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このイベントは、写真プリントの工程を通して、写真技術の向上を図る主旨のセミナー。「作品をプリントする」ことを前提に、撮影、セレクト、用紙選びに関する考え方や、写真プリントに関わる具体的な方法論を伝える。座学だけでなく、実際にプリントを行ない、選別と講評を受ける内容となっている。機材にはキヤノンの「PIXUS PRO-100S」を使用。
セミナーでは作品のセレクトを行なうことから、参加者は事前にJPEG撮って出しの写真を100枚用意してセミナーに臨んだ。そこから写真展に出す1枚を選ぶのが目標。
山崎えりこさんのセミナーに続き、筆者も一般参加者と同じ条件でセミナーに参加することができたので、参加者の視点でセミナーの内容をレポートしたい。

写真を大量のカードにするためにプリント
セミナー内容は大きく分けて「写真のセレクト」、「プリント」、「講評」の順で進行した。

写真セレクトのパートは、あらかじめ用意した100枚の写真をA4の写真用紙にインデックスプリントし、出力された写真を100枚のカード状に切り分けるところから始まった。岡嶋さんによれば、この作業には、撮影時の反省や復習の意味合いがあるという。

「インデックスプリントは、サムネイルと撮影時のデータを一緒に印刷する設定にしてもらっています。今回用意していただいた100枚の中には、成功した写真も失敗した写真も混ざっているはずですが、写真と一緒に撮影データが打ち出されていると、撮影時の状況とか、行動を思い出すきっかけになります。これは撮影時の反省点を洗い出すことにも役立ちますし、何よりも自分の写真と向き合う時間が長くなるのがメリットです」

「多くの人は、撮影直後に失敗写真を消してしまいますが、人間が失敗するのは当然で、むしろ失敗は経験なんです。失敗した写真の撮影データひとつ取っても『どうして失敗したのか』を省みることができるのです。失敗に向き合い、省みて、経験値を高めるというのは非常に重要なことなので、『失敗した』と思った写真をその場で消す習慣のある人は、改めた方がいいと思います」

カード化した写真はまず、100枚から20枚まで絞り込むように指示された。そこからは5枚、最終的に1枚と、段階的に絞り込む流れ。直感的に、良いと思ったものを残し、ピンと来ないものは除外する。迷ったものはひとまず残す。これを複数回繰り返す。選び方は「どれかを外す」のではなく「どれかを選ぶ」。二者択一的に残したい写真を優先的に選んで、選ばれなかった方を外すという考え方だ。

だがインデックスプリントを切り離して作った100枚のカードは小さく、細かい写りを確認しながらセレクトをするには難しいように感じる。これについて岡嶋さんは、それこそが狙いなのだと話す。

「インデックスプリントの写真サイズだと、個々の写真の細部に目を向けようと思っても無理ですよね。だから、パッと見で選ばざるを得ないんです。作者は撮影時の状況や心情に関する情報を持ちすぎているので、選び方が主観的になりがちです。この主観性を排除し、できるだけ客観的な目で写真を選ぶために、このサイズにしています」

「写真を見る側にとってはそこにある写真がすべてであって、撮影者の思い入れは全然関係ないのですから」

また、そもそもPCの画面上でなく、プリントアウトしたものでセレクトを進める理由、そしてそのメリットについても言及した。

「PCの画面で写真を選ぶと、つい拡大して細部を見てしまいますよね。そのときに、ピントが甘かったり、ブレていたりすると、その時点でその写真を弾いてしまったりもします」

「でもそういったミスって、A4サイズ程度のプリントであれば、問題ないレベルだったりもするんです。写真全体の印象に目を向けずに、ごく一部だけをクローズアップして判断してしまうのは、実はすごくもったいないこと。仮に大伸ばしにする場合でも、展示する段になれば、見る人は離れて全体を見ようとするので、意外と気にならなかったりします」

「今日は最終的にベストな1枚の写真を選ぶ流れなのですが、これとは別の機会に、例えば組写真を展示する機会があるとしましょう。セレクトや構成を考える作業をするのには、PCの画面よりも、実際に机に写真を並べて、見せる順番を考える方がはるかに展示のイメージがしやすいんです」

セレクトの段階で実際に手を動かして印象的だったのは、当初「これだ」と思っていた写真が、いざセレクトを始めてみると、次々に選別から落ちていったことだ。

今回、筆者は動物園で撮影した写真を持参したのだが、自分ではそれなりにいい感じに撮れたと思っていた写真をほかの写真と比較してみると、思っていた以上に「良くない」ことに気付いてしまった。もちろん自分の実力以上の写真は撮れるわけがないのだが、筆者の実力の範囲で比較してみても、特定の写真に対して、自分で考えていた以上に思い入れのバイアスがかかっていたことがわかった。


そしてその一方で、選別の結果、思いもよらない写真が残ったことに面白さを感じた。これはディテールを確認できないカードサイズのプリントで写真を選んだからこそ得られた結果だという実感があり、主体性を排除するために、小さいプリントを使うことの有効性を肌で感じた次第だ。

「少しのミスを許容する」という話にも気づきがあった。考えてみれば、確かに写真展の展示などで大伸ばしになった作品を見るとき、その細部については思っていたよりかっちりと写っているわけではないと感じることがある。それよりも、作品そのものへの感動が勝ることの方が圧倒的に多く、良い作品に出会うと、多少の粗は気にならないということに改めて気付かされた。

ベストの1枚にたどり着くまでプリントを重ねる
次に、カードの束から選ばれた5枚をそれぞれ2L判にプリントする作業に入る。写真展に出品する1枚をこの5枚から選ぶパートだ。

2L判というある程度大きなプリントにしてのセレクトになるが、写真を選ぶ基本は同じ。客観的にプリントを見て判断する。その際、手元で見比べるのではなく、壁に貼るなど距離を置いてみる。こうするとより客観的に写真を見て判断できるのがわかった。岡嶋さんからのサジェスチョンはあるものの、1枚を決めるのはあくまでも自分だ。

いよいよ、セレクトで選ばれた1枚の写真をA4にプリントするパートに入った。ただA4にプリントするだけではなく、3種類の用紙にプリントして比較し、最も作品の意図を表したプリントを選出する。

3種類の用紙として「光沢 プロ[プラチナグレード]」、「微粒面光沢 ラスター」、「プレミアムマット」が用意された。用紙は自分の好みで選んでよいが、重要なのは、用紙の特性を理解し、特性に合わせて画像の調整を行なうことだという。

岡嶋さんは写真をプリントをするにあたり必ずやるべきことのひとつに「比較すること」を挙げている。

「ぼくは作品作りをする時、傾向の異なる複数の用紙に同じ写真をプリントしてみて、比較し、傾向を掴み、その後で膨大な種類の中から、自分の作品にあった用紙を選ぶようにしています。例えば同じ半光沢でも、紙の白さや光沢の具合が微妙に違ったりします。用紙を変えると、写真の発色とか、色の階調性とか、色んなものが想像以上に変わってくるんです」

「写真のセレクトも、画像処理も、プリントも比較をすることが大事です。比較対象がないと、どこをどう調整したらいいのかわからないですよね」

「例えばホワイトバランスに関して、今回の場合は、ラスター(半光沢)の白が一番青っぽくて、プレミアムマットが温かい感じです。これなら、調整しなければならない箇所が目に見えてわかります」

「コストはかかってしまっても、最初に複数の用紙にプリントして、細部の違いを見比べるようにしましょう。これがプリントや画質を見極める目を育てることに繋がります」

一般的なフローでは、まず写真を撮影して、画像調整をし、用紙を選んで、最終的にプリントを出力するというイメージだが、岡嶋さんはその「逆」の流れで撮影に臨んでいるという。

「ぼくは、作品を作るときにまず用紙を決めます。『このサイズの、この用紙で写真展をやるんだ』と決めたら、用紙に応じて気をつけるシーンや露出を想定し、画像処理はこういうことをやらなければならないから、こう撮ろう、というところまで最初に詰める必要はあります。だから撮影をするのは一番最後。一般的には『現場でどう撮る』から始まりますが、順番が逆なんです」

「プリントすることが前提にあるならば、実際に複数の紙へプリントしてみて、比較することで初めて画像処理でどこを調整すれば良いのかがわかるのです。たとえば特定の用紙で、あるところから階調が崩れれば、この紙ではコントラストを上げすぎなのだな、ということがわかるし、色が潰れるなら、彩度を上げすぎなんだという気づきになる。その事実を知っていれば、それらの条件を踏まえた撮影ができるということです」

「ここで一番大事なのは、良い光を捉えること、これに尽きます。逆に言えば、撮ったときの光の良さが活かせていないと、ほかの工程でどんなにリカバリーを試みても無駄に終わってしまう可能性が高い」

今回のセミナーでは画像処理の部分まで触れなられなかったが、参加者の作品に対しどの用紙が一番合うのか、といった部分までは比較できた。人によっては「色合いはマット紙が好みだが、階調は半光沢紙がいい」といった具合に、別々の用紙から長所を見出す場面も見られ、用紙の特徴を把握することと、比較の重要性について理解が深まったようだ。

実際に筆者も、3種類の用紙にプリントされた自分の写真を見て、明確にそれぞれの違いを実感できた。

例えば光沢紙では階調性が最も豊かに再現されたし、半光沢紙は高いコントラストと寒色寄りの白さが特徴的で、その一方マット紙は階調が狭く、暗部が浮き上がりがちで、暖色系の色合いに寄ることがわかった。

これは実際にプリントして比較しなければここまではっきりとはわからなかったことだし、それぞれ自分好みに調整する必要性を感じたのも確かだ。

セミナーのタイトルにある「プリントをすると写真が上手くなる」とは、実際にプリントした写真を比較し、それに合わせた用紙選びと、用紙の特徴に合わせた画像調整、そしてそれを踏まえた撮影に連なる一連のフローを実践することであることが理解できた。

筆者はあまり写真をプリントしない方だったが、今回のセミナーではプリントを通して、これまでなんとなくしか知らなかった写真の世界を垣間見ることができ、大いに興味を喚起された。しかし今回は同時に、レンズやボディだけでなく、用紙にまで沼があることを知った機会でもあり、どの世界もなかなか一筋縄ではいかないことを思い知った次第だ。

参加者の声
古塚明日人さん
写真のセレクトにL判を使っていますが、インデックスプリントを使って大量の写真から選ぶ方法は初めて体験しました。小さなイメージで判断されてしまうというのは正直、最初は腑に落ちなかったのですが、実際の写真を展示する場で、離れて見る感覚に近いというお話を伺って、とても納得しました。それと、今回のセレクトの仕方で写真を選んだ結果、別の機会に展示へ出したものとは違うものが最後に残ったというのが面白かったです。

用紙の選び方については、フィルムに近いものを感じました。種類もたくさんあって、特徴もそれぞれ違うし、色も違う。どう使いこなすのかを考えるところも、良く似ていますよね。とても勉強になりました。

谷村友紀さん

実はこの講座のことは別の受講者からお聞きしていて、予習していた部分もあったのですが、直感で写真を選ぶというのは、実際にやってみるとかなり予習と感覚が違っていました。思い入れのある写真をある意味諦めなければいけなかったのは、なかなか衝撃的な体験でした。

先に紙を選ぶというやり方も目からウロコでした。今まではお気に入りの写真がまずあって、その次に用紙を選んでいたので、そういうやり方もあったのか! と驚いています。

神田幸大さん
今までは撮るだけで満足していたのですが、今回初めて紙に出力してみて、こんなにも違いが出るのかと驚きました。また、先生が仰っていたプリントの微妙な違いというのも、正直なところあまり違いがわからなかったりもしたので、見る目を養う必要も感じました。

セレクトについては、まさに失敗したと感じた写真を消去してしまっていたので、これは自分の写真趣味を見直すきっかけになる気がしています。

阿部千那さん
同じデータでも、用紙ごとに発色がまったく違うところが面白かったです。ほかの方も仰っていますが、セレクトの作業では、自分の考えていた結果とは違うものが最後に残って、自分が思っているよりも自分の写真のことが解っているわけではないということを実感しました。

用紙も3種類使わせていただきましたが、これまで触れたことのないマット紙が意外と良かったので、これからも使おうかなと思っています。いい機会になりました。

都築由美さん
セレクトに関して、最初に自分がいいなと感じたものと、最後に残ったものがまったく違ったのが面白かったです。プリント用紙を選んだ際にも、それぞれかなりはっきり特徴が出たのが面白かったですね。ここまで違いが出るなら、積極的にプリントに取り組んでみてもいいかもしれない、と思いました。

平義由紀子さん
私は自宅にプリンターがないので、自分で焼いて勉強するのもアリだなと考えています。インデックスプリントを切って写真をセレクトするのも初めての経験でしたし、主観的な思いを捨てて選んだ最後の1枚も「これなんだ!」という意外性がありました。自分の写真に対する見方がかなり変わったと思います。

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村上 春樹(むらかみ はるき、1949年1月12日 - )は、日本の小説家、アメリカ文学翻訳家。京都府京都市伏見区に生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市に育つ。
早稲田大学在学中にジャズ喫茶を開く。1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。
日本国外でも人気が高く、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人と評している[3]。2006年、フランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞し[4]、以後日本の作家の中でノーベル文学賞の最有力候補と見なされている[注 1]。
デビュー以来、翻訳も精力的に行い、スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、トルーマン・カポーティ、レイモンド・チャンドラーほか多数の作家の作品を訳している。また、随筆・紀行文・ノンフィクション等も出版している。後述するが、ビートルズやウィルコといった音楽を愛聴し自身の作品にモチーフとして取り入れるなどしている。
生い立ち[編集]
1949年、京都府京都市伏見区に出生する。父が甲陽学院中学校の教師として赴任したため、まもなく兵庫県西宮市の夙川に転居。父は京都府長岡京市粟生の浄土宗西山派光明寺住職の息子、母は大阪・船場の商家の娘という生粋の関西人で、「当然のことながら関西弁を使って暮らしてきた」[5]。また両親ともに国語教師であり、本好きの親の影響を受け読書家に育つ[6]。西宮市立浜脇小学校入学、西宮市立香櫨園小学校卒業[7]。芦屋市立精道中学校[8]から兵庫県立神戸高等学校に進む。両親が日本文学について話すのにうんざりし[注 2]、欧米翻訳文学に傾倒[10]、親が購読していた河出書房の『世界文学全集』と中央公論社の『世界の文学』を一冊一冊読み上げながら10代を過ごした。また中学時代から中央公論社の全集『世界の歴史』を繰り返し読む[注 3]。神戸高校では新聞委員会に所属した。
1年の浪人生活ののち、1968年に早稲田大学第一文学部に入学、映画演劇科へ進む[注 4]。在学中は演劇博物館で映画の脚本を読みふけり、映画脚本家を目指してシナリオを執筆などもしていたが[13]、大学へはほとんど行かず、新宿でレコード屋のアルバイトをしながら歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸る日々を送る。1970年代初め、東京都千代田区水道橋にあったジャズ喫茶「水道橋スウィング」の従業員となった[14]。1971年10月、高橋陽子と学生結婚。一時文京区で寝具店を営む夫人の家に間借りする。二人は昼はレコード店、夜は喫茶店でアルバイトをして250万円を貯めた。さらに両方の親と銀行から借金し、総額500万円を開業資金とした[15][16]。
ジャズ喫茶を開業[編集]
大学在学中の1974年、国分寺駅南口にあるビルの地下でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店(場所は殿ヶ谷戸庭園のすぐ近く)[17]。店名は以前飼っていた猫の名前から採られた。夜間はジャズバーとなり、週末は生演奏を行った[注 5]。1975年、7年間在学した早稲田大学を卒業。卒業論文は「アメリカ映画における旅の系譜」でアメリカン・ニューシネマと『イージー・ライダー』を論じた。指導教授は印南高一(印南喬)[注 6][13]。
1977年、ビルの持ち主から増築を理由に立ち退くように言われ、「ピーター・キャット」を千駄ヶ谷に移す[20]。
デビュー、人気作家となる[編集]
1978年4月1日、明治神宮野球場でプロ野球開幕戦、ヤクルト×広島を外野席の芝生に寝そべり、ビールを飲みながら観戦中に小説を書くことを思い立つ[21]。それは1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが左中間に二塁打を打った瞬間のことだったという[21][22][23]。それからはジャズ喫茶を経営する傍ら、毎晩キッチンテーブルで書き続けた[24]。1979年4月、『群像』に応募した『風の歌を聴け』が第22回群像新人文学賞を受賞。同作品は『群像』1979年6月号に掲載され、作家デビューを果たす。カート・ヴォネガット、リチャード・ブローティガンらのアメリカ文学の影響を受けた清新な文体で注目を集める。同年、『風の歌を聴け』が第81回芥川龍之介賞および第1回野間文芸新人賞候補、翌年『1973年のピンボール』で第83回芥川龍之介賞および第2回野間文芸新人賞候補となる。1981年、専業作家となることを決意し、店を人に譲る。同年5月、初の翻訳書『マイ・ロスト・シティー フィッツジェラルド作品集』を刊行。翌年、本格長編小説『羊をめぐる冒険』を発表し、第4回野間文芸新人賞を受賞。
1985年、長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』発表、第21回谷崎潤一郎賞受賞。1986年10月、ヨーロッパに移住(主な滞在先はギリシャ、イタリア、英国)。1987年、「100パーセントの恋愛小説」と銘うった『ノルウェイの森』刊行、上下430万部を売る大ベストセラーとなる。1989年10月、『羊をめぐる冒険』の英訳版『Wild Sheep Chase』が出版された。
1991年、ニュージャージー州プリンストン大学の客員研究員として招聘され渡米する。前後して湾岸戦争が勃発。「正直言って、その当時のアメリカの愛国的かつマッチョな雰囲気はあまり心楽しいものではなかった」とのちに述懐している[25]。翌年、在籍期間延長のため客員講師に就任する。現代日本文学のセミナーで第三の新人を講義、サブテキストとして江藤淳の『成熟と喪失』を用いる[注 7]。
1994年4月、『ねじまき鳥クロニクル』第1部、第2部を刊行。
「デタッチメント」から「コミットメント」へ[編集]
1995年6月、帰国。同年8月、『ねじまき鳥クロニクル』第3部を刊行、翌年第47回読売文学賞受賞。
1996年6月、「村上朝日堂ホームページ」を開設。1997年3月、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめたノンフィクション『アンダーグラウンド』刊行。それまではむしろ内向的な作風で社会に無関心な青年を描いてきた村上が、社会問題を真正面から題材にしたことで周囲を驚かせた。1999年、『アンダーグラウンド』の続編で、オウム真理教信者へのインタビューをまとめた『約束された場所で』により第2回桑原武夫学芸賞受賞。2000年2月、阪神・淡路大震災をテーマにした連作集『神の子どもたちはみな踊る』刊行。
この時期、社会的な出来事を題材に取るようになったことについて、村上自身は以下のように「コミットメント」という言葉で言い表している。
「それと、コミットメント(かかわり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(かかわりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが」[26]
「『ねじまき鳥クロニクル』は、ぼくにとっては第三ステップなのです。まず、アフォリズム、デタッチメントがあって、次に物語を語るという段階があって、やがて、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです。そこの部分で、コミットメントということがかかわってくるんでしょうね。ぼくもまだよく整理していないのですが」[27]
「コミットメント」はこの時期の村上の変化を表すキーワードとして注目され多数の評論家に取り上げられた。阪神の震災と地下鉄サリン事件の二つの出来事について、「ひとつを解くことはおそらく、もうひとつをより明快に解くことになるはずだ」と彼は述べている[28]。このため、短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収められている作品はすべて、震災が起こった1995年の1月と、地下鉄サリン事件が起こった3月との間にあたる2月の出来事を意図的に描いている[29]。
翻訳家として[編集]
村上は創作活動と並行して多くの翻訳を行ってきた。『カイエ』(冬樹社)1979年8月号に掲載されたスコット・フィッツジェラルドの短編『哀しみの孔雀』が、商業誌に発表したものとしては初めての作品である。「最初に『風の歌を聴け』という小説を書いて『群像』新人賞をとって何がうれしかったかというと、これで翻訳が思う存分できるということでした。だからすぐにフィッツジェラルドを訳したんですよ」[30]と語っているように、『哀しみの孔雀』の発表は『風の歌を聴け』が『群像』1979年6月号に掲載されてからわずか2か月後のことであった。
1981年5月、中央公論社より初めての翻訳書『マイ・ロスト・シティー フィッツジェラルド作品集』を刊行。1983年7月、レイモンド・カーヴァーの作品集『ぼくが電話をかけている場所』(中央公論社)を刊行。2004年7月、『レイモンド・カーヴァー全集』全8巻の翻訳を成し遂げた。
2003年以降、アメリカ文学の新訳を継続的に刊行している。同年4月、『ライ麦畑でつかまえて』のタイトルで親しまれてきたサリンジャーの長編の新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を発表。同作品を皮切りに、フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』(2006年11月)、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』(2007年3月)、トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』(2008年2月)、チャンドラーの『さよなら、愛しい人』(2009年4月)、『リトル・シスター』(2010年12月)、『大いなる眠り』(2012年12月)、『高い窓』(2014年12月)、『プレイバック』(2016年12月)、サリンジャーの『フラニーとズーイ』(2014年2月)等を翻訳した。
小説の執筆と翻訳を交互に行う仕事のスタイルを、村上は「チョコレートと塩せんべい」という比喩で語る[注 8]。
2017年4月27日に自身の翻訳の仕事をテーマに語るトークイベントが都内で行われた際に本人は「翻訳がなければ僕の小説は随分違ったものになっていたはず。翻訳を通して自分は発展途上にある作家だと実感できる」と語って、翻訳そのものを「ほとんど趣味の領域と言っていい」として「学んだのは世界を切り取り、優れた文章に移し替える文学的錬金術とも言える働き」と説明した[32]。
近年の活動[編集]

2005年、マサチューセッツ工科大学にて

2009年、エルサレム賞授賞式にてエルサレム市長ニール・バルカット(左)と
2002年9月、初めて少年を主人公にした長編『海辺のカフカ』発表。2004年にはカメラ・アイのような視点が登場する実験的な作品『アフターダーク』を発表。2005年、『海辺のカフカ』の英訳版『Kafka on the Shore 』が『ニューヨーク・タイムズ』の"The Ten Best Books of 2005"に選ばれ国際的評価の高まりを示した。2006年、フランツ・カフカ賞、フランク・オコナー国際短編賞(Frank O'Connor International Short Story Award)と、国際的な文学賞を続けて受賞。特にカフカ賞は、前年度の受賞者ハロルド・ピンター、前々年度の受賞者エルフリーデ・イェリネクがいずれもその年のノーベル文学賞を受賞していたことから、2006年度ノーベル賞の有力候補として話題となった。同年の世界最大規模のブックメーカーである英国のラドブロークス (Ladbrokes) のストックホルム事務所による予想では、34倍のオッズが出され18番人気に位置(受賞は同予想で1位のオルハン・パムク)。2007年の同予想では11倍のオッズ、6番人気とさらに評価を上げた[33]。また近年の年収は海外分が既に国内分を上回っており、事務所の仕事量も3分の2は海外とのものであるという[34]。
2008年6月3日、プリンストン大学は村上を含む5名に名誉学位を授与したことを発表した[35]。村上に授与されたのは文学博士号である。
2009年1月21日、イスラエルの『ハアレツ』紙が村上のエルサレム賞受賞を発表[36]。当時はイスラエルによるガザ侵攻が国際的に非難されており、この受賞については大阪の市民団体などから「イスラエルの戦争犯罪を隠し、免罪することにつながる」として辞退を求める声が上がっていた[37]。村上は2月15日、エルサレムで行われた授賞式に出席し記念講演(英語)を行う[38]。スピーチ内容は全文が直ちにメディアによって配信され[39]、それを日本語に翻訳した様々な文章がインターネット上に並んだ[注 9] [注 10]。『文藝春秋』2009年4月号に村上のインタビュー「僕はなぜエルサレムに行ったのか」が掲載される。スピーチの全文(英語と日本語の両方)も合わせて掲載された。なお授賞式では、スピーチの途中からペレス大統領の顔がこわばってきたのが見えたという[43]。
2009年5月、長編小説『1Q84』BOOK 1およびBOOK 2を刊行。同年11月の段階で併せて合計223万部の発行部数に達した。同作品で毎日出版文化賞受賞。同年12月、スペイン政府からスペイン芸術文学勲章が授与され、それによりExcelentísimo Señorの待遇となる。
2011年6月、カタルーニャ国際賞を受賞。副賞である8万ユーロ(約930万円)を東日本大震災の義捐金として寄付する。受賞式のスピーチでは日本の原子力政策を批判した[44]。
2012年1月2日、1月3日に放送された箱根駅伝のTVコマーシャルのナレーションを執筆した。制作はサッポロビール。監督は是枝裕和[45]。
同年9月28日、『朝日新聞』朝刊にエッセイ「魂の行き来する道筋」を寄稿した。その中で、日中間の尖閣諸島問題や日韓間の竹島問題によって東アジアの文化交流が破壊される事態を心配して、「領土問題が「感情」に踏み込むと、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。」「しかし賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。」「安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いではしまってはならない。」と警告した[46][47]。
2015年1月15日、期間限定サイト「村上さんのところ」を開設した[注 11]。同日から1月31日までの間に37,465通のメールが寄せられた。4月30日に更新終了[49]。読者のとやりとりは約3,500問に及んだ[50]。
同年8月4日、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の新訳英語版がHarvill Seckerから出版された。翻訳はテッド・グーセン[51]。
作品の特徴[編集]
平易な文章と難解な物語[編集]
平易で親しみやすい文章は村上がデビュー当時から意識して行ったことであり、村上によれば「敷居の低さ」で「心に訴えかける」文章は、アメリカ作家のブローティガンとヴォネガットからの影響だという[52]。「文章はリズムがいちばん大事」[53]とは村上がよく話す言葉だが、そう思うに至った理由を次のように説明している。「何しろ七年ほど朝から晩までジャズの店をやってましたからね、頭のなかにはずっとエルヴィン・ジョーンズのハイハットが鳴ってるんですよね。」[53]
隠喩[注 12]の巧みさについて、斎藤環は「隠喩能力を、異なった二つのイメージ間のジャンプ力と考えるなら、彼ほど遠くまでジャンプする日本の作家は存在しない」と評している[56]。
一方、文章の平易さに対して作品のストーリーはしばしば難解だとされる。村上自身はこの「物語の難解さ」について、「論理」ではなく「物語」としてテクストを理解するよう読者に促している。物語中の理解しがたい出来事や現象を、村上は「激しい隠喩」とし、魂の深い部分の暗い領域を理解するためには、明るい領域の論理では不足だと説明している[57]。このような「平易な文体で高度な内容を取り扱い、現実世界から非現実の異界へとシームレスに(=つなぎ目なく)移動する」という作風は日本国内だけでなく海外にも「春樹チルドレン」と呼ばれる、村上の影響下にある作家たちを生んでいる[58]。また、村上の作品は従来の日本文学と対比してしばしばアメリカ的・無国籍的とも評され、その世界的普遍性が高く評価されてもいるが、村上自身によると村上の小説はあくまで日本を舞台とした日本語の「日本文学」であり、無国籍な文学を志向しているわけではないという。なお村上が好んで使用するモチーフに「恋人や妻、友人の失踪」があり、長編、短編を問わず繰り返し用いられている。
長編小説家[編集]
村上の著作は小説のほかエッセイ、翻訳、ノンフィクションなど多岐にわたっており、それらの異なる形態の仕事で意図的にローテーションを組んで執筆している[59]。しかし自身を本来的には長編作家であると規定しており、短編、中編小説を「実験」の場として扱い、そこから得られたものを長編小説に持ち込んでいると語っている[60]。またそれらのバランスをうまく取って仕事をする必要があるため、原則的に依頼を受けての仕事はしないとしている[59]。
「総合小説」への試み[編集]
村上は1990年代後半より、しきりに「総合小説を書きたい」ということを口にしている。「総合小説」として村上はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を引き合いに出している。それは「いろいろな世界観、いろいろなパースペクティブをひとつの中に詰め込んでそれらを絡み合わせることによって、何か新しい世界観が浮かび上がってくる」[61] ような小説のことを指すのだという。そして「パースペクティブをいくつか分けるためには、人称の変化ということはどうしても必要になってくる」[61] という。その試みは『ねじまき鳥クロニクル』(一人称の中に手紙や他の登場人物の回想が挿入される)、『神の子どもたちはみな踊る』(すべて三人称で書かれた)、『海辺のカフカ』(一人称と三人称が交互に現れる)、『アフターダーク』(三人称に「私たち」という一人称複数が加わる)などの作品にあらわれている。
村上が影響を受けた作家と作品[編集]
村上は自身が特に影響を受けた作家として、スコット・フィッツジェラルド、トルーマン・カポーティ、リチャード・ブローティガン、カート・ヴォネガット、レイモンド・チャンドラーらを挙げている[62]。このほかにフランツ・カフカ、ドストエフスキーらの作家も加わる。「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本」としてフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、そしてチャンドラーの『ロング・グッドバイ』の3冊を挙げている[63][注 13]。読売新聞で『1Q84』をめぐる記者との対談に於いて、後期ヴィトゲンシュタインの「私的言語」概念[65]に影響を受けていたことを明かした[注 14]。

生活[編集]
かつては一日3箱を喫うヘヴィースモーカーであった。『羊をめぐる冒険』の執筆が完了した後に禁煙した。
他方で、飲酒については好意的である。アイルランドのウイスキー賛歌ともいえるエッセイ『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(平凡社、1999年12月)なども著している。
カキフライが好物[107][108]。
猫好きであり、大学生の頃からヨーロッパで生活する1986年まで、多くの猫を飼った。ヨーロッパに渡る前、飼っていた猫を講談社の当時の出版部長に預ける。その時に条件として、書き下ろしの長編小説を渡す、と言う約束をした。この書き下ろしの長編小説が『ノルウェイの森』である[109]。「猫」は村上小説の中で重要な役割を果たすことが多い。仕事で海外を飛び回ることが多いため、現在飼うことは断念しているという。
趣味・嗜好[編集]
マラソンを現在まで続けている。走り始めたのは1982年の秋だという[110]。当時習志野市に住んでいた村上は、朝、近所にあった日本大学理工学部の400メートルトラックで走らせてもらったりしながら徐々に距離を上げていったという[111]。1983年7月、アテネからマラトンまでを一人で走る。オリジナルのマラソン・コースが村上にとって初めてのフルマラソンとなった[112]。トライアスロンにも参加している。冬はフルマラソン、夏はトライアスロンというのがここ数年の流れである。毎朝4時か5時には起床し、日が暮れたら仕事はせずに、夜は9時すぎには就寝する。ほぼ毎日10km程度をジョギング、週に何度か水泳、ときにはスカッシュなどもしている。
「走ることが創作のために大事な役を果たしているという肉体的な実感をずっと持ってきた」と村上は近年のインタビューで答えている[注 17]。
中学生の頃からジャズ・レコードの収集をしており、膨大な量のレコードを所有している(1997年当時で3000枚)。音楽はジャズ、クラシック、ロックなどを好んで聴く。エルヴィス・プレスリー[注 18]やビートルズ、ザ・ビーチ・ボーイズ、ドアーズをはじめとする古いロックはもちろん、レディオヘッド、オアシス、ベックなどの現代ロックを聴き、最近ではコールドプレイやゴリラズ、スガシカオのファンを公言している。常に何か新しいものに向かう精神が大事なのだという[114]。
東京ヤクルトスワローズの熱心なファンである。そのきっかけは、東京に移り住んだ時にその土地のホームチーム(読売ジャイアンツ、東映フライヤーズ、東京オリオンズ、サンケイアトムズ)を応援するべきだと考え、その中で立地と居心地の良い神宮球場が気に入り(当時の神宮球場は観客席の一部が芝生だったため)、サンケイアトムズの応援を始めたことである。その後も、東京ヤクルトスワローズのファンを続け、いまでもなお、しばしば球場に足を運んでいる(『村上朝日堂ジャーナル』)。神宮球場でデーゲームの野球観戦中にビールを飲んでいたところ「小説を書こう」と思い立ち、『風の歌を聴け』を執筆したという逸話がある[注 19]。そうしたこともあり、2013年9月、ヤクルト球団からオフィシャルファンクラブ『スワローズクルー』の名誉会員への就任が発表された。スワローズオフィシャルファンクラブ名誉会員としては出川哲朗(タレント)に次いで2人目である[115][116]。
フィンランド出身の映画監督、アキ・カウリスマキの映画は全て好きだと2004年のインタビューで述べている[117]。
発言・エピソード[編集]
「作家は批評を批評してはならない」[118]
「まず妻より始めよ。あとの世間は簡単だ」[119]
「個人と組織が喧嘩をしたら、まず間違いなく組織のほうが勝つ」[120][注 20]
好きな日本の小説家は夏目漱石、吉行淳之介で、川端康成はそれほど好きではない、という[123]。
選択的夫婦別姓について賛同する[124]。「結婚したからどちらかが姓を変えなくちゃならないというのは、憲法に保障された男女同権とあきらかに矛盾することです。そんなの不公平ですよね」と述べている[124]。
村上春樹のデビュー作である『風の歌を聴け』にでてくる作家デレク・ハートフィールドは架空の人物であり、大学図書館などでは、「デレク・ハートフィールドの著作を読みたい」という学生のリクエストに応えて司書が著作を探しては首をかしげるという誤解が後を絶たない(『図書館司書という仕事』久保輝巳著「1章 ある図書館司書の生活」はこのエピソードを描いたものである)。
エディンバラのイベントで作家になった理由を「団体に所属する必要もないし、会議に出る必要もなく、上司を持たなくてもいいからだ」と答えた[125]。
1983年時の自身の談話によれば、群像新人文学賞にはペンネームで応募したという[126]。
メディア・広報活動[編集]
日本のテレビ、ラジオに出演したことはない[注 21]。近年はインタビューの依頼があっても、一部の新聞・雑誌を除いて積極的には応じない。インタビュー嫌いの理由として、本人は、ジャズ喫茶経営時代に「毎晩客の相手で一生分の会話をした。今後は、本当に話したい人にしか話さないと誓った」からだと述べている[10]。
日本国内で、講演会や朗読会など公の場に出ることは極めて少ない。その一方で、海外では講演や書店のサイン会はよく行っている。海外マスメディアのインタビューにも精力的に応じている。なお、2015年11月28日〜29日に郡山市で行われた「ただようまなびや 文学の学校」に予告なしでゲスト出演し話題となった。村上は自作短編の朗読を行い、福島県の高校生と懇談し、ワークショップや討論会に参加した[128][129]。
評論家などによる自身の小説に関する文章はまず読まないが、インターネットなどを通じて届いた読者の意見は全部読むと語る。「僕は、正しい理解というのは誤解の総体だと思っています。誤解がたくさん集まれば、本当に正しい理解がそこに立ち上がるんですよ」と村上は言う[130]。ただし例えばエルサレム賞受賞に関するマスメディアの批評は十分読んでいる[106]。