。それを現地で知った村山のような美術家は、1920年代前半から新興美術運動と呼ばれるさまざまな芸術運動を展開していた。そんな彼らに、福原のような富裕な芸術写真家たちの生き方が、微温的なものに見えたのは当然だった。

だが批判を受けても福原は彼自身の写真芸術を追求した。その後『西湖風景』(31年)、『松江風景』(35年)、『布哇(ハワイ)風景』(37年、いずれも日本写真会)などの風景写真集を相次いで発表してその境地を示した。ことに『松江風景』はその到達した境地を示すものと評されている。

福原は、もちろん時代に無知だったわけではない。趣味人としても資生堂の経営者としても常に芸術と社会との接点に立ち続けており、美術評論家の光田由里が指摘するように「次々に生まれる視覚芸術の新しい様式も、知らないどころではなかった」(『写真、「芸術」との界面に』青弓社)のだ。その只中にあっても、変わらぬ写真芸術を追い求める姿勢こそが彼の「写真道」だったのである。

生活と芸術の両立へ

本誌では、その後も美術関係者によって、欧州の新しい写真論とその実作が続けて紹介された。順を追うと朝日新聞社の美術記者である仲田勝之助の「写真は芸術たり得るか」と未来派の影響を受けた前衛芸術家・神原泰の「健康な芸術写真に向つて」(以上26年7月号)、勝之助の弟でドイツに留学してバウハウスを知った美術評論家・仲田定之助の「写真芸術の新傾向―モホリー・ナギの近著から」(同10月号)、同じく仲田の「マン・レイの抽象写真」(同11月号)、村山の「ブルギエールの芸術写真」(同12月号)など。また27年3月号では勝之助が、日本写真会の第3回展を「自然はあるが、生活がない」とし、会員が「リーダー(福原)にならひ過ぎる」点を批判した。「生活」といえば、確かに昭和初年の大衆の暮らしは苦しかったのだ。第1次大戦後の恐慌と震災の影響が続き、業績の悪化した企業は労働者を大量に解雇して失業者が巷ちまたにあふれていた。無産政党が結党されて労働運動も激しさを増している。帝都復興のために対外債務は急増し、27(昭和2)年には金融恐慌が起こって経済的混乱はピークに達した。

当然、写真趣味にもしわ寄せが及び、輸入に頼っていた高級な写真機材や感材に、高い関税がかけられている。全日本写真連盟の結成や本誌創刊にあたっては、関税の引き下げを求めることが目的のひとつに挙げられていた。

こうした状況を背景に、成沢玲川も写真の実用と芸術性の融合を求めていた。彼は26年6月号の巻頭言「写壇漫筆」で、欧米ではアマチュア写真家が新聞社や通信社に写真を売って利益を得るケースがあることを紹介。日本のアマチュアも道楽だけでなくなれば、写真の専門分野はさらに広がるとして「写真を単に有産、有閑階級の独占に終わらしたくない」と述べた。これには反論があったものの、写真の記録性を生かして芸術と実用性を両立させる新しい表現への期待は薄れなかった。

そんな新しい写真の旗手となるのは、洋行帰りの中山岩太だった。18(大正7)年に東京美術学校臨時写真科を卒業した中山は、渡米してニューヨークで写真館を経営するなど8年を過ごし、その後パリに1年余り滞在して27年9月に帰国したのである。

本誌で同年1月号に作品が初めて掲載され、12月号の「新帰朝者土産話」に登場。パリでマン・レイ、リシツキー、バウハウスなどの新しい芸術傾向に触れて写真の研究を重ね、その結果「写真を端的に純写真で出す」ことを心がけるようになったと語っている。

さらに続けて翌28年1月号に「純芸術写真」を寄稿。絵画と写真の表現性を同一視することをやめ、撮影機材や材料の特長を考えることから純芸術写真が始まると説いた。この稿には定規や鍵が平面的に構成された「創作第一」「創作第二」と題された2点の作品が添えられている。それは本誌ではじめて、日本人の作家によって示された新しい写真表現の実作だった。

本誌のような総合誌的な写真雑誌の宿命は、このように新旧の論と実作がときに同時に示され、葛藤が露出することだ。29年6月号での第3回国際写真サロンに対する合評会がまさにそれであった。この会の主席者は11人、うち朝倉文夫、五十嵐與七、岡本一平、野口米次郎、村山知義、脇本楽之軒の6人が美術家や批評家だった。彼らはそろって絵画的な写真表現に批判的で、脇本などはブロムオイルの作品を「邪道に踏み込んだもの」とまで呼んでいる。それに対して写真関係者らは全くの守勢に立たされた。
一方で、この号の月例欄には「月例懸賞応募者へ」という小さな呼びかけが掲載されている。最近新人の輩出が少ないため、初心者でも奮って応募して欲しいとの内容で、創刊から4年を経て、芸術写真の停滞が顕著になっていたことを示すものだった。

写真の実用と芸術性を両立させ、新たな才能を発掘する新しい回路が求められていた。そこで成沢は翌年から始まる「広告写真懸賞」にその打開を求め、じっさいこれを機に、誌面は再び活気を帯びてゆく。

アサヒカメラの90年 第3回
福助足袋の衝撃――1931年 アマチュア写真界の転換点
新興写真時代の幕明け

「アサヒカメラ」1930(昭和5)年3月号は「写真の商業化号」である。これは当時の編集方針を集約したキーワードでもあり、実用的なビジュアルコミュニケーションのための、グラフィカルな写真を推奨するという意思を示している。そのための企画として「グラフ写真模様懸賞」と「広告写真作品大懸賞」の募集が告知された。

前者はさまざまな対象を列にして並べ、造形性を強調して撮影された作品を求めた。上位の作品は浴衣地に加工されて、その夏に、松屋と松坂屋で販売された。

後者は4月15日に開催される「国際広告写真展」に伴う懸賞である。制作対象によって化粧品、薬品、飲食料品、その他の4部門に分かれ、新聞や雑誌広告またポスターへの活用を想定せよという。ここで目を引くのは賞金の高額さだ。帝国大学出のエリートサラリーマンの初任給が50円という時代に、1等の商工大臣賞は賞金千円、賞金総額は2800円に上る。「一枚の印画に千金を投じて見せたことは広告主に対する啓発運動」だと計画部長成沢玲川は、翌号の巻頭言で意気軒昂だった。

さかのぼると、写真を使った広告は1900年代半ばから始まり、大正期も印刷メディアの発達に伴って可能性が模索されていた。22(大正11)年に寿屋(現サントリー)が「赤玉ポートワイン」の広告にセミヌードの写真を使ったのはその好例だった。

24年には商業写真研究会が結成され、2年後にはそのメンバーだった金丸重嶺と鈴木八郎が神田に日本初の広告写真スタジオの金鈴社を旗揚げした。彼らが追いかけたのは写真先進国ドイツにおけるムーブメントで、具体的には前年にバウハウス叢書として出版された、ラズロ・モホリ=ナギの著作『絵画・写真・映画』に則ったものである。つまりフォトグラムやフォトモンタージュなどの特殊技術、鮮鋭なレンズによるシャープな描写、クローズアップ、仰視・俯瞰などのアングルの工夫やレンズの歪曲の利用による形態の抽象化、さらにタイポグラフィーと組み合わせたフォト・プラスチックなど実用的な広告で展開しようとした。

本誌も懸賞を盛り上げるためにも、それらの活用の仕方をアマチュア写真家に啓蒙する必要があった。そこで商業美術の専門家によって実例と理論とを盛んに教示していった。例を挙げると3月号「広告写真作法の要訣」濱田増治(商業美術家)、「最近に見る広告写真に就いて」新田宇一郎(朝日新聞東京本社広告部長)、4月号では「広告写真の構成」室田久良三(「広告界」編集長)などである。

懸賞の結果は6月号で発表された。応募総数1679点から選ばれた1等は中山岩太の「福助足袋」で、白地に2枚の足袋の輪郭を大胆に重ね、その中に小さな福助像を配した清新な作品だった。中山はこの誌面で、広告写真は大衆の注意をひくことが第一条件で「其商品の特徴とかそれによって起こる快感とか云ふものを暗示すれば成功だと思ふ」と語っている。また作品はさっそく東京朝日新聞の5月1日の全面広告に使用されていて、そこに掲示された審査員で洋画家の和田三造のコメントは以下のとおりである。

「写真といふ器械力を自由に駆使して、足袋の持つ味を自然によくあらはしたもので足袋底やその縁の線の美しさの東洋的なところは、何とも言へない位だ」

カメラの器械力を駆使して形態の美を見いだしていくこと。それこそが日本の写真界を捉えはじめていた新しい写真美学、つまり「新興写真」と呼ばれる動きだった。

この新興とは、当時の新しい文化的ムーブメントに冠される形容であった。たとえば新興建築、新興美術、新興文学となると、そこにはモダニズムや前衛性への志向が示されるのである。

写真における「新興」の土台となったのは、マン・レイのフォトグラムやモホリ=ナギの前掲書が示した表現技術。加えて28(昭和3)年にドイツで出版されたアルベルト・レンガー=パッチュの写真集『世界は美しい』に代表される、徹底した客観描写に基づく新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)であった。

独逸国際移動 写真展の前後

新興写真をリードしていたのはオリエンタル写真工業が発行する「フォトタイムス」誌の編集主幹木村専一である。木村は29年3月号から「モダーンフォトセクション」というコーナーを同誌に新設。そこで扱うのは「レンズを透した画像を正確に描写する事を第二位に、或いは写真的価値を全然無視し、又全く写真器を用ひずして各自の感覚を示さうとするもの、或いは又一方に写真の科学的な性能を極度に発揮することに依って写真文化の向上に資せんとするもの」であった。

実践的なグループも生まれていた。この年には村山知義や美術家の板垣鷹穂、映画俳優の岡田桑三、写真家の堀野正雄らが、写真、映画、印刷での表現に新たな地平を開くために国際光画協会を結成。それに刺激された木村も翌年に堀野、田村榮、渡辺義雄、伊達良雄らと新興写真研究会を立ち上げ、展覧会や会報を通じて活動した。これら先鋭的な活動は写真界に大きな刺激を与えた。

たとえば「アサヒカメラ」30年7月号に掲載された森芳太郎の「絶対美術運動の産物 フォトグラムの研究」には「本邦の写真界にフォトグラムを移植した第一人者としては、フォトタイムス誌の木村専一君を押さねばならない」という一節がある。森は前年の展覧会で目にした作品にいたく感心していたのである。

本誌の広告(写真)懸賞やグラフ(写真)模様懸賞もまた新興写真への窓口を広げる啓蒙活動であったが、成沢はさらにその決定版といえる企画を持っていた。翌31年2月号の巻頭言で発表される「国際移動写真展」の開催である。

この「移動」とは巡回を意味するもので、もとは29年5月にドイツのシュトゥットガルトにおいて開催された、ドイツ工作連盟主催の「映画と写真・国際展」。モホリ=ナギの監修のもと、写真史の資料を含め、芸術、医療、警察、報道、天文など、映画と写真のあらゆるジャンルにおいて、最先端の実作約1200点を展観するという壮大なものだった。巡回の件は国際光画協会の村山と岡田から持ち込まれたもので、成沢はそれに応え、すぐに主催者に申し込んでいた。

「独逸国際移動写真展」が東京朝日新聞本社の展覧会場で開催されたのは、告知よりやや遅れて4月13日からの10日間。映画の部を外した約870点が「写真術の発達する歴史的標本」「近代写真の応用」「個人製作」「応用的自由加工写真」という4部構成で展示された。同展は7月には大阪にも巡回された。

早速、4月18日の「東京朝日新聞」紙上には森芳太郎の展評「写真術の全機能を展開した『ドイツ国際移動写真展』」が掲載された。本展はドイツの「新運動が打建てた最初の華やかながい旋塔」で、その「オリヂナルに接した味は又特別」で「望外の幸福」でもあったと森は書いた。

本展の影響は若い世代ほど大きかった。花王石鹸の販売元、長瀬商会の嘱託として広告写真に取り組んでいた木村伊兵衛は、当時30歳。本展を見て「古い写真に対する執着や新しい写真への疑問は一掃された」(『木村伊兵衛傑作選』)。木村より3歳下、浪華写真倶楽部の安井仲治は「写真は機械がやるものだと真っ向から認めており、それが愉快」に思え、そこから新興写真という「火の中へ栗を拾いに行」ったのだと語っている。(本誌34年2月号「関西写真界の新人を集めて 写壇総まくり座談会」にて)

本展をピークとする新興写真の啓蒙運動は、写真界の流れを完全に変えてしまうのだが、ことに関西写壇において顕著だった。それは翌年の第2回広告写真懸賞で、関西のアマチュアの応募入選が、遥かに関東を凌いだことで明確になった。

手元にある浪華写真倶楽部の創立100周年の記念展図録『浪展』を見ると、新興写真の影響は29年から始まったとある。まず上田備山が「従来の作風と決別し」、小石清、花和銀吾、福森白洋が例会に「写真集やフォトグラム」を持ち込むようになった。そして、古手の会員が「沈黙し、また退会していった」のだった。

新旧交代の成果は30年の第19回浪展に現れた。ことに写壇の注目は、本誌10月号にも掲載された、ブレた映像をそのまま定着させた「進め」で特選をとった、最年少作家の小石清の先鋭的な表現に集まった。彼の才能は第2回広告写真懸賞で1等を獲得したことによって広く知られ、さらに32年には超現実的な表現で、潜在意識を視覚化した写真集『初夏神経』の出版で完全に開花する。

また中山岩太が設立した芦屋カメラクラブは、「独逸国際移動写真展」の直後に、同じ朝日新聞東京本社で「芦屋カメラクラブ展」を開催。その作品は6月号に掲載され、ただ新興写真を摸倣するだけでなくそれぞれが個性的である点が高く評価されている。

ジャーナリズムとグラフィズム

もうひとつ関西写壇に表れた変化がある。それは広告だけでなくジャーナリズムの分野における実用化だ。31年9月号の「写壇ホームニュース」欄のトップに「全関西写真連盟が実社会方面への進出」という記事が紹介するのは同連盟本部が8月1日付で会員に通達した「ある目論見」である。今後、連盟員は「連盟の母体であり、培養者であり、財的後援者である大阪朝日新聞社の新聞事業に関連した」活動を試みるべしとし、「天変、地異、事変その他何に限らず重大な出来事」に遭遇した折には、それを撮って送るように依頼している。そのように社会現象に注意を払うなら、写真はいっそう上達して「社会と直ちに呼吸し合うやふな快感をすら覚える」ことになると通達は謳っている。

通達の成果は2カ月もしないうちに生まれた。9月20日夕刻、旧満州(中国東北部)の奉天郊外の柳条湖付近でおきた満州事変を知らせる写真号外が他社に先駆けて大阪本社から発行されたとき、その掲載写真のなかに全関西写真連盟のアマチュア写真家によるものが含まれていたのだった。

撮影者は奉天在住、28年に渡満していた淵上白陽が設立した満州写真作家協会の山本晴雄だった。本誌11月号には実名抜きではあるが、この件が誇らしげに取り上げられている。記事には、山本は連盟からの通達を受け取るとすぐ返信を送っていたとある。そこには、満州では「支那人」が横暴で排日気分が横溢し「支那軍隊」が何か陰謀を企んでいるという風説もある、そこで自分は「萬一のことがあれば国民として、連盟の一員としてできるだけのことを盡くしたい」と決意が述べられていたという。

もちろん、こうした声はアマチュアたちの主流を代表するものではない。だが多くの読者にとっても、写真とジャーナリズムの関係を意識せざるを得ない社会的な状況が迫っていた。

つまり翌32年1月には第一次上海事変が起こり、3月には満州国が建国され、5月には五・一五事件が起きた。33年3月には日本は国際連盟を脱退。国際社会から日本が孤立していくなかで、写真や映画などビジュアルメディアによる海外宣伝が急務となり、そこにアマチュアは巻き込まれていくのである。

例えば34年4月号で本誌が外務省の国際観光局、その外郭団体の国際観光協会、そして両写真連盟とともに「海外宣伝用写真懸賞」を募集したのもその一環だった。この懸賞で1等を獲得した「大阪城」が、関西写壇における新興写真の旗手とされた小石清の作品だったことは印象的である。

こうした動きのなかでは、写真だけでなく、掲載する誌面にも新たな工夫が求められるのは当然だった。もともと新興写真は、写真を印刷メディアで効果的に展開することを前提としていたし、ドイツのウルシュタイン社の「ベルリーナ・インストルーリテ・ツァイトゥング」、フランスのラルース・フランセーズ社の「ヴュ」、またソ連の対外宣伝誌「建設のロシア」などのグラフ雑誌の斬新な誌面構成は日本でも注目され模倣した雑誌も多い。

本誌もこれらを手本に33年7月号において誌面を一新し、矩形を基調にした新興写真的グラフィズムを大胆に実践した。この号は大きな評判となり数日で完売。「世界写真雑誌中の白眉であった」(福森白洋)など、多数の写真関係者から賛辞を受けたと翌8月号の編集後記にある。

そして9月号には、ドイツで活躍する日本人写真家が初めて登場する。ウルシュタイン社と契約している名取洋之助が「ドイツの『ルポルタージュ』写真家について」でルポルタージュ・フォトを報道写真としてを紹介したのである。

その報道写真を事業化するために名取が木村伊兵衛、評論家の伊奈信男、図案家の原弘、岡田桑三らと日本工房を銀座に設立したのはこの年7月のことである。