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[2000年を目前に、写真表現のこの20年間を思い起こす:倉石信乃『反写真論』・島尾伸三『ひかりの引き出し』/日本カメラ2000年1月号:243]
今、誰しも2000年が訪れることを疑ってないように、1980年代には、写真表現に関わる誰もが、90年代が訪れることを疑っていなかったのではないだろうか。
こんなことを、今さらながら、ふと思ってしまったのは、倉石信乃の『反写真論』に収められた文章の初出の日付が、主に90年代の後半と記されていたからである。このような真摯な批評が写真表現をめぐって、90年代の後半に綴られていたことには、率直に驚かずにいられない。例えば、本書のために書き下ろされた文章の、次の一節をみてみよう。
「よく見られる眺めに即して言えば、『メタ批評』の主体は、自らも死傷する可能性のある距離をあっさり回避した上で、作者と作品ではなく、その茫洋と拡がるはずの存立基盤を書割のそれのごとくに前景化しながら、これを腑分けして見せる偽の『外科医』を髣髴させることになる。」
ここで用いられている言葉ないしは語調から、80年代を思い起こさない者はいないだろう。ある種の定説に従って、1985年から95年という区切りを80年代と捉えるなら、80年代とは確かに、写真があり、批評があり、それらがあるという暗黙の了承の中で、写真表現の可能性と不可能性が、ロマンティックな自家撞着の中で語られた時代であった。
しかし、90年代には、可能性と不可能性も展開されなかった。というのも、写真表現があるという前提そのものが、不意に消滅してしまったように思われるからだ。それゆえ、反・写真論を意味するのか、反写真・論を意味するのか、いずれにしても、タイトルからして80年代的な『反写真論』が今あえて出され、そこで、例えば〈死傷〉という言葉が隠喩ではなく、真に何かが賭けられている言葉として用いられているとするなら、いささかも反語ではなく、そこに奇跡を見るような驚きと感動を覚えずにはいられないのである。
島尾伸三の『ひかりの引き出し』は、まったく別の意味で、消滅してしまった写真表現の90年代、訪れなかった90年代について思い起こさせる一冊である。
ここ20年間に書かれた文章が編まれたらしい本書は、冗長とも言えるほどの長さの文章のような目次、【】にくくられた見出し、一部がゴチックで強調された本文など、読みやすくする努力がなされているにもかかわらず、読めば読むほど意味不明である。こう言っても、筆者には失礼に当たるまい。なぜなら筆者自身が、【ごめんなさい】という見出しで、あとがきで、こう言っているからである。
「そうなんです。私が言ったり書いたりしていることは、矛盾に満ちていて、整合性がありません。その場の思いつきと、原稿の締切に間に合わせようといい加減な作文で誤魔化してきただけなのです。ここに、二十年ほどかけて書いた赤茶けた作文を並べ、あまりの無知に呆然自若し落涙するばかりです。こんな湿っぽいことをあとがきに、ぬめぬめと書くこと自体が不健全なのですが。何をやっても私のような考えでは、無意味だという気持ちも押さえがたいのです。事実そうなのかもしれません。」
この余りにも正直な一節は、80年代のロマンティックな自家撞着において、コンテンポラリー世代の十八番であった自己憐憫を超えて、90年代の脱力感を示して、なお余りあるように思われる。このように言われてみれば、写真も批評も、あるという暗黙の了解があっただけで、そもそも60年代から今日に至るまで、あった試しがなかったのかもしれない、とも思えてくる。
2000年を目前に控え出版されたこの2冊は、こうした意味で、1980年代ないしは訪れなかった90年代の総括とも捉えることができる。筆者がどこまで本意なのか知るよしもないが、いずれにせよ、ささやかな慰めは、この2冊が、写真はかろうじて文学でありえたということの証左になっていることだろう。

[この四半世紀で際立ってきた写真表現における歴史観の希薄化:日本写真家協会編『日本現代写真史1945-95』/日本カメラ2000年6月号:241]
『日本現代写真史1945-95』を見てまず思うことは、同じく日本写真家協会から1977年に出版された『日本現代写真史1945-75』との、外見の類似性である。今回出版されたものの方が若干厚みが増しているが、縦の箱に収められた、A4判横という変形のフォーマットは共通しており、一見すると増補改訂版かと思ってしまうほどよく似ている。
しかし誤解のないように、結論を先に言えば、この2冊は全く別の本である。それゆえ、1977年刊の『日本現代写真史1945-75』(以下『75』版)と、2000年刊の『日本現代写真史1945-95』(以下『95』版)を見比べてみることは、興味深いことのように思われる。なぜならそれは、75年以降の写真表現の変化を捉えることにとどまらず、この20余年の間の写真表現に対する、ひとつの歴史観の変化を捉えることでもあるだろうからである。
『75』版は、前半が「歴史への証言」「社会への訴え」「映像化の社会」の3つの写真セクション、後半が15章からなる解説、そして年表、索引などの資料で構成されている。『95』版は、前半が「時代の目撃」「写真家は何をとらえたか」「対象と表現の多様化」の3つの写真セクション、後半が解説、そして年表、索引などの資料で構成されている。
このような大まかな構成だけ見ると、非常に似通っているようにも思えるのだが、まず感じる大きな差異は、解説の量的な違いである。『75』版が、約590頁の全体の中で解説が369頁からはじまっているのに対して、『95』版は、約660頁の中で、解説がはじまるのは535頁からである。しかも、『75』版の資料が503頁からはじまり、『95』版の資料が558頁からはじまっていることを考えると、130頁余りが解説に割かれている『75』版に対し、『95』版の解説は20頁余りということになる。もちろん『95』版の解説では小さめな文字組になっていることや、写真セクションにも文章が織り込まれていることを考慮しなければならないだろうが、それにしても総論的な解説の減少は一目瞭然である。
写真セクションにも大きな差異がある。単純に言えば、『75』版の「歴史への証言」「社会への訴え」が、『95』版の「時代の目撃」に対応し、『75』版の「映像化の社会」が、『95』版の「写真家は何をとらえたか」「対象と表現の多様化」に対応していると言えるのだろうが、写真が延々と資料的に続いていく『75』版に対して、『95』版では、かなり意識的に区分が設けられているのである。特に、「写真家は何をとらえたか」では、ひとりひとりの写真家にスポットを当てる形でページが構成され、「対象と表現の多様化」では、ゆるやかなテーマによって写真が区分されており、『75』版と比較すると、写真家やテーマが強調されている印象が強い。
いささか粗雑になるのを承知の上で、こういった差異から見られる変化を一言で言うなら、写真にまつわる言葉の減少と、写真家やテーマの浮上であろう。もちろん、この20余年の写真表現の変化をそれだけで言い尽くすことは、乱暴すぎるだろうが、それは、80~90年代を通過した写真表現の一面を、的確にあらわしているようにも思われる。
写真表現が、社会性から解き放されて、個人的な表現に移行したと言われて久しいが、そうした流れからすれば、このような傾向の変化は当然のことなのかもしれない。が、じっさいに、『75』版と『95』版という物理的な差異によってそれを感じてみると、その変化が、思いのほか写真表現にとって大きな変動であったことが実感されてくるのではないだろうか。
『95』版を特徴づけているのは、『日本現代写真史1945-95』というタイトルであるにもかかわらず、そこに明確な歴史的な観点が見られないことである。その印象は、こうして『75』版と比較してみると、ますます明瞭になる。写真にまつわる言葉の減少と、写真家やテーマの浮上という変化を言いかえるなら、歴史観の希薄化ということになるだろう。
もちろん、社会から個人への視点の移行は、写真表現に限らず、あらゆる表現、文化に共通する、この四半世紀の変化であり、本書に見られる、写真表現における歴史観の希薄化も、そうした変化の帰結にほかならない。本書の編集に関して言えば、希薄化する歴史観を、緻密な各論、豊富な資料で丹念にフォローしており、その点は、むしろ大きく評価されてしかるべきであろう。それゆえ、この帰結は編集上のものではなく、写真表現に関わる誰もが等しく抱えるべき問題だと言えるだろう。かつては社会を軸に構築されていた歴史観を、いかにして個人を軸に再構築するのか、あるいは歴史観そのものを放棄していくのか、多様化がうたわれた写真表現にのこされた課題は重い。

[シリーズ『日本の写真家』:幕末から70年代まで、日本の写真通史/日本カメラ1998年5月号:105]
すでに書店で目にしている方も多いと思うが、昨年9月、5巻が刊行されたのを皮切りに、毎月2巻、岩波書店より『日本の写真家』シリーズが刊行されている。
最終的には、全40巻プラス別巻という構成になるこのシリーズは、各巻、基本的に一人一冊のアンソロジー写真集として作られており、それぞれに作家を紹介する文章やインタビュー、年譜が付され、全巻が刊行されると、幕末から1970年代をフォローする、日本写真通史になるというスケールの出版である。
ここ10年程で、写真表現は以前に比べ大きな注目を集めるようになり、出版や展覧会などでも、様々な企画が立てられるようになってはきたものの、新たに関心を持った人たちに、充分応えうる環境が整っているかと言えば、けっしてそうではないというのが実状だろう。おそらくその根底には、時代や状況によって、じつに多様な仕方で活用されてきた写真表現を系統立てるということの、特有の困難があるように思われる。
全40巻というボリューム、一冊70ページ前後で、写真集としてはコンパクトなサイズの体裁は、写真表現になじんでいる人たちには、やや物足りないものかもしれないが、逆に言えば、作家や作品のセレクションは、その分限られたボリュームの中で凝縮されており、なによりも、写真特有の困難に立ち向かって打ち出された、シリーズ全体のスケールは、そうした物足りなさを補って、なお余りあるものだろう。
いっけん教科書的で地味ではあるが、日本の写真表現や写真史の、いわばスタンダードを提示する試みとしてみると、きわめて野心的な企画とも捉えることのできるこのシリーズは、入門者の手引きとしてはもとより、写真表現になじんでいる人たちにも見逃せない写真集になるのではないだろうか。

[文化に属するテクストとして写真を読むこと:アラン・トラクテンバーグ『アメリカ写真を読む』/日本カメラ1997年2月号:146]
一九八九年、つまり写真誕生百五十周年に当る年に原著が出された、アラン・トラクテンバーグの『アメリカ写真を読む』の邦訳が出版された。訳者は、既にイアン・ジェフリーの『写真の歴史』を訳出したこともあり、ラテン・アメリカ・スタディーズを専門としている石井康史と、映像史、アメリカ研究を専門とし、周到なリサーチを背景にしながら写真をめぐる繊細かつ独自な論評をたびたび記している生井英考。写真誕生百五十周年をめぐる喧騒の中でも、ひときわ高く評価されていた書物の待望の翻訳が、理想的なかたちで刊行されたといっていいだろう。それ自体でも、アメリカ写真をめぐる状況を知る参考になる生井のあとがきによると、本書は、気軽に眼にできる通史として、発売以来、アメリカの都市の一般書店の棚から淘汰されることなく、多くの読者のかたわらにありつづけているらしい。
しかしながら、五百頁を越える(原著でも三百頁を越える)ボリュームの本書を、いわゆる写真の通史として、つまり、様々な写真家による多様な写真の展開といったイメージとともに手に取るならば、いささかその人気が解せないところがあるかもしれない。なぜなら、著者自身が序文で述べているように、ここには「フランシス・ベンジャミン・ジョンストン、エドワード・ウェストン、ポール・ストランド、ドロシア・ラングさえ登場しない」からである。それはなぜか。トラクテンバーグは次のようにいっている。
「独立したのものとしてでも歴史的してでもなく、文化に属するテクストとして写真を読むこと。そのための方法を提起し検証するために、是非はともあれこれらの写真家たちのテクストを切り棄てざるを得なかったのである。写真がなにを見せてくれるか、ないし写真がどう見えるかだけでなく、それ自身の意味を写真がいかに構築しているかという点にこそ、歴史としての写真というものの価値があるからだ」。
このように語られ、本書のボリュームの中で実践されてもいる著者の明瞭な視座こそが、すなわち、どれだけ多くの事象が取り込まれたかではなく、いかに事象が限定され、いかなる方法によって探究されているかという理念こそが、本書がいわゆる写真の通史と一線を画するとともに、広範な支持を得ている理由でもあるだろう。そしてそれが、一八三九年から一九三八年という限られた時代の中の、さらに限られた写真家を扱ったものでありながら、本書をきわめてアクチュアルかつコンテンポラリーな言説として照し出しているといっていい。
したがって、本書を読むことは、アメリカ写真について、これまで他の書物からは得ることのできなかった視座と知識を得ることにつながるであろうことはもちろんだが、それと同時に、私たちにある問いを潜在的に投げかけずにおかないだろう。それは、トラクテンバーグが序文の最後で、「写真は過去を表象しつつ、現在が自らを理解し、未来を予測しようとする欲求に仕えるのである。写真の歴史はつまるところこうした政治的なヴィジョンの裡に横たわるものであり、私たちがそのヴィジョンを認識するときの助けとなるものなのである」と語るときの、「ヴィジョン」をいかに捉えるのかという問いである。その問いは、日本の読者である私たちには、端的にいえば『アメリカ写真を読む』を読むとはいかなることかという二重の問いとして浮び上ってくるように思われる。

[写真家の生涯を読む。:決定版ともいえるスティーグリッツとメイプルソープの伝記/日本カメラ1996年2月号:115]
アメリカ近代写真の父と言われるアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)、そして、アメリカ写真のポストモダンの寵児ロバート・メイプルソープ(Robert Mapplethorpe)の伝記が、相次いで出版された。

Alfred Stieglitz: A Biography 『アルフレッド・スティーグリッツ 伝記』を手がけたのは、ロバート・キャパの伝記などで知られる、リチャード・ウィーラン(Richard Whelan)。その徹底した取材と、周到なリサーチぶりには、定評がある人物だ。本書もその例に漏れず、650頁以上のボリュームのうち、巻末のおよそ100頁が引用・参考文献の一覧に割かれていることからも、現在可能な調査をすべて行ったうえで書かれたものであろうことが伺える。スティーグリッツをめぐった写真集や評伝は、これまで数え切れないほど出版されてきたが、これだけのスケールで彼の生涯を描いた本は、はじめてと言ってよいだろう。

19世紀の後半に生れ、自らが写真家であると同時に、出版者、画廊主、コレクター、パトロンとして活動し、多くの写真家や美術家を育成あるいは紹介して、世に送り出していったスティーグリッツは、自身の写真作品はもとより、20世紀初頭のアメリカ美術に注目すべき業績を残している。周囲の人々や家族、友人、そしてジョージア・オキーフをはじめとする女性たちとの関係から、そうした彼の多彩な活動の軌跡を詳細に浮び上らせた本書からは、アメリカ写真のモダニティが形作られていった現場を、生き生きと感じることができるだろう。

Mapplethorpe: A Biography メイプルソープ 『ロバート・メイプルソープ 伝記』の著者パトリシア・モリズロー(Patricia Morrisroe)は、雑誌『ニューヨーク』や、新聞『ニューヨーク・タイムズ』で活躍している俊英。「僕の人生は、おそらく僕の写真より興味深いよ」と言っていたメイプルソープは、エイズによる自らの死を予期し、伝記を書くことをモリスローに託した。そして、1989年3月に彼が死去する1ヵ月前までの間、16回に渡るインタヴューが行われ、メイプルソープと関わった人々の協力を得ながら6年間を費やして入念に書かれたのが、450頁を越えるボリュームの本書だ。

同性愛・SM・裸体などポルノグラフィックな対象を、写真によるアートとして提示したメイプルソープは、静謐な構成と性的な題材とが同居する写真作品によって、80年代に一挙に名声を高め、アート・シーンを登りつめたその時に、この世を去っていった。彼の作品と相まって、とかくスキャンダラスに語られがちであった、私生活における、ロック・スター、パティ・スミスとの熱情的な関係、アート・コレクター、サム・ワグスタッフとの同性愛、ニューヨークの性的アンダーグラウンドへのオブセッションなどの実相を描き出した本書には、一つの時代の症候としてのポストモダンを体現したような彼の生涯が、過不足なく照し出されている。

[写真の技法:写真論/onlimits vol.2 1996年7月号:138-142]
1.
エドワード・ウェストンは、自己の表現観を次のように述べている。
私はいっさい先入観をもたずに始める
発見に興奮し、焦点を合わせる
するとレンズを通して再発見できる
最終的な像の形がすりガラスに写り、
露出のまえに、仕上がりプリントの
あらゆる細部の質感、動き、調和に至るまで
予見できる。
自動的にシャッターが降り、
ついに私の構想が定着する
後から修正する余地はない
結局のところ、プリントは私が
カメラを通して見たり感じたりしたもの、
そのすべてを複写したものなのだ。
ピクトリアリズムからストレート・フォトグラフィーへの転回を体現したウェストンが述べたこのマニフェストとも言える文章には、いささか不可解な構図が孕まれているようにみえる。
「シャッターが降り、後から修正する余地はない」という点において、主張されているのは、まぎれもなくストレート・フォトグラフィーの構図そのものだろう。けれども、この文章において実際に強調されているのは、「シャッターが降り」ることではなく、「予見」なのである。つまり、ここからこの文章を受け取るならば、ウェストンにとって写真を撮ることとは、「後から修正する余地がない」営為であるのはもちろんのこと、「シャッターが降り」ることすらも、さほど重要ではない、「予見」を「定着」する営為であることになるだろう。
ウェストンの写真は、即物的な表現であると語られることが多い。しかし、この文章を読む限り、彼の表現は、即物的であるどころか、極度に観念的な表現だと言うべきであろう。なにしろ、「プリント」は「予見」したものすべての「複写」だと言うのだから。もちろん、一方で写真を撮るという直截な営為を強調しつつ、他方で写真を撮るための観念を強調するこの矛盾、つまり、スーザン・ソンタグが〈写真が世界にかかわるものである(あるいはそうあるべきだが)かぎり、写真家はあまり価値がないが、それが大胆な主観性探求の道具であるかぎり、写真家はすべてなのである〉と言うところに典型的にみられる矛盾は、ストレート・フォトグラフィーをめぐる言説がもともと孕んでいたものでもある。しかし、ここで注目しておきたいのは、その矛盾そのものではなく、そうした矛盾をめぐることではじめて培われたであろう、ウェストンの精神性と写真を作る技術との独特な関係である。
ウェストンが、ピクトリアリズムからストレート・フォトグラフィーへと転回していったとき、彼が見出したのは、確かに、写真を作る過程で手を加えないことで得られる、写真独自の美的な何かであっただろう。しかし同時に、手を加えないことが美的な何かに結び付けられるためには、彼の精神性もまた新たに形作られなければならなかっただろう。また、こうした精神性なしに、即物的と語られる彼の写真を作る技術が規定されることも、ありえなかったであろう。この点から考えるなら、ウェストンの先の文章は、自身の表現観を述べたマニフェストであるだけでなく、こうした独特な精神性の構図を描く、写真表現の技法と呼ぶべきものではないだろうか。

2.
このような観点から、ウェストンの「予見」に、いまいちど着目してみよう。「露出のまえに、仕上がりプリントの/あらゆる細部の質感、動き、調和に至るまで/予見できる。/自動的にシャッターが降り、/ついに私の構想が定着する」と、彼は述べた。この文章の不可解なところは、熟達した技術によってもたらされたようにみえる、あの即物的と語られる写真が、彼が述べるところによれば必ずしもそうではなく、いわば方法化された予見によって導き出されたものであることにある。
写真を撮り、フィルムに定着された像を、プリントに焼き付けて見る。普段、写真を撮ると言うとき、想定されているのは、こうした一連の行為であろう。ウェストンの文章の不可解さは、この一連の行為が、分節され、語られていることに由来するものでもある。一連の行為を分節して考えるとき気づくのは、撮るという営為が、まさにシャッターを降ろすということ以外の何ものでもないことである。写真を撮るという営為それ自体は、見るという営為とは何のつながりもなく、ただ単にシャッターを降ろすということ、それ以上でも以下でもない。
言い換えれば、たとえどれほど熟達した技術を持つ写真家であろうと、写真を撮るそのときに、定着された像を見ることはできない。なぜなら、写真を撮るということは、シャッターを降ろし、像をフィルムに定着するということであって、像が定着されるそのとき、像が写っている面は、必ずフィルムによって覆われているからである。したがって、写真を撮るという営為が、ただ単にシャッターを降ろすことでないとするならば、写真家は何らかの意味で、写される像を予見する必要があることになるだろう。逆に言えば、ウェストンの述べるように、充分な予見が得られさえすれば、後はシャッターが自動的に降りればよいのである。
しかし、それでは、この「予見」はいったいどのようにすれば、得られるものなのだろうか。「私はいっさい先入観をもたずに始める/発見に興奮し、焦点を合わせる」と、ウェストンは言う。「先入観をもたず」に「予見」を得るとは、いったいどのような方法によって可能になるのだろうか。このいっけん相反する行為の共存については、「事象そのものへ」を符牒とする、現象学との類比によって考えるのが適切であるように思われる。 端的に言えば、現象学の方法の要点とは、日常の認識や行為の暗黙の前提を退け、対象の措定の仕方を括弧にいれて、認識や行為、対象の与えられ方の仕組みを記述し、意識に与えられている事象が、意識の相関物、その志向性の産物であることを照し出すことである。ロラン・バルトの『明るい部屋』をめぐった文章の中で、ヴィクター・バーギンは、この志向性について次のように述べている。
…現象学にとって欠くことのできない概念が、「志向性」の概念である。つまり、私にとって事物が存在するのは、(私が事物を単に受動的に「知覚」しているからではなく)偏に私が意識の中でそれを能動的に「志向」するからなのだ。精神とは、世界が像をその上に投影する単なるスクリーンではない。現象を「理解しようとする」とき、精神もまたある意味でプロジェクターとなり、その現象の上にさまざまな事物からなる一つの世界を投射しているというわけである。
これに続いてバーギンは、〈…現象学にのみ依拠する写真理論が即座に直面することになる問題とは、それが、写真とたとえば水晶球…に「映った」映像とを区別しえないという問題なのだ〉、と言う。しかし、この問題は、ウェストンにとって問題であるどころか、ストレート・フォトグラフィーへの転回によって、写真を作る過程で手を加えないことで生まれた、精神性と写真を作る技術の隔たりに、写真独自の美的な何かを見出す絶好の方法となることだろう。写真とすりガラスに映った像を区別しえないこと、まさにそのことによってのみ、「プリントは私がカメラを通して見たり感じたりしたもの、/そのすべてを複写したもの」に、なりうるのだから。「先入観をもたず」に「予見」を得ること、それは志向性によって、写真とすりガラスに映った像を混同する、ないしは等価とみなすことによって形作られた方法に他なるまい。

3.
ところで、ロラン・バルトは、『明るい部屋』で次のように述べている。
絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定がある。そしてこのような制約はただ「写真」にとってしか存在しないのだから、これを還元することによって、「写真」の本質そのもの、「写真」のノエマと見なされなければならない。私がある一枚の写真を通して志向するもの…、それは「芸術」でも「コミュニケーション」でもなく、「指向作用」であって、これが「写真」の基礎となる秩序なのである。
それゆえ、「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。
写真の本質を、事物がかつてそこにあった、という指向作用に見出すバルトは、続けて次のように述べる。〈普通は事物の存在を確認したのち、それが《真実である》と言うはずであるから、私の場合は逆説的な順序に従ったということになるが、私はある新しい経験、強度というものの経験の結果、映像の真実性から、その映像の起源にあるものの現実性を引き出したのだ。私は独特な感動のうちに真実と現実とを融合させたのであって、いまや私は、そこにこそ「写真」の本性――精髄があるとしたのである〉。
バルトの言う、映像の真実性から、その現実性を引き出すという逆説的な順序は、先入観を捨てることで得られる、つねに新しい撮るという経験の強度、すりガラスに写った像という真実、それが定着したところから遡行して引き出される現実性というウェストンの写真観と、相似的な構図を描いているように思われる。この相似において、共有されているものは何だろうか。ひとつは言うまでもなく、無時間的な映像であると言われる写真の共時的な位相で見出された真実性から、遡行して現実性が見出され、それらが融合するという、時間の捩れとその共存である。そして、もうひとつは、バーギンが〈『明るい部屋』の中でバルトが取り扱っているのは、…写真の一般的現象ではなく、むしろ想像力の「志向性」の切なる思いのほうなのである〉、と言うところにみられる意味での志向性だろう。
志向性の切なる思いのなかで見出される、真実性と、遡行して引き出される現実性において、時間は捩れそして融合する。しかし、このような過程にまつわる言説は、現象学が示唆するように、認識や行為、対象の与えられ方の仕組みの記述なのだろうか。言い換えれば、ウェストンにみられるように、写真独自の感動や経験として語られることが多いこうした言説化された過程は、単なる感動や経験の仕組みの記述にすぎないのだろうか。ウェストンの表現観を、独特な精神性の構図としての、写真表現の技法と捉えるならば、そうではなく逆に、方法化された志向性の切なる思いが形作る感動や経験の在りかにこそ、焦点が当てられてしかるべきであろう。

4.
写真を見る、と私たちは言う。写真を見るためには、写真が何らかの形で対象化されなければならないだろう。けれども、写真を見るということは、普通、写真を対象化して捉える、というよりも、写真によって対象化された何かを捉える、ないしは、写っている何かを写真として捉える、ということではないだろうか。写真を見るとき、写真と写真に写されたものを二重に対象化しているという点、そしてそうした二重の対象化が、志向性の切なる思いが切実であればあるほど鮮明に浮び上るという点で、バルトの言う〈現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定〉は、実はさほど珍しくなく実感されることに違いない。
だが、そもそも、私たちはいったいどのような営為を指して、写真を見る、と言っているのだろうか。例えば、私たちはどのような時間性の中で、いったいいつ写真を見始め、そして、見終えているのだろうか。しかし、まず、このように問いを置き換えるとき、すでに、見えるということと在るということが、混同されている恐れがあることに注意しなければならないだろう。見始め/見終えるという関係における差異は、見える/見えないという関係に基づく差異であって、存在/不在の差異とは質的に異なっている。写真を見始め、そして、見終えるというような問いの構図が形作られるためには、写真が当然のこととして存在していなければならない。つまり、見える/見えないという差異は、すでに見えなくても在るということに支えられているのである。
それでは、存在/不在の差異とは、どのような次元に属するものなのだろうか。存在/不在の差異とは、ある絶対的な差異の次元、つまり、在ると無いではなく、在るか無いかという次元の差異と言えるだろう。この在るか無いかという次元の差異が、何らかの形で在ると無いという次元の差異に移し換えられるときはじめて、見えなくても在るということが成立し、見える/見えないという差異が成り立ってくるのである。
ここで、事物がかつてそこにあったというふうに、写真から遡行して引き出される現実性とは、いかなる次元のものなのか考えてみよう。写真から引き出される、事物がかつてそこにあったということ、そこには、見えなくても在るということがありえないのだから、それはまさに、在ると無いという差異を欠いた次元、つまり、在るか無いかという次元の差異を浮び上らせるものであろう。換言すれば、《それは=かつて=あった》という写真のノエマが照し出すのは、その言葉の響きに反して、現在と過去、在ると無いという差異における現実性ではなく、存在様式以前の無時間的な現実性に他ならない。ここに何らかの時間性が生じるとすれば、それは《それは=かつて=あった》という写真のノエマにおいてではなく、写真から遡行するという点に求められるべきであろう。
こうしたことから、先入観を捨てることで得られる、つねに新しい撮るという経験の強度、すりガラスに写った像という真実、それが定着したところから遡行して引き出される現実性というウェストンの写真観を捉え返してみるならば、それが、存在様式以前の在るか無いかという次元の差異を、方法化された志向性の切なる思いにおける、遡行という時間の捩れによって、見える/見えないという差異の次元に逆説的に織り込み、感動や経験そのものを、写真の共時的な位相に作り出す技法であることが、明らかになってくるだろう。この意味で、ウェストンのマニフェストは、写真行為における感動や経験の仕組みの単なる記述、あるいは、言説化された過程ではむろんなく、その言説そのものが、写真行為に感動や経験を呼び込むための、写真行為の分節の技法を示唆したものだということになる。ここからみるならば、写真は無時間的な映像であるということよりも、写真がいかに自らを存在様式以前の無時間的な現実性に関係づけるのかが、考えられなければならないということになるだろう。比喩的に言えば、写真は瞬間を捉えるではなく、独特な言説化の時間性によって、瞬間なるものを作り出しているのである。そして、このような意味での写真表現の技法が、いかに写真表現の現在を満たしているようにみえようとも、それが即自的なものでもなければ自足的なものでもない以上、何よりも考えられなければならないのは、ありえたかもしれない、あるいは、ありえるかもしれない写真の技法の可能性であり、また、それと写真表現の現在とを照し合せてみることではないだろうか。

引用文献
『ふたりのまなざしを通して−ウェストン、アダムス自選ポートフォリオ』/原美術館
『写真論』スーザン・ソンタグ/晶文社
『現代美術の迷路』ヴィクター・バーギン/勁草書房
『明るい部屋』ロラン・バルト/みすず書房

[形式の革新に力を注いだ写真家:「アレクサンドル・ロドチェンコ展」/アサヒグラフ1993年11月12日号:93]
二十世紀初頭に起こったロシア・アヴァンギャルドの運動の中で、絵画・造型・デザイン・写真など多岐に渡る試みを一時に押し進めた作家として知られているアレクサンドル・ロドチェンコの写真展が、先月、東京・渋谷のパルコギャラリーで開かれた。
ロドチェンコが写真を使いはじめたのは、一九二〇年前後、コラージュやモンタージュのための素材としてである。やがて、時代によりふさわしい芸術は、伝統的なアトリエ芸術とは別の現代的表現手段から生み出されるという確信を持った彼は、二三年頃を境に本格的に写真を撮りはじめるようになった。
「すでに受け入れられている自然な見方に慣らされている我々は、視覚的世界を開示しなければならない。我々は、視覚的論法に革命を起こさなければならない。へその位置を除くすべての視点から、それらがすべて受け入れられるまで写真を撮れ。今日もっとも興味深いのは、上から下へ、下から上への視点であり、そこであらわれる対角線である」。
このようなスローガンをもとに、光と影を強調しつつ特異なアングルから撮られた彼の写真は、抽象的な写真の展開が促されたことがなかった当時のロシアにあって、「ロトチェンコ遠近法」や「ロトチェンコ短縮法」といった流行語が生まれるほどの波紋を投げかけ、賛否両論を呼んだ。
彼にとって重要だったのは、「なにを撮るか」ではなく「いかに撮るか」だった。表現効果を発揮するためには手法や方法の複合体による形式が必要とされる、と考えるフォルマリスト達の思想と関わりを持ち、自身も形態の構築と構成の体系によって絵画を展開してきたロドチェンコは、写真もまた形式的な体系によって成り立っていることを充分に理解していた。形式の革命だけが革命的出来事であるという考えに基づき、彼はその革新に力を注いだ。
ロドチェンコが着目した形式の問題は、写真表現はもとより、現代の私たちの様々な表現や生をも逃れ難く規定する条件というべきものになっている。今日例えば、形式とは無関係にプリミティブに対象に向かうことこそが写真の力だとしばしば語られるが、そこではそうした捉え方そのものが形式によって支えられた独特の錯覚であることが忘れられている。このような現在の写真状況において、彼の提起した問題はいっそうその重要性を増しているといえるだろう。形式の問題を忌避したところには、表現も生もありえない。ロドチェンコの写真は、このことを鮮明に照し出しているように思える。

[制作過程への積極的関与が意味を持つ:「今日のアメリカ写真展」/アサヒグラフ1993年7月2日号:?]
一九八〇年代にアメリカで起こった写真表現の大きな変化は、ありのままの現実を写し出すのが写真であるという写真観を拒絶し、制作のさまざまな過程に積極的に手を加えていくものであったといわれている。
コンストラクテッド・フォト(構成した写真)と総称されてきたこのような傾向の写真を、新しいスティル・ライフ・フォト(静物写真)という主題のもとに紹介したのが、『今日のアメリカ写真展−The New Still-Life』(伊勢丹美術館、六月三日〜十五日)である。
展示されたのはロバート・メイプルソープ、バーバラ・カスティン、サンディ・スコグランドなど良く知られた作家を含む二十三人による、約百点の作品。この傾向の写真は、従来の写真家だけではなく画家や彫刻家、インスタレーションやパフォーマンスを手掛ける美術家などによって担われ、コラージュやアサンブラージュなどによるさまざまなスタイルの引用と折衷として展開されてきたといわれる。同展のセレクションも、そのバリュエーションを網羅しながら、その多彩な展開のニュアンスをよく伝えるものであった。
これらの作品を、拡張されたスティル・ライフとして編んだキュレーターのパティ・キャロルは、写真表現の変容をどう捉えたのだろうか。彼女はいっている。「こうした写真では(あらゆる写真と同様に)、事実というのはどんなものであろうともカメラの前にあるものなのだ。これらの写真でカメラが記録しているものは、写真という記録形式によってのみ見せるためにアーティストが思い描き作りあげた幻想の世界である。これは、現実から瞬間をセレクトする方法、写真家が現実世界と反応しあい、現実と遭遇するチャンスが制作過程の一部になっている手法とは、まったく違う制作過程だ」。
現実世界との遭遇に代わって、幻想の世界を作りあげることが写真表現の制作過程になる。このことは、現実と幻想という対立やその融合が、果てしなく自己の中で戯れあう表現の快楽というイメージを提供してきた。しかし逆にいえばこれは、もはやさまざまなスタイルへの注釈としてしかありえない世界に対する自己の不安を、写真による「事実化」を通して、確かな手応えへと作り変えることを渇望する表現の努力でもあるだろう。同展が浮かび上がらせていたのは、戯れの快楽という美辞麗句では収まらない、写真表現のこのような変質でもあったように思える。

[ストレート写真という〈虚構〉:〈示すこと〉と〈語ること〉の配置をめぐって/BT・美術手帖1991年12月号:151-156]
1
それをどのように意識するかは別として、今日の写真表現がひとつの重要な変容に直面していることは間違いなさそうだ。ある者はそれを、現実を忠実に写しだす客観的媒体としての写真と、現実そのものの優位を複製性において覆い尽くしてしまう写真のメディア的特性との対比において捉えようとし、またある者は、写真表現の特殊化・自立の問題と、制御を越えた写真イメージの増殖の蓄積の問題との対比において見出そうとする。変容のある部分を確実に言い当ててはいるだろうこうした問題機制は、80年を前後して言われ始めたテイク(撮る)写真からメイク(作る)写真、あるいはストレート写真からコンストラクティッド/ステージド/ファブリケーティッド写真といった対立的な構図に対応すると同時に、高度情報社会や大量消費社会といった今日的現実を含み込んだものであると見做して、おおむね外れてはいないだろう。
だが、そうした構図を前提とした問題機制によって、写真表現の表層的変化を各々の目的論的配置に応じて手際よく分節することが、その背後で根底的な認識論的転換をも呼び寄せていることに気づくとき、私たちは対立的構図に応じた別種の写真があるわけではなく、そもそも両義的な価値としてそれらを写真が内在させているのではないかという素朴な疑問に出会うことになる。そうした両義性を内包しているからこそ、私たちは同じ写真を前にして、ある時は格別の考えや反省を加えることなしに率直にその映像を享受し、またある時はそこに〈愛〉や〈死〉や〈記憶〉といった深遠さを含んだタームを重ね、そして高度情報社会や大量消費社会の象徴としてそれを語りうるのではなかろうか。
今日の写真表現を表層的変化においてだけではなく、その認識論的転換において考えてみるためにまずなされなければならないのは、様々な写真を捉える構図やその言説が前提としてきた、写真の機能を捉える概念それ自身のありかを問い返してみることであろう。

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芸術定義の問題に結びつき、また、創造の原理とされるもののひとつに、自然模倣=芸術という構図に典型化される芸術観に基づいたミメーシス(模倣)という概念がある。例えば、文学における写実や描写といった方法は、このミメーシスという概念から派生していると考えられるだろう。しかし、現実と言語による表象の間には埋め難い溝があるために、ありのままを言語によって描写すること、つまり〈語ること〉の対極にある〈示すこと〉――言語のミメーシス性を規範とすることは、それ自身が語られたものである以上、常に言語との倒錯的な関係における矛盾のうえに展開されざるを得ない。ジェラール・ジュネットは、それを端的にこう指摘している。
実際、演劇的再現とは異なり、どんな物語言説であろうと自己の語る物語内容を、「示すこと」や「模倣すること」はできない。口頭によるものであれ書かれたものであれ、物語るという行為が言語的事象であり、また言語は意味作用をおこなうのであって模倣するわけではないという唯一にして充分な理由のために、物語言説に可能なことと言えばそれは、詳しく・正確に・「生き生きと」物語内容を語ること、そしてそれゆえに、ミメーシスの錯覚――これこそが物語の唯一のミメーシスにほかならない――をさまざまな度合で与えることに限られるのである。(『物語のディスクール』花輪光+和泉凉一訳・書肆風の薔薇)
では、物語ることにおいて、示すこととはどのようなものであるのだろうか。「テクスト的なミメーシスの諸要因」を「物語情報の量(より展開された、あるいはより詳述された物語言説)、および、情報提供者つまり語り手の不在(もしくは最小限の存在)」に見出すジュネットは、そこから示すことの互いに連関し合った二つの原理、「情景(詳述された物語言説)が優位を保つこと」・「語り手が(疑似的な)透明性を維持すること」を導き出す。
このような言語(文学)の語ることの機能の一面を踏まえつつ、映像(視覚的再現)について考えてみるならば、その最も基本的な特徴は投影の法則に従いながら、現実を「自然」に示すことにあると言えよう。言語が語る(叙述する)ことの機能の上に成り立っているとすれば、映像はこの示すことの機能の上に成り立っていると考えられる。むろん、映像における示すことは、言語における「ミメーシスの錯覚」としての示すこととは位相を異にしている。映像における示すことは、その機械的な再現能力と結びつけられ、多くの論者によって類似性の概念のもとに語られてきた。
現実から写真に移るために、この現実をいくつかの単位に切り分け、これらの単位を、読み取らせるべき対象とは実質の異なった記号に構成する必要は全然ない。この対象とそれの映像との間には、中継を、つまり、コードを設ける必要は全然ないのである。確かに映像は現実ではない。しかし、それは、少なくとも、完全なアナロゴン〔類似物〕である。そして、常識のレベルで写真を定義するものは、まさにこの完璧な類似性なのである。(「写真のメッセージ」、『第三の意味』ロラン・バルト、沢崎浩平訳・みすず書房)
ここからバルトは、同時に、他の絵画や映画や演劇など他のすべての模倣芸術・再現芸術と写真との差異を、共示された(コード化された)メッセージが、外示された「コードのないメッセージ」から展開するパラドクスに見出す。そしてこの観点から、写真の示すことの機能における語ること(記述すること)の位置を、「類似性の充実感が非常に強烈なので、写真についての記述は文字通り不可能である」・「記述するとは、単に不正確、あるいは、不完全であるだけでなく、構造を変えることであり、示されたもの以外のものを意味することなのである」というふうに、逆説的に導き出している。
むろん、こうした分析的過程それ自体を掘り下げることが、ここでの課題ではない。おおむねこのように捉えることができるであろう、言語における語ることの機能とそこでの示すことの位置、写真における示すことの機能とそこでの語ることの位置を確認しておけばさしあたり充分である。
ところで、すでに多くの場面で指摘されているように、肯定=断言的な性質を持つ視覚的再現(写真)における示すことと、差異の体系である言語における語ることは、けっして混合することや一挙に与えられることはない。その両者はけっして等質化することなく、諸々の言説空間で出会い、交錯し、特有の序列や位階関係の配置を形作る。もちろん、かつてからこれまでの写真表現にしても、その例外ではなかったはずである。いかにこれまでの表現において、写真の現実の忠実な再現能力や機械的複製性が独自性として強調されていようとも、それらはむろん即自的に与えられたものではなく、諸々の言説的実践のなかでまさしく示されそして語られたものであった。このことを踏まえたとき浮かび上がってくるのは、そもそも写真の近代性の萌芽とは、今日その批判的対比の構図から想像されるような、単純なものであったのであろうかという問いであろう。

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その語感から様々な了承がなされてはいるだろうが、「ストレート写真」というタームは、写真史的に明確にその起源をたどりうる言葉である。それはアルフレッド・スティーグリッツによって提唱された、それまでの写真を絵画的に使用することに芸術的価値を置くピクトリアリズムを否定し、カメラの機能を生かしその再現性・記録性を重視した表現であるとされている。スティーグリッツはこの提唱を、「絵画的写真の型にはまった伝統的写真概念への異議申し立て」をおこなう写真集団フォト・セセッションの結成や、雑誌『カメラ・ワーク』の創刊、そして写真だけではなくヨーロッパの美術の動向なども紹介するギャラリー『291』の開設など、様々な組織化された実践をとおして展開した。ここにおける伝統的価値観への拒絶、そして写真の独自性の主張という相補的な構図から、写真における近代性の成立をみることは、誰にも異論のないことであろう。だが、いっけん素朴にもみえるこうした展開は、どのような写真の言説空間の誕生を意味しているのだろうか。
ストレート写真の提唱を近代写真の成立として捉えたうえで、それ以前の言説空間を考えてみるならば、ピクトリアリズムとは前近代的芸術観によって支えられた形式としての絵画芸術の範疇に収まるものであり、写真の機能から引き出されていた様々な有用性、例えば肖像写真・資料写真といったカテゴリーは、けっしてピクトリアリズムと対立しあうものではなく、それぞれが独立した機能として併存していたと考えられる。スティーグリッツはここに、ストレート写真というタームによって新たな領域を成立させることで、ピクトリアリズムを近代写真の言説空間から弾き出すとともに、その過程自体を前近代的芸術観の乗り越えとして写真の近代的価値を組織し、さらに、肖像写真・資料写真といった従来的な写真の社会的機能の一部分をも近代写真の価値(「写真のための写真」)として含み込みながら写真の近代性のありかの明証性を構築する。こうしてスティーグリッツによって戦略的に形作られたストレート写真の言説空間とは、写真の機能の様々な有用性をピクトリアリズムと対置することで、そこから近代写真のありかを引き出し編み上げられたものであるとともに、一方で「芸術のための芸術」という近代的芸術観に合致しそれに支えられたものでもあるだろう。
ここで重要なことは、歴史的背景としての近代写真の成立ではなく、そこにおける戦略が、ストレート写真を示すということだけではなく、同時にそれと不可分である言説の実践が絡み合うことではじめてなされえたことである。そしてこのことを考えるとき、私たちは、ストレート写真という領域にそのはじめから潜んでいた、ある意味での矛盾に立ち会うことになる。それは、ストレート写真が、写真家の創造的自己意識という近代的自我の確立によって支持されると同時に、カメラの機能を生かしその再現性・記録性を重視する(神秘性や抽象性を排除する)という写真に対する直接性によって支えられていることの矛盾である。つまり、ストレート写真とはけっして手放しなイメージ(写真映像)の直接性を基底としているわけではなく、そのはじめからイメージの直接性と写真家の作家性との矛盾、言い換えるなら、示すことと語ることの両者が相互に干渉し交錯しうる言説空間を基底として、表現の実践的場面を形成してきたと言えるのではないだろうか。
そしてさらに重要に思えることは、ある意味での矛盾を基底とするこのようなストレート写真の言説空間の形成が、近代美術において音声・文字言語と視覚的(ノン・ヴァーバル)なものが互いに矛盾しながらも交錯し、またその矛盾自体を動力としながら、より曖昧で複雑な表現の抽象化がなされてきたことに類比的であるようにみえてならないことである。

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言語(文学)が、語ることの対極にある視覚的特徴を持つ示すことを倒錯的に孕みながら、諸々の価値や様式を生産する空間として機能してきたように、写真もまたそれ自身のありかを見出そうとしたときから、まさにそれ自体を語ることの内に示し、示すことに語ることを交錯させながら位階関係の配置を形作ってきた。写真それ自体を、いかに直接的・明証的な映像であり肯定=断言的な性質を持つものと捉えようと、そうした認識や規範そのものが表現の言説空間で形作られたものである以上、それらはけっして社会的・文化的な制度における認識や規範の外にあるものではない。むしろその内で、ある種の写真の機能を自明かつ「自然」なものに見せるものこそ、写真によってもたらされた示すことと語ることの位階関係の配置における遠近法的倒錯であると言うべきである。例えば、映像を言語と対立的に捉える際、類似性が特権化されることを批判するクリスチャン・メッツは、類似性が対象の持つコードを転移する手段であること、さらに類似性そのものがそもそも似ているという判断に基づくコード化された現象であること指摘し、「映像を多くの異なった言説的事実の中に戻すこと」を強調しつつ、こう言っている。
あるメッセージが視覚的だからといって、そのコードが視覚的であることにはならない。あるコードが視覚的メッセージの中に現われるからといって、それが他のところに現われないということはない。そのうえ、あるコードは(視覚的なものですら)決して可視的ではない。何故ならコードは論理的な関係の網目から成り立っているからだ。視覚的な「言語活動」は、他の言語活動と多様かつ複雑な体系的結びつきを保っており、「言語的(ヴェルバル)なもの」と「視覚的なもの」とを、その一つ一つは等質な、塊のような、他との接点を欠いた、二つの大きなブロックのように対置させても、何の役にも立たない。(「類同性(アナロジー)の彼方に、映像を」、『映画記号学の諸問題』浅沼圭司訳・書肆風の薔薇)
もちろんこうした問題は、今日ではこれと同じかたちで露出しているわけではない。なぜなら、言語的なものと視覚的なものの融合をむしろ活かすところで写真表現が展開しているのが今日的状況であり、その背後には、写真が自己との関係においてある以上に、それ自身が自律的な差異化の機能を担っていることが明らかになったという社会的変容が存在するからである。しかしその変容を、従来的な写真表現の認識論的な構図に、写真の複製性やシュミラクルなイメージの増殖を対置することで捉えようとするような問題機制の内には、写真の直接性・明証性に対するナイーヴな把握が未だに潜んでいるようにみえないだろうか。言い換えれば、今日の社会において、写真が変形と転移をいわば自律的に繰り返し差異化しているのはもはや誰の目にも明らなことであり、そのことを一義的に指摘することが批判的有効性を持っているとは必ずしも限らないのである。
今日の写真表現における認識論的転換の一面は、そうした変容において写真表現それ自身が担う機能や意味をも含めて捉えることが不可避的に要請されていることにあるが、むろんその把握は、写真の近代性のありかをも含めたところでの、今日的視点による示すことと語ることの位階関係の配置、つまり言説空間としての写真の洗い直しを除いては根底的たりえないように思える。

5-8

戦後日本写真史第5回/nikkor club #169 1999 summer:20-23]
『10人の眼』『VIVO』以後
前回は、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向をとりあげ、今日、現代写真と呼ばれているような写真表現の空間のはじまり、すなわち、既成概念の否定、過去との切断そのものを目的にし、表現の意味を自らの姿勢によって確認していくような、新たな写真表現の独自性の在りようを、みてまいりました。
さて、ここで、ひとつ注意を払っておきたいことがあります。それは、戦後の写真表現を、『10人の眼』や『VIVO』以前と以後とに分けて考えるとき、それ以前の写真家が、さまざまな意味で歴史的な雰囲気を感じさせる存在であるのに比べて、それ以降の写真家は、そういった雰囲気が希薄なことです。この連載では戦後写真史について時間軸に沿って書いてまいりましたが、『10人の眼』や『VIVO』以前の写真家については、その時間軸に沿った枠組みがそれなりに当てはまるにしても、それ以後の写真家には、かならずしもそれがしっくりと当てはまるわけではないのです。
もう少し、具体的に言いましょう。『10人の眼』や『VIVO』以後の写真家の多くは、その登場時において注目すべき作品を発表していることはもちろん、それから現在にかけても、継続して第一線で活躍している場合がほとんどです。この連載では、そうした事情をできるだけ考慮しつつも、写真史という性格上、今後も、基本的には時間軸に沿って書いてはまいりますが、『10人の眼』や『VIVO』以後の写真の動向は、時間軸に収まらないような複雑さを孕むことをご含みおきのうえ、お読みいただければ幸いです。

報道写真の動向
さて、前回は『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向を中心に語ってまいりましたが、むろん、50年代後半から60年代にかけての写真表現は、それだけにとどまるものではありません。
経済的な復興がはじまり、高度経済成長の時代の兆しがみえてきたこの時代は、それゆえの新たな社会的な現象や問題が生まれた時代でもありました。写真表現もまた、そうした現象や問題と無縁であったわけではありません。とりわけ報道写真という分野では、新たな社会的な現象や問題を捉えようとする、写真表現の動きを見ることができるでしょう。
例えば、かの名取洋之助ひきいる、『週刊サンニュース』そして『岩波写真文庫』で働き、その後、フリーランスの写真家になった長野重一は、のちに『ドリームエイジ』としてまとめられる、工業化社会や大衆社会が作り出した新たな都市の現実を、ユーモラスかつシニカルに捉えた写真を、60年代に発表していきます。
また、60年代半ばに、『朝日ジャーナル』の「現代語感」、『カメラ毎日』の「人間花壇」シリーズなどで、富山治夫は、高度成長社会による急速な変化が生み出した矛盾した現実を、巧みなスナップ・ショットで的確に捉えています。
急激な社会の変化は、都市だけではなく、日本全体の生活や文化の在りようにも、大きな問題をもたらしました。
60年代のはじめから、フリーランスの写真家として水俣病を取材した桑原史成の仕事、農村を覆っていった高度成長社会の歪みを、60年代の半ばより取材した英伸三の仕事などは、ともすれば都市の成長によって見えにくくなりがちな問題を、粘り強い姿勢によって写真に捉えた例だと言えましょう。

メディアとの関わり
ところで、前号で述べました、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向と、こういった報道写真の動向とは、今日からみると、報道写真と現代写真の違いをあらわしているようでもある、名取―東松論争などを視野に収めたとき、とりわけ、いささか相反する動向のようにもみえるかもしれません。
しかし、そのような理解は、かならずしも間違ってはいないにしても、かといって、この時代の写真表現の在りようを、的確に捉えた理解ではないように思われます。
と言いますのも、仮にそこに対立的な構図があるにしても、その背景には、経済的な復興、そして高度経済成長が生み出した問題という、大きな共通項が存在するからです。逆に言えば、共通の問題があるからこそ、そこに対立的な構図がかいまみえるのだとも考えることができるでしょう。また、その共通の問題というのは、広い意味で考えますと、写真家が撮る対象としてだけではなく、写真を発表する媒体としても捉えることができます。
今日、この時代の写真を振り返るとき、私たちが見る写真はほとんどの場合、写真集や美術館などで再編されたものだと思われます。しかし、実際にはこの時代、報道写真家に限らず、『10人の眼』や『VIVO』の写真家を含めた多くの写真家は、雑誌というメディアを舞台に、自らの仕事を練り上げていったのです。そこでの写真のあらわれ方は、今日私たちが見るものより、雑誌という媒体の性格も含めて、はるかに問題提起的であり、また時事的であったと言えるでしょう。
例えば、『10人の眼』や『VIVO』の写真家たちで言えば、のちに、『ある日ある所』『シカゴ、シカゴ』『都市』としてまとめられる石元泰博の仕事、『おとこと女』『薔薇刑』『鎌鼬』としてまとめられる細江英公の仕事、『地図』としてまとめられる川田喜久治の仕事、『日本』『おお!新宿』『戦後派』としてまとめられる東松照明の仕事、『王国』としてまとめられる奈良原一高の仕事などは、何らかの形で、カメラ雑誌などを中心に、雑誌というメディアと関わりながら作られた作品だと捉えることもできるのです。

60年代の意味
このあたりの状況を、『サンケイカメラ』の編集長を務め、その後『季刊写真映像』の編集などにも関わった桑原甲子雄は、「1960年前後――戦後写真の転換期」という文章で、次のように振り返っています。
「しかし、やがて戦後ヒューマニズムの幻想は、世界史的にもろくもやぶれてしまう。ともあれ、政治の規範にしたがうにせよ、報道というマス・メディアの機能的な映像にせよ、写真表現の表現意欲をみたすことにおいて、次第にそれらが不自由なものであることに気付いてくる。前者における自由の束縛、それはいかなる解放された体制社会がやってきても、なんらかの形で拘束されるものであろう。後者における商業主義の跋扈と、メディアに管理された映像制作の徒労と無意味も、ときに味気なく感ぜられるのはいたしかたない。今日、社会的リアリズムの呪縛はほとんど解かれた感もあるが、後者の存在は、その後の情報社会の無際限のひろがりによって、むしろ増幅されつつあることは言うまでもない」。
「いずれにせよ、こうした状況へのリアクションとして、映像派と呼ばれる新しい世代が、戦後10年にして現れてくるのは必然的な勢いであった。ひたすら外部の世界の引き写し、対象の似姿の捕獲に写真することの真実を信じ、疑いを抱かなかった世代の惰性や、イデオロギーの主人もちといううっとうしさにたいしても、彼らはノーと叫ぶことをはじめた」。
「…社会的リアリズムや報道写真がまったく無効になったのか、といえばそうではないだろう。むしろ、そういう1950年代の名辞が、時代の変貌のなかで色褪せてみえ風化現象にさらされているということだろう」。
「…表現としての写真は今日、大衆社会的状況の中で錘りをおろしながら、根強く構造化されているわけであって、イデオロギーじみたことばは、すべて現在では危機にひんし、無効にみえはじめているというにすぎない。それよりも写真は、単一にただ『写真』というメディア独自の有効性によってのみ、いまその存在の証を主張しているようにみえる」(『日本現代写真史1945−1970』)。
70年代後半に書かれたこの文章は、1960年前後の雰囲気を振り返っているだけでなく、その後の変容をも考慮に入れて、写真表現にとっての60年代の意味を捉えているという点で、たいへん興味深いように思われます。というのも、60年代の半ばには、高度経済成長という背景、イデオロギーの無効という雰囲気、「『写真』というメディア独自の有効性」という現象が重ならなければ、生まれえなかったような写真が登場してくるからです。

広告写真の動向
そうした写真が登場してくるのは、広告という分野においてです。いわゆる教科書的な写真史においては、本流とみなされないような傾向もありますが、それらの現象が重なり合うのは、広告という分野をおいて、他にはありえなかったことを考えますと、60年代半ばのこの分野の重要性は、けっして小さなものではないと言えましょう。のちに『カメラ毎日』の編集長を務めた西井一夫は、当時の様子を次のように述べています。
「もうひとつのヌーベル・ヴァーグは少し遅れて60年代に足を踏み入れて動き出す。コマーシャル・フォトグラファーたち。61年、早崎治が批評家協会新人賞を受賞し、篠山紀信が第一回APA賞をとる。深瀬昌久が『豚を殺せ』でデビューする」。
「戦後の婦人科から、これらコマーシャル写真家への橋渡しはさしずめVIVOの佐藤明といったところだろう。63年の本誌グラビアページはこうして登場したコマーシャル派のオンパレードの観がある。横須賀功光、立木義浩、篠山紀信(4月号)、安斎吉三郎、高梨豊、大倉舜二(5月号)、藤井秀喜、北井三郎(8月号)、小川隆之(9月号)、林宏樹(10月号)といった具合だ」。
「VIVOとこれらコマーシャル派の間にはおよそ5年ほどのデビューの違いがあり、この双方をヌーベル・ヴァーグというには無理がある、という意見もあるだろう。しかし、これまでの写真の到達点を出発点として、何をやっても構わないのだと写真表現をストーリー性や物語・ドラマ性の桎梏から解放するという視点からすると、このふたつはともにヌーベル・ヴァーグなのである」(『カメラ毎日』1987年9月号)。
立木義浩の「舌出し天使」、高梨豊の「東京人」といった大特集、篠山紀信の「裸婦像」「熱い肉体」、横須賀功光ののちに『射』としてまとめられる「城」「射」といった、『カメラ毎日』を舞台としたこの時代の写真は、まさに、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向にみられる、既成概念の否定、過去との切断という、新たな写真表現の独自性の在りようの、ポジティブな展開と言えるのではないでしょうか。西井は別の一文で、こう言っています。
「当時、スタジオで『食いがいか? 生きがいか?』という言葉まで流行したらしいが、この頃のコマーシャル写真家たちのバイタリティは驚くべきほどだ。そしてこの頃の『カメラ毎日』は、ドキュメンタリーでもなく、記録でもない用途不明の写真を生む媒体として時代にアイデンティティを刻印できたのである。コマーシャル写真家に、コマーシャルではなく、報道でも、芸術でもない、だから“写真”としかいいようのないものを撮らせたのだ」(『写真装置』#1)。

現代写真の転回点
こうして、一方で高度経済成長の時代から、さまざまな影響を受け、またそうした時代を体現し、また他方で、さまざまな形で、既成概念の否定、過去との切断という認識を深めていった写真表現は、60年代の後半から70年代にかけて、大きな転回点を迎えることになります。ひとことで言えば、既成概念の否定、過去との切断という認識が、社会や従来の表現といった写真表現の対立物とみなしうるようなものにだけではなく、写真表現そのものにも向けられるようになってくるのです。それゆえ、その転回点はまた、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向や、その同時代の動向によって見出された独自性の質をも、ぬりかえずにはおかないでしょう。そういった転回点、そして、そこで変容していく独自性の質とは何か。次回は、そうした状況を象徴するような動向と、そこでの写真家たちの在りようをめぐってみたいと思います。

[戦後日本写真史第6回/nikkor club #170 1999 autumn:24-27]
コンポラ写真
1960年代の終わりには、それまでの写真と根本的に雰囲気が異なった写真が、多くあらわれてくるようになりました。いわば冷笑的で、そっけない画面のそれらの写真は、コンポラ写真と呼ばれるようになり、漠然としてはいるものの、それゆえ逆に、広範に影響を与えつつ、ひとつの潮流を形作るに至ります。
当時、コンポラ写真を紹介した文章を記した大辻清司は、次のように言っています。「ここに集めた写真は、コンポラ写真の範囲に入ると判断した作品だが、作者がこれはコンポラ写真だと宣言しているわけでもなく、私にしてもこれは確かにコンポラ写真だと立証するわけにもいかない。コンポラ写真はそのようにあいまいで、禅問答じみたところがある」(『アサヒカメラ教室3・スナップ写真』)。そして、「外見上の特徴をあげながら、そういう特徴を具えなくてはならない必然的な理由は、多分こういうところにあるのではないか、という推測を加えてみたい」、と述べています。そこでの分析が、とても適切にコンポラ写真の姿を描いているように思われますので、その抜粋をみてみましょう。
(1)「まず第一に気づくのは、すべて横位置であることである。…大事なのは、横位置であることが、事大主義に背を向けることに発していることで、これは次のような点にも当てはまる」。
(2)「構図という美学に頼った作品は見つからないことである。構図的に画面の構成を計算しつくしたという写真は、コンポラ写真とはいえない。…そこで一番くせのない標準レンズか、それより短焦点なレンズがよく使われる。…もう一つ非構図的な現れとしては、主な被写対象の周囲を広く写しこむ、という傾向がある。…つまり周囲の状況や環境とあわせてその対象をながめ、問題を総ぐるみとして冷静にとらえる態度、ともいえる」。
(3)「構図に限らず、写真的な技巧をこらした作品は、コンポラ写真からはみ出したものである」。
(4)「撮影対象は、知らず知らずのうちに期待している観賞者の、意を迎えるようなものではない。だから特別の出来事や瞬間などは取上げない。…だから撮るものといえば、日常のありふれた事物であり、われわれの身のまわりにいつも見られるような対象が多い。…日常のことを撮るのは何もコンポラ写真に限らないが、しかし、それを前に触れたような考え方に基づいて外見的な特徴を具えて現れたとき、これをコンポラ写真というわけである」。
(5)「そしてもう一つの特徴は、決して説明的な写真ではないということである。…コンポラ写真はわからない、とよくいわれるのは、写真を一度言葉に翻訳して、言葉から理解しようとすることから生じるのだと思う。写真を言葉で解説することはできるとしても、それがただちに写真の内容の本質に触れるものとは思われない。その本質は見ることによってわかるほかない」。

「プロヴォーク」
前回の終わりに、写真表現は、60年代の後半から70年代にかけて、大きな転回点を迎えることになり、既成概念の否定、過去との切断という認識が、社会や従来の表現といった写真表現の対立物とみなしうるようなものにだけではなく、写真表現そのものにも向けられるようになってくる、ということを述べました。コンポラ写真は、その典型的なあらわれのひとつと言えるでしょう。
戦後、既成概念の否定、過去との切断を深めていった写真表現は、60年代の終わり頃には、否定や切断といった意識を、写真表現それ自体に向けはじめます。大辻氏の分析にあるように、さまざまな伝統的な写真表現の手法から自らを切断し、写真に対する意味づけをも否定する姿勢において、写真表現は自らの独自性を探るようになっていくのです。ですから、ここでの写真は、いささか奇妙なことではありますが、それが無意味な空洞のようなものであればあるほど、自らの独自性を浮かび上がらせていることになってくるのです。
ところで、コンポラ写真とは、アメリカのコンテンポラリー・フォトグラファーズという言葉が由来と言われており、またそれとの影響関係も指摘されることがありますが、写真のスタイルは似ているにせよ、文化的な基盤がしっかりとしたアメリカでの潮流と比べますと、こういった写真表現の独自性の意味合いが含まれたコンポラ写真は、日本独特のものと考えられます。
さて、こうしたコンポラ写真という潮流にみられる、既成概念の否定、過去との切断という認識の深化は、「プロヴォーク」という動向において、いっそう根源的なものとして展開されているように思われます。
「プロヴォーク」とは、中平卓馬、高梨豊、そして評論活動とともに写真も撮っていた多木浩二、詩人・美術評論家の岡田隆彦の四人を同人として、68年に出版された雑誌の名称です。2号からは森山大道が同人に加わった「プロヴォーク」は、69年の3号で活動を停止してしまうのですが、にもかかわらず、「プロヴォーク」という場で提起された問題は、写真表現に大きな波紋を投げかけることになりました。「プロヴォーク」創刊号には、中平と多木による、次のような文章が記されています。
「映像はそれ自体としては思想ではない。観念のような全体性をもちえず、言葉のような可換的な記号でもない。しかし、その非可逆的な物質性―カメラによって切りとられた現実―は言葉にとっては裏側の世界にあり、それ故に時に言葉や観念の世界を触発する。その時、言葉は、固定された概念となったみずからをのり超え、新しい言葉、つまりは新しい思想に変身する」。
「言葉がその物質的基盤、要するにリアリティを失い、宙に舞う他ならぬ今、ぼくたち写真家にできることは、既にある言葉ではとうてい把えることのできない現実の断片を、自らの眼で捕獲してゆくこと、そして言葉に対して、思想に対していくつかの資料を積極的に提出してゆくことでなければならない」。
ここでの哲学的とも言えるような文章にみられるように、「プロヴォーク」による問題提起は、いっそう意識的に既成概念を否定しようとするものであり、60年代の後半から70年代にかけての大きな転回点を、明確に時代に刻み込んだものだと言えるでしょう。と同時に、そこで提示される写真も、いわゆるアレ・ブレ・ボケと呼ばれるような、要するに何が写っているのかわからないような映像になってゆきます。コンポラ写真が、無意味な空洞のようなものであればあるほど、自らの独自性を浮かび上がらせていることになっていきましたが、「プロヴォーク」における写真は、その空洞すら否定し、いっけん無意味な、いわば粒子の羅列であるがゆえに、写真表現の独自性を探るものとみなされるようになっていくのです。

写真家という個人
さて、このように、60年代の後半から70年代にかけての大きな転回点を、典型的な潮流においてのみみていきますと、写真表現が大きな波に飲み込まれ、一気に変質していったような印象を受けますが、もちろんこの時代の写真表現は、こうした典型だけで語りつくせるものではありません。
この時代における転回点を、別の観点から見直してみますと、紆余曲折を経ながら独自性を探ってきた写真表現が、この時代において、ようやく写真家という個人において捉え直されるようになってきたのだと考えることもできます。それは一方で、コンポラ写真や「プロヴォーク」といった潮流とも言える現象を生み出していきますが、他方でそうした問いに基づいた、さまざまな新たな動向を生み出すことにもなりました。
こうした動向は、たとえば、ジャーナリズムやドキュメンタリーの模索と展開において、見逃すことができない成果を着実に生んでいきます。そのような成果を考えるとき、先達として浮かび上がってくるのが、戦後すぐに『週刊サンニュース』にかかわり、49年にタイムライフ社に入社して『ライフ』誌で活躍し、木村伊兵衛や土門拳と親交を持ち「集団フォト」を結成した、三木淳でしょう。『ライフ』誌の創刊号に触れた体験について、三木はこう言っています。
「いままでは情緒の世界で遊んでいたが、もしくはプロパガンダのための世界にいたのが、これは全く違うんだということが、『ライフ』が私に与えたファーストインスピレーションだったと思うんです」(『昭和写真・全仕事 三木淳』)。
このように民主主義的な個人を基にした視点を、いち早く感じ取っていた三木は、その『ライフ』誌で働き、自身の視点を先鋭に打ち出した写真を発表するようになります。しかし、「結局『ライフ』はアメリカの雑誌であって、写真も手元に残らないことも気になった」と感じた三木は、首相の倍以上の給料を得ていたタイムライフ社を57年にやめ、フリーランスとして活動していくようになりました。こうした三木の活動の展開は、まさに写真家という個人を基にした写真表現とのかかわりを、時代に先駆けて体現したものだと言えるのではないでしょうか。また、アメリカの写真家に、ニコンを中心とした日本のカメラの優秀さを認知させたり、ニッコールクラブの結成の口火を切ったりといった、三木の実績もまた、日本の写真の自立への大きな貢献として、忘れられないところです。

ドキュメンタリーの模索と展開
70年代に入ると、そういった個人という立脚点を意識した写真家が、世界や社会に対する新たな関係の在りようを、それぞれに模索しながら、独自に切り開いていくようになっていきます。
74年に毎日新聞を退社、渡米してニューヨークに滞在し、『ニューヨークの百家族』で、それまでにはない視点で、人間の絆の在りようをつぶさに写真に定着した江成常夫は、 その後も、日本人の戦争花嫁を撮影した『花嫁のアメリカ』、中国の日本人戦争孤児を撮影した『シャオハイの満州』といったシリーズで、マスメディアの流れからは忘れられがちな問題を、個と個のつながりに焦点を当てることによって、ふたたび鮮明に写し出しています。
70年代初頭に会社員をやめ、写真家としての道を歩みだした土田ヒロミは、写真によるフィールドワークとも言うべき作業によって、日本人の民俗的性質を『俗神』で展開しています。この、自分自身のありかをも同時に検証していくような写真表現の在りようは、群衆を捉えた『砂を数える』や、被爆地広島の人と物と風景を記録した『ヒロシマ』三部作においても、根底に流れているものでもあります。
このような新たなドキュメンタリーの在りようは、AP通信社、朝日新聞社を経て、青森県やニューヨークなどをめぐり、たんたんとその土地の時空間を写した秋山亮二、大学を中退して、『三里塚』『村へ』で、村に対する新たなアプローチをみせた北井一夫、出羽三山に入るなど民間信仰に深い関心を寄せ、『日本のミイラ』『婆ァバクハツ!』などに結実させていった内藤正敏といった写真家にも、みることができるでしょう。
こうして70年代の写真表現は、一方で空洞の中を探りつつも、同時に多様な展開が芽生えることによって、その独自性を大きく転回させていくことになりました。今日私たちが当たり前のように捉えている、写真家という個人を立脚点とした写真表現は、こういった模索と展開によってこそ、はじめて育まれたものであり、また70年代以降に、より複雑で多様になっていく写真表現の、新たなスタートラインになったものであるように思われるのです。

[戦後日本写真史・第7回/nikkor club #171 2000 early spring:40-43]
自主的な活動
前回は、60年代の後半から70年代にかけての大きな転回点に注目し、紆余曲折を経ながら独自性を探ってきた写真表現が、写真家という個人において捉え直されるようになった傾向に焦点を当ててみました。
この傾向はその後も、今日に至るまで、写真表現の根底に流れながら、さまざまな現象としてあらわれてくることになります。
70年代における、こうした傾向の顕著なあらわれのひとつが、写真家たちによる自主的な活動でしょう。70年代の半ばには、既存のメディアに頼らず、ギャラリーや雑誌などを自主的に運営することで、活動の場を切り開いていこうとする潮流が生まれてくるのです。『インディペンデント・フォトグラファーズ・イン・ジャパン1976-83』の序文で、こうした活動の当事者でもあった編集委員の金子隆一、島尾伸三、永井宏は、自主的な活動が生まれてきた背景について、次のように考察しています。
「1960年代の高度成長という時代の波のなかで、日本の写真家は大きな成長を遂げ、グラフィカルな写真の時代をかっ歩しはじめたのだが、オイルショックによる痛手によって、前途洋々であったはずの写真の時代は、一部の特権的な写真家以外は、その作品の発表の場を失い、クリエイティヴな写真の時代の波は終わりを告げたかのような状況であった」。
「しかし、70年代に入ってもなお写真家の卵は次々と産声を上げた。彼らは高度成長時代の写真のイディオムを、最もロマンティックに感じとり、受けとめさせられた世代となった。写真家はデザイナーと同等の新しい時代の花形的な職業でもあると信じていられる社会環境のなかで育ち、写真を学んでいれば現代を創造的に生きることができるという未来を、彼らはある程度ではあるが確信させられていたのである」。
「しかし現実は違っていた。写真家という花形職業は社会的幻想としては根強く残ってはいたものの、受け口はすでに閉ざされ、個々のアイデンティティをカメラとともに考えるといった本質的な職業写真家としての道は、まったく別の形態を持たざるをえなかったのである。それは唯一、写真の芸術性、表現を追求する方向であり、写真家であるためのステイタスは、経済性とはまったく無縁の精神性のなかで守られつづけてゆくことになるのである。それはまた1960年代後半からの学生運動に強く影響されながらも、今までの時代の背負ってきた前現代性を切りはなそうとする、まったく別のイデオロギーを探しもとめる時代でもあった」。

「ワークショップ写真学校」と「CAMP」
このような時代背景の中での、自主的な活動の兆しの典型として、1974年から76年まで続いた「ワークショップ写真学校」の活動をあげることができるでしょう。荒木経惟、東松照明、深瀬昌久、細江英公、森山大道、横須賀功光らがそれぞれ教室を持ち、寺子屋スタイルで授業を進めていったこのワークショップは、夏季セミナー、地域ゼミナール、合同写真展、機関誌の刊行なども行い、短期間ながら多彩な側面を持った活動を行い、写真表現に影響を与えていきました。
「ワークショップ写真学校」の授業を担当した写真家の顔ぶれをみますと、『VIVO』や新しい広告写真、「プロヴォーク」など、ここまでに取りあげてきた、60年代の写真表現の動向を担った写真家たちであることに気づかれるかと思います。個々の写真家が主役であった「ワークショップ写真学校」は、統一的な主張を掲げることはありませんでしたが、それだけにかえって、写真表現において個人が重要性を増してきたことを体現しているようでもあり、またその転換を、60年代の写真表現の動向を担った写真家自身がさらに深めたという意味で、たいへん興味深いものであるように思われます。
「ワークショップ写真学校」は、その後の自主的な活動を生み出すきっかけにもなっていきました。東松照明教室のメンバーが中心になって設立された自主ギャラリー「PUT」(76年〜79年)、森山大道教室のメンバーが中心になって設立された自主ギャラリー「CAMP」(76年〜84年)がそれです。とりわけ「CAMP」は、『写真特急便』、『New York』などで高い評価を得ることになる北島敬三、『FLASH UP』などで注目された倉田精二、東京のスナップショットで注目された山内道雄らの活動の母胎となったという点で、記憶に残ります。
70年代の後半は、この他にも、さまざまな自主的な活動が試みられた時代でした。ここでその多岐に渡る活動を紹介することはできませんが、80年代に活躍していくことになる写真家の多くが、発表活動の舞台として、また精神的な基盤として、70年代の自主的な活動を経験していることは、付け加えておきたいと思います。

『センチメンタルな旅』
写真表現が、写真家という個人において捉え直されるようになった傾向を、別の側面からみてみましょう。先の引用に、「写真家という花形職業は社会的幻想としては根強く残ってはいたものの、受け口はすでに閉ざされ、個々のアイデンティティをカメラとともに考えるといった本質的な職業写真家としての道は、まったく別の形態を持たざるをえなかった」という一節があるように、70年代は写真家の在りようそのものが問われた時代でもあります。
大学の工学部で写真映画を専攻し、電通に入社、60年代には太陽賞を受賞しながらも、70年代に入って、従来の写真表現のスタイルそのものを揺さぶるような写真を次々と発表していった荒木経惟は、写真家の在りようそのものを戯画的に自ら体現することによって、写真家や写真表現のイメージやスタイルを変更していきました。
妻との新婚旅行の経過を撮った『センチメンタルな旅』(1971年)に添付された文章で、荒木は次のように述べています。
「前略 もう我慢できません。私が慢性ゲリバラ中耳炎だからではありません。たまたまファッション写真が氾濫しているにすぎないのですが、こうでてくる顔、でてくる裸、でてくる私生活、でてくる風景が嘘っぱちじゃ、我慢できません。これはそこいらの嘘写真とはちがいます。この『センチメンタルな旅』は私の愛であり写真家決心なのです。自分の新婚旅行を撮影したから真実写真だぞ! といっているのではありません。写真家としての出発を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです。もっとも私の場合ずーっと私小説になると思います。私小説こそもっとも写真に近いと思っているからです。新婚旅行のコースをそのまま並べただけですが、ともかくページをめくってみて下さい。古くさい灰白色のトーンはオフセット印刷で出しました。よりセンチメンタルな旅になりました。成功です。あなたも気に入ってくれたはずです。私は日常の単々(ママ)とすぎさってゆく順序になにかを感じています。敬具 荒木経惟」
この、どこまでを本気に受け取ってよいのかわからないような文章は、そもそもわざと左手で書かれたものだと言われています。加えて、表紙には、タイトルと「1000部限定」、「特価1000円」という文字が手書きで書かれ、縦位置の結婚写真がわざと横位置に収められています。この写真集に限らず、荒木の写真のイメージやスタイルには、こういった諧謔が多用されているのですが、注意しておきたいのは、こうした形で、撮影者自身を含み込む「私」なるものが、写真表現においてはじめて独特な主題として浮かび上がってきたことです。例えば、“天才アラーキー”という別名も、今と違って、この時代にはそういった諧謔の一環であったのでしょう。

写真と現代美術
個人という観点からの捉え直しを、さらに別の側面からもみてみましょう。個人と写真表現を結びつけるものを端的に言うならば、それまでの写真表現の文脈で培われてきた文脈や制度でしょう。写真家という個人から表現の根底を捉え直すということは、そういった文脈や制度を根本的に捉え直すということでもあります。
こうした文脈や制度を捉え直すことそのものをテーマにした写真は、先に述べた自主的な活動においてもあらわれてきますが、もっとも大胆にそれが行われたのは、現代美術という写真の外部からの、写真表現への問いかけにおいてかもしれません。と言いますのも、この時代、現代美術においても同様の問い、つまり文脈や制度の捉え直しが行われており、思いきって単純化して言うなら、美術の根本でもある、見ること、平面、時間、空間といった文脈や制度に問いかけるのに、写真というメディアはうってつけのものだったからです。後にこうした作品を集めた展覧会、『現代美術における写真』(1983)のカタログには、そのような状況が次のように記されています。
「ここで問題とされるべきは、芸術という概念の根拠を問うこと、つまり表現以前の作家の概念それ自体を素材としてゆこうとする1960年代末から1970年代へかけてのアメリカやヨーロッパにおける新しい美術の動きに呼応するかのごとく国内に生まれた様々な動きのなかで、写真が特徴的な役割を演じたという事実である。…そこでは慣習的な美術表現といった贅肉をそぎおとした直截な方法によって、美術家たちが日常捉えられている問題が呈示されているのである」。
写真を用いて平面という枠組みに問いかけた彦坂尚嘉、撮影対象に手を加えトリッキーな写真を作ることで、視覚の不確かさを照らし出した小本章、行為を記録するメディアとして写真を使うことからはじまり、時間や空間に独自のアプローチをしていった野村仁、ピンホールという写真の原理的な装置を使って、現実と映像の関係を顕在化していった山中信夫などの作品は、そうした問いかけの代表的なものと言えるでしょう。


70年代の日本現代写真
前回も若干触れたことですが、こうした個人という観点からの写真表現の捉え直しは、パーソナルやプライヴェートというキーワードで、同時代の海外においてもひとつの潮流を形作っており、またそれと、日本の現代写真との影響関係を見いだすこともできるものでもあります。
しかし、そういった海外の潮流と、日本の70年代の現代写真が決定的に異なっているのは、海外においては、多くの場合、美術館といった文化的な基盤の支えの上で問いかけがなされたことです。文化的な文脈や制度に問いかけながら、同時に、自主的な活動で文化的な基盤を作らなければならなかった日本の現代写真は、こうした二律背反する命題を課せられた結果、独自の自家撞着を抱え込んでいったという感もあります。しかしこの二律背反は、言いかえれば、縛られるものが少ないだけに、自在に問いを変容させていくことができた、自由さの背景でもあるでしょう。70年代の日本現代写真が、なんとも捉えがたく思われるのは、このような事情に由来するのではないでしょうか。
ともあれ、このような独特の自家撞着、あるいは自由さは、80年代から今日にかけての写真表現の土壌になったものでもあることは確かです。70年代に比べると、比較にならないほど写真表現の文化的な基盤が整備され、成熟してきた今日の状況からは、ついつい忘れられがちなことだけに、改めて指摘しておく次第です。

[戦後日本写真史・第8回/nikkor club #172 2000 spring:20-23]
80年代以降の写真表現
今日では、写真を見るということが、特別なことではなくなっています。私たちは、日常的に気軽に写真を撮ったり見たりしますし、また意識しなくても、ポスターや雑誌などで、趣向を凝らした写真表現を目にしています。それだけでなく意識的に、写真展や写真集などで、写真を鑑賞することも珍しくはないでょう。
現在では当たり前のことになっている、このような写真を取りまく環境は、1980年代までは、かならずしも自明のことではありませんでした。前回触れたように、70年代の写真家たちは、写真家という個人に立脚しようとすれば、ある部分では、自主的な活動で文化的な基盤を作らなければなりませんでした。
しかし80年代に入ると、こういった環境はしだいに変容していくことになります。その背景としては、個人に重点がおかれるように、社会や文化そのものが変化していったということもあるでしょう。また、カメラが誰にでも扱えるものになり、写真が安価で楽しめる、ほんとうに大衆的なメディアとして、日常のすみずみにまで浸透していったということもあるでしょう。
写真表現そのものにおいても、80年代には、じょじょに写真を展示するギャラリーも増えていくなど、発表したり鑑賞する機会が増えていきました。そして、80年代の後半には、国公立美術館が写真表現を展示する企画を催したり、独立した写真部門を設置した美術館も開館するようになります。90年には、写真専門の美術館として、東京都写真美術館が開館(第一次)しています。
具体的な例をあげてみましょう。87年に栃木県立美術館で開かれた『現代美術になった写真』では、畦地拓治、石原友明、伊藤義彦、五井毅彦、小本章、小山穂太郎、中川政昭、永原ゆり、野村仁、服部冬樹、ティム・マクミラン、村上慎二、森村泰昌、山崎博、山中信夫と、70年代から80年代の作家から、枠組みを越えて、創作に写真を用いる作家が選出されています。また、90年に東京都写真美術館で開かれた『日本のコンテンポラリー』では、神蔵美子、小林のりお、柴田敏雄、三好耕三、伊藤義彦、小山穂太郎、佐藤時啓、石原友明、今道子、服部冬樹、森村泰昌、が、80年代以降の写真表現という同時代的な観点から、ラインナップされています。
こういった例からもうかがわれるように、多様な視点から、写真を新たに見つめてみようとする気運が、しだいに高まっていったのです。おりしも、89年に写真が誕生150年を迎え、写真表現が注目されたことも、そういった動向の追い風になったと言ってよいでしょう。

『パリ・ニューヨーク・東京』
ところで、現在から見ると、さほど大きなイヴェントにはうつらないかもしれませんが、そういった写真を取りまく環境の変容を、象徴するような展覧会が、1985年に開かれています。『パリ・ニューヨーク・東京』と題された、写真専門のギャラリーが半年間の期間限定で開いた、つくば写真美術館’85での企画がそれです。
この企画展は、現在の写真表現に連なる、いくつかの着目すべき着目すべき点を含んでいます。そのひとつは、日本の写真表現に、改めて文脈的な位置づけを与えたことです。カタログの巻頭で、編集委員のひとりである伊藤俊治は、次のように述べています。
「あらゆる都市のなかで、パリほど『19世紀』という概念と親密に結びついている都市はない。同じような意味でニューヨークほど『20世紀』というイメージにぴったりの都市はないし、東京ほど『21世紀』という新しい時代像に密接に関わる予感を秘めている都市はないように思う。」
「写真史に即して言えば、このことはこういいかえることができるかもしれない。写真は『パリ』で生まれ、『ニューヨーク』で成長し、今、『東京』であらたな形で展開されようとしていると。」
「本展は写真の創世期のパリの写真家たちの作品から始まって、世紀の変換のなかで写真の意味と特性にめざめてゆくニューヨークの写真家たちへ、それを前近代と近代の衝突のなかで独自の表現にしようと格闘してきた東京の写真家たちへとつなぎ、それぞれの都市の特質と各都市の変遷を伝える写真群を見渡しながら、19世紀から20世紀へ、そして次世紀へとわたる人間が生きてきた視覚体験の追想を試みようとするものである。写真が誕生して百五十年あまり、“夢と驚きの素晴らしいレンズ”が都市のなかをどのようにかけぬけていったかを、この軌跡によってじっくりとたどってみることにしたい。」
ここで新たに提示された文脈は、70年代の自主的な活動における、自らの在りように問いかけるようなたぐいのものでは、いささかもありません。写真を都市に関連づけ、都市としての東京を、世界の中に位置づけるという、じつに開放的なものです。ここにみられる、写真表現そのものに問いかけることから、写真表現を外に向かって開いていくような転回は、80年代における写真表現の変容を、よく象徴しているように思われます。
この展覧会は、「パリ」「ニューヨーク」「東京」という3つのセクションに、「日本の現代作家」というセクションを加えて構成されていました。「日本の現代作家」にラインナップされていた写真家も、清家冨夫、安斎重男、英隆、服部冬樹、三好耕三、小本章、吉村晃、島尾伸三、飯田鉄、柴田敏雄、北島敬三、谷内仙司、小瀧達郎、田中長徳、長船恒利、畠山直哉、普後均、石内都、鈴木清、白岡順、谷口雅、柳本尚規、小林のりお、中川政昭、築地仁、伊奈英次、と、枠組みに捉われない、同時代性に重点を置いたものでした。このセレクションからは、「パリ」「ニューヨーク」「東京」という歴史的文化的な文脈のなかで、日本の写真を位置づけつつ、さらに、日本の同時代にその文脈を開いていこうとする、いち早い試みが感じられるでしょう。
加えて着目すべき点として、この展覧会のスタッフとして、伊藤俊治、横江文憲、平木収、金子隆一、飯沢耕太郎といった、80年代以降の写真表現で、企画や評論、紹介などの側面から、さまざまなメディアで活躍していく顔ぶれが揃っていることがあります。80年代に写真表現が、外に向かって開いていくためには、さまざまな文脈が新たに提示されなければなりませんでした。この意味で、写真を撮る側にかぎらず、見る側にも働きかけていった評論的な仕事の役割は、けっして小さなものではなかったと言えます。

開かれた写真
こういった80年代に形作られた、枠組みにとらわれずに、写真を撮ったり見たりして楽しんでいこうとする開放的な文脈は、90年代に入ると、いっそう定着していくことになります。このような動向は、写真表現の在りようを、意識されている部分はもちろん、あまり意識されないような部分でも、変容させていったように思われます。
開放的な文脈によるこのような変容を、端的に物語る例としてあげられるのは、ヌード写真をめぐる意識の変容でしょう。以前、この連載の3回目で、戦後の開放感と写真表現の関係をあらわしたものとして、「裸婦ブーム」をとりあげました。それ以降、ヌード写真というジャンルは、つねに写真表現の一角を占めてきましたが、ヌード写真を発表することに対する垣根は崩れたものの、そこにはつねに一定の、社会的ないしは自己的な制限があったと言えましょう。もちろん、90年代においてもそういった制限が消えたわけではありません。しかし、その制限のありようが、意識されないような、いわば雰囲気のような部分において、変化していったということは確かなのではないでしょうか。
例えば、80年前後に「激写」という言葉によって、写真を撮ることのイメージを変えていった篠山紀信が、91年に出版し、大きな反響を呼んだ写真集『Santa Fe』をめぐる現象などに、そういった変化の典型をみることができるように思われます。人気アイドルのヌードを、クリアなイメージで撮ったこの写真集は、ヌード写真という言葉につきまとっていた従来の雰囲気を払拭しただけでなく、ヌード写真を鑑賞する層も広げました。こういった現象は、一方で、ヘア・ヌードなる言葉で語られる、いささかスキャンダラスな風潮も生み出しましたが、他方で、ヌード写真に対する抵抗感を、意識されないような部分において、変化させていったのではないでしょうか。
違った側面から、開放的な文脈における変容をみてみましょう。90年代には、前号でも言及いたしました荒木経惟が、再び大きな注目を集めるようになりました。70年代に、戯画的に強調されていた荒木の「私」なるものが、ごく自然なイメージとして受け取られていくようになっていったのです。90年代には、“天才アラーキー”という別名から、諧謔的なニュアンスが消えていったことからも、イメージの受け取られ方の変化をうかがうことができるでしょう。
90年代半ばには、このような開放的な文脈そのものから育まれたような、それまでと趣が違った写真家が登場してきます。佐内正史、大橋仁、ホンマタカシ、そして、長島有里枝、蜷川実花、Hiromixといった写真家たちです。もちろんここにあげた写真家たちが、90年代に生じた傾向をすべて物語るわけではありませんし、彼らの写真も、一概にくくれるものではありませんが、90年代に生じた傾向に通底している雰囲気を、そこにみることもできるのではないでしょうか。
彼らの写真で、もっとも特徴的なことは、写真表現における個人、ひいては「私」というものを、例えば社会の対立物としてではなく、ごく自然に写真表現の出発点にしていることであるように思われます。写されているものが、身のまわりの物事が多いというだけではなく、そこには、カメラや写真が日常的に身近な環境のなかで育った世代ならではの、感受性がうかがわれるのです。また写されているもののなかには、しばしばヌードもありますが、そこにも何ら気負った部分が見受けられません。言いかえれば、特定の主張を表現するのではなく、気に入ったさまざまなスタイルを、自由闊達に引用しつつ行き来し、自然に混ぜ合わせるという姿勢が、90年代に登場してきた写真家を彩っているように思えるのです。


21世紀の写真に向けて
さて、いささか急ぎ足ではありましたが、ここまでの8回の連載のなかで、戦後の日本写真をみてまいりました。初回に述べました、写真家や写真が相互に影響し合って形作られている文脈を重視して、戦後日本写真史を捉えてみるという目標が、どれだけ果たせたかは、はなはだ心もとないところですが、写真表現の独自性の在りようの変容を、少しでも捉えることができていたことを願うばかりです。
最後に付け加えておきたいのは、当然ながら、ここまで述べてきた文脈や独自性をめぐる考えも、戦後日本写真史を捉える、ひとつの解釈にすぎないということです。と言いますのも、日本写真史は充分な厚みを持っているとともに、今回触れましたように、日々、社会や文化とともに、変化や転回を続けているからです。社会や文化のなかに充分定着しつつ、さまざまな広がりを持ってきた写真表現は、21世紀に向かって成熟していく可能性をまだまだ孕んでいます。それがどのような方向であるかは、誰にも言うことはできないでしょうが、今日、さまざまな意味でほんとうに一般化したメディアとなった写真において、その可能性が、写真にかかわる一人一人にかかっていることは確かでしょう。
(文中敬称略)

1-4

[戦後日本写真史第1回/nikkor club #165 1998 summer:86-89]
終戦・太陽・自己
1945年8月15日。この終戦の日を写真はどのようにむかえたのでしょうか。たとえば、この日たいへん印象的な写真を撮った濱谷浩は、自らがむかえた終戦を、つぎのように語っています。
「戦争が終わって、私が最初に撮影したのは太陽だった」。
「敗戦の知らせを聞き終わるとすぐ、寺の裏二階に戻り、カメラを持って本堂前に走ると、快晴の空にギラギラ光る太陽に向かって、シャッターをきった。その日の午後おそく裏二階で、自分自身の姿も撮影した。その時、どういう意味で太陽を撮り、自分自身を写したのか判然としない。その頃の私の考えでは、意味のない写真は意味がない、ということで、何か意味ありげな写真行動をつづけてきていた。記録のため、民俗学のため、報道のため、国家宣伝のため、ため、ため、ため。その中の多くが生活のためであったことも間違いない。だが、芸術のためと考えたことはなかった。そうだとすると、その時の写真撮影はどういうことだったのか」。
「その時、どういう意味で太陽を撮り、自分自身を写したのか判然としないと書いたのだが、敗戦の日、『太陽があった』『生きていた』という実感の証として写真を撮ったような気がする。何のためでもなく、だれのためでもなく、シャッターをきったような気がする。そういうことも写真のありようの一つかもしれない」。

戦後・日本・写真史
真っ暗な画面のなかに、白く輝く太陽。これが、終戦の日の太陽の写真だと聞けば、これほど象徴的な写真はありません。しかし、これが何の写真かを知らなければ、これほど意味のわからない写真もないでしょう。
いささかこじつけめいていますが、戦後日本写真史という言葉にも、同じような意味のゆらぎがあるように思えてなりません。つまり、戦後日本写真史という言葉そのものは、とても象徴的で、それなりのイメージを呼び起こしてくれるのですが、いざそれについて考えようとすると、とたんに、ふだんあまり考えることのなかった、いくつかの疑問がふつふつと浮び上ってくるのです。
それは、写真表現において、戦後という区切りはいったいどういう意味をもつのか、日本という枠組みは実際どのようなものなのか、そして、この疑問がいちばん大きいのですが、写真史とは実のところ何を指しているのだろうか、といった疑問です。これらの疑問は、あまりに当り前すぎて、ふだんそれなりのイメージで理解しているだけに、かえって問うことがとても難しいものに思われます。
こうした疑問につきあたったときに、いつも思い出す文章があります。それは、写真史の本であるにもかかわらず、「概説的な写真の歴史を書くにあたってはさまざまな困難がつきまとう」という一文からはじまる、イアン・ジェフリーというイギリスの美術史家が八十年代のはじめに書いた、『写真の歴史』という本の序章です。ここでの疑問のある部分を、的確に言い当てているように思われますので、その一節を引用してみたいと思います。
「写真史の概説を書くにあたって、さらに困難な状況がある。写真の評価をどこに置くかという問題である。写真史家や批評家は普通それを一枚一枚の写真と考えている。そうすると写真史はまるで絵画史のミニチュアのようになってしまう。しかしあらゆる写真家がこうした写真史家や批評家のように自分の写真をみなしていたというわけではないのだ。写真を文章と並置するために撮ることもあったし、連続写真や組写真として撮ることもあり、こうした場合、多くは写真編集者が写真の配置や割り付けを担当していた。つまり“写真作品”というのは、一枚の写真であることもあれば、一冊の写真集ないしはフォト・エッセイであってもよかった」。
「また写真は新しい体裁のもと新たな文脈のなかで頻繁に再版され、複製されるのであってみれば、その歴史の始まりまでさかのぼるのはいよいよ困難になるだろう。ずっと陽の当らぬ場所にあった写真が良質かつ鮮明なプリントで紹介されたり、評価されていなかった写真家の写真が、巧みな編集によって刺激的な外観を新たに与えられたりもするのである」。

写真の評価
ジェフリーがこの本を書いてから、20年近く経とうとしていますが、彼が言っている困難は、解消された訳ではまったくなく、今日の日本写真の状況にも、いよいよあてはまるようになってきているのではないでしょうか。というのも、写真誕生150年を迎えた80年代の終りから今日にかけて、写真表現が、ギャラリーや美術館、雑誌や写真集など、さまざまな場面で注目されるようになってきたからです。もちろん、こうした現象はたいへん喜ばしいことに違いありません。しかし、その一方で、さまざまな視点による、さまざまな解釈が断片的になされ、写真表現の枠組みが見えにくくなってきているのも事実でしょう。
細かく言えばこういうことです。今日では、歴史的な写真の再評価と同時代の写真の評価が、つねに並行してなされています。それだけでなく、19世紀の古い写真と90年代の新しい写真が、何らかのテーマのもとに肩を並べていること、またあるいは、同じ写真が、まったく違ったテーマのもとに登場しているといったことも、珍しくありません。つまり現代では、「写真の評価」が、ひんぱんに揺れ動いているのです。
また、その「写真の評価」を考えるときに、何を基準にするのかということすら、難しい問題です。多くの場合、写真史の主人公はいっけん写真家や写真作品であるようにみえます。しかし、写真家の活動や展開のみによって、ある時代の写真を語りつくせるかというと、それもはなはだ疑問でしょう。仮にそれが可能だとしても、1950年代の写真家と90年代の写真家とでは、同じ写真家といっても、かなり違った在りようをしていることを考慮に入れなければなりません。では、写真作品が基準になるかといえば、必ずしもそうではないでしょう。ジェフリーが述べているように、写真表現ならではの事情として、何をもって一つの作品とするかということ自体が、にわかに決め難いものなのです。

文脈と独自性
少々、疑問を広げすぎたようです。こうした問いについては、またしかるべきときに考えるとして、はじめの問いにもどりましょう。こういった事情を踏まえて考えるとき、戦後日本写真史を捉える試みというのは、けっきょくのところ、無理やりそれに明確なイメージを与えるということではなく、ふだんそれなりに理解しているつもりになっている、戦後日本写真史というイメージそのものに、できるだけクリアーな輪郭を与えていくことなのではないか、という気がします。
具体的にはどういうことか。端的に言うなら、それは、ある写真家、ある写真作品といったことのみにこだわるのではなく、それらが相互に影響し合って形作られている文脈を、もっとも重視して戦後日本写真史を捉えてみる、ということにほかならないでしょう。そして、ある文脈について語るときには、それがどのような視点に基づくものなのかを、同時に、できるだけ明らかにするということにつきるでしょう。
こうした観点で、写真史を見ていこうとすると、どうしても抜け落ちてしまう部分が出てきてしまうことは否めません。しかし、こうした観点に限らず、どのような歴史であれ、何らかの視点や限定がつきものであり、それが記述されたものである限り、すべてを語ることは不可能です。また、写真表現がさまざまな場面で注目されるようになってきた、日本写真の今日の状況の成果として、概説的な日本写真史の優れた試みや、いくつかの年表の作成などもすでになされていますので、そうしたものとの過度の視点の重複を避けるという意味でも、ここでは、こうした観点から戦後日本写真史を見ていきたいと思います。
それでは、こうして、文脈としての戦後日本写真史をとらえようとするとき、もっとも重要になってくるのは、どのようなことでしょうか。それは、写真表現の独自性というものであるように思われます。写真表現の独自性、と言うと、何かたいへん堅苦しい響きがありますが、ここでは、写真って何だろうという、写真表現に関わる誰しも一度は考えたことのあるだろう、漠然とした問いが作り出すイメージくらいの、広い意味で捉えて頂ければと思います。

戦後写真前史
いささか前口上が長くなりすぎたようです。
では、戦前において、写真の独自性とはどのように捉えられていたのでしょうか。そのイメージの典型のひとつを、ドイツ、フランスなどの新傾向の写真の影響を受けた、「新興写真」の流れに見ることができるでしょう。なかでも、野島康三、中山岩太、木村伊兵衛を同人として1932年に創刊された、月刊写真雑誌『光画』では、それを代表するような多くの仕事がなされています。同人の作品をはじめ、東京の堀野正雄、佐久間兵衛、青木春雄、飯田幸次郎、関西の芦屋カメラクラブのハナヤ勘兵衛、紅谷吉之助といった、63人の写真家による、193点の作品が掲載された同誌(全18冊)には、写真とは何か、またどうあるべきかという問いのなかで、新たな写真表現を探る「新興写真」の気運が、よくあらわれていると言ってよいでしょう。
『光画』創刊号に掲載された、第二号から同人に加わることになる伊奈信男による文章「写真に帰れ」は、まさにそうした気運を体現するかのような重要な文章に思われますので、その一部を紹介してみましょう。
「『芸術写真』と絶縁せよ。既成『芸術』のあらゆる概念を破棄せよ。偶像を破壊し去れ!そして写真独自の『機械性』を鋭く認識せよ!新しい芸術としての写真の美学堯槇写真芸術学は、この二つの前提の上に樹立されなければならない」。そして、それまでの絵画を模した芸術写真を否定しながら、写真の独自性を強調する伊奈は、さらに、「写真とは何であるか?芸術としての写真の本質と目的は何であるか?」、と問いかけます。
「写真に帰れ」は、三つに分類された、機械性の認識から生れた海外の新しい写真の紹介を基調として書かれているのですが、しかし、そのいずれに対しても伊奈は、若干懐疑的な態度をとっています。「『事象性の正確なる把握と描写』堯槇それは、それ自身に於て正しい。しかし、それは同一なる形式の反復によつて、早くもマンネリズムに堕する危険性を持つている」。「『生活の記録、人生の報告』堯槇これもまた正しい。しかしこの場合に於ては、内容の瑣末性に煩わされて、何等の感動を与へ得ないものとなる」。「『光線による造形』堯槇これこそ、写真芸術の全領域を遺憾なく蔽う定義として、或る意味に於ては、最も正しいものであらう。しかし、あまりに稀薄なる内容を持つと同時に、あまりに、形式主義的規定である」。
こうして伊奈は、はじめの問いに対して、次のような結論を導きだします。
「写真芸術は、たとえその歴史は若く、伝統は短いとはいえ、決して他の芸術部門に隷属すべきではない。反対に、現代の如き大工業的、技術的様相を持つ社会に於て、写真こそは、最もこの社会生活と自然とを記録し、報導し、解釈し、批判するに適した芸術である。しかし『カメラを持つ人』は社会的人間であることを忘れてはならない」。 「吾々が写真芸術によつて『現代』に最高の表現を与えるためには『カメラを持つ人』は、何よりもまず最も高き意味の社会的人間たらねばならぬのである」。
このような伊奈の理念は、「新興写真」に限らず、その後の写真の流れにも大きな影響を与えたように思われます。ドイツ流のフォト・ジャーナリズムを身につけ帰国した、名取洋之助が、『光画』同人の木村、伊奈と接触し設立した「日本工房(第一次)」、日本工房分裂後、名取以外の同人で設立された「中央工房」、名取が再建し、堀野、渡辺義雄、土門拳、藤本四八などが関わった「日本工房(第二次)」などによる仕事、あるいは、土門、藤本、濱谷、田村茂、加藤恭平、杉山吉良ら若手写真家たちによって設立された「青年報道写真研究会」の動向などの背景には、写真の独自性の探求とその社会性という伊奈の理念を、直接的ないしは間接的に伺うことができるのではないでしょうか。
しかし、戦争が泥沼のように進行していくにしたがって、軍に不利な情報や写真が徹底的に規制されていったうえに、カメラや写真材料の輸入も厳しく制限されるようになり、写真家の役割が戦時宣伝に限られていくなかで、このような理念もやがて引き裂かれていかざるをえなくなっていきます。
こういった戦前の写真の流れに、はじめに引いた濱谷の発言を照し合せてみると、おぼろげながら、終戦をむかえた写真表現の姿が見えてくるような気がします。それは、目的意識としての明確な社会性を軸に形作られた写真の新たな独自性の理念から、社会性なるものの明確さが失われ、目的意識が抜け落ち、答えが見えない、空洞のような写真の独自性、あるいは、世界(太陽)と自己(自分自身の姿)の間に、かろうじて吊り支えられた、「実感の証として写真」です。
戦後の日本写真は、こうした空虚さのなかから、かすかな実感を頼りに、新たなスタートを切り、そして、再び写真の独自性を模索していくことを、何らかの形で宿命づけられていたように思われるのです。

[戦後日本写真史第2回/nikkor club #166 1998 autumn:82-85]
敗戦後の日本写真
前回の終りでは、終戦をむかえた写真表現の空虚な姿を、戦前における、目的意識としての明確な社会性を軸に形作られた、写真の新たな独自性の理念から、社会性なるものの明確さが失われ、目的意識が抜け落ち、答えが見えない、空洞のような写真の独自性、あるいは、世界と自己の間にかろうじて吊り支えられた、「実感の証として写真」というふうに、素描してみました。
こうした姿は、戦後の日本写真を具体的に捉えようとする際には、いささか抽象的すぎる、あまりに漠然としたイメージに感じられるかもしれません。しかし、この漠然としたイメージは、素描の仕方が抽象的だからという訳だけではなく、敗戦直後の写真表現をより具体的に捉えようとするときにも、避け難くあらわれてくるものであるようにも思われます。それは、なぜなのでしょうか。このことを考えてみるために、戦後しばらく時を経てから、敗戦当時の様子を振り返った文章を、引いてみたいと思います。
1977年に刊行された、『日本現代写真史1945−1970』で、「戦後写真史展望」という文章を記している渡辺勉は、敗戦後の日本写真について、次のように述べています。
「それ〔敗戦〕によって写真界にも、新しい時代が到来することになるのだが、その出発にあたり、写真界全体としての戦争責任の自己批判がじゅうぶんでなかったといわなければならない。そのことはそのように指摘する筆者をも加えて、やはりきびしく反省しなければならない歴史的事実なのである」。
「むろん個人的には、それぞれの立場において、戦争責任を自らに問うことはあったに相違ない。たとえば、ほとんど直接的には写真を通して戦争に進んで協力したことのない渡辺義雄は『自分のことですから積極的ではないが、推されて自然と軍や情報局と関係の深い役回りになったわけでしたから。それで終戦後母校(東京写真専門学校)で人がない折でしたがそこの教壇も断り、社会的に影響のある仕事(発表)は静観する気持ちが強かったのです』(アサヒカメラ1950年5月号)と述べている。また木村伊兵衛も、しばしば筆者に、戦争の再起が意外におくれたのは、戦争責任をどう処理したものか迷いつづけていたことに起因すると語っていた」。
「しかし、いずれにしても個人的な、ひそやかな反省はともかく、写真界全体として、昨日まで軍国主義に欺瞞され、それに順応しながら沈黙を強いられて、偽りの歴史の記録者となっていた汚辱の足跡を究明し、自己批判を徹底させることを怠った責任は、筆者をも含めて大きいといわなければならない」。

静観と迷い
戦前には、たとえば「新興写真」という形の、写真の新たな独自性の理念がありました。それは、目的意識としての明確な社会性を軸に形作られたものです。しかし、敗戦という局面を迎えることにより、その社会性それ自体が大きく否定されることになります。戦後の日本写真を捉えようとするときに、避け難くあらわれてくる漠然としたイメージは、そうした局面のなかで、一方では、過去を大きく否定しつつも、他方では、過去から連続する現在を引き受けなければならなかった、個々の写真家の、葛藤そのもののあらわれと言えるかもしれません。
そうした葛藤は、渡辺が指摘するように、写真家の態度としては、「静観」や「迷い」としてのみあらわれることが多いように思われますので、なかなか具体的な形で表現されることがありません。それゆえ、日本の写真史において、戦中から戦後への転換を、個々の写真家がどのように受け入れていったのかは、語られることも少ないようです。この点に、めずらしく正面から言及している、1995年に刊行された、『木村伊兵衛と土門拳』のなかで、三島靖はこう言っています。
「むろん、彼らは積極的な戦争協力者ではなかっただろう、と彼らを知る人たちは語る。その当時、写真家として生きていくには体制に協力するしかなかったのだと」。
「たしかに、当時の状況の切迫を知らずして、写真家の戦争責任が云々と、ひとことで断罪してしまうことはできない。ただ、木村や土門が職能者であったということは、戦時の状況から中立だったという理由にはならないし、むしろそのことの方がはるかに彼らの責任を大きくしていたというべきではないだろうか。優秀な『職能集団』であるがゆえに(そもそも、木村と土門をこの時期に限って『職人』と呼ぶのも奇妙だが)、なかなか手に入らなくなっていた資材を手に入れ、同時代の先端をゆく写真媒体の制作ができたのである。その時代が終われば再び評価されることがないであろう写真を撮り続けることに、無知からであろうと故意にであろうと、無自覚であったこと堯槇すぐれた表現媒体をもち、そこでぬきんでた表現力を駆使できる者は、それを受けとめる側に何らかの影響を与えずにはおかない。その影響が場合によっては歴史を左右することもあるからこそ、『職能』をもつ者が能力を発揮するにあたってあらかじめ負う責任は、結果としてのそれ以前に重いのだ」。
「だが木村も土門も、戦争中にカメラを捨てることはできなかった。生活の問題ももちろんあっただろうが、何よりも、木村は写真が好きだったのだし、土門は写真を制そうとしはじめたところだった」。
「この不運は、戦後の彼らの姿勢に大きな影を落としている。写真を撮る以前に写真の社会的な意義、しかも社会正義のための奉仕といった目的を強く求めるようになったのも、やはり戦時中の身の処しかたに原因があったことは間違いないだろう。彼らが写真に社会的な意味づけを行なったことで、正義と真実を伝えるものとして戦後の写真は地位を飛躍的に高めた。ただ、戦前・戦中と基本的に変わらない撮影の方法で戦後も撮っていれば、限界はたちまちやってくる」。

リアリズム写真運動
戦後の日本写真史において、ひとつの出発点として必ず取り上げられるのは、土門拳による、いわゆるリアリズム写真運動です。1950年にアルス社の『カメラ』誌の月例審査員になった土門は、応募作品の批評を通じて、「カメラとモチーフの直結」「絶対非演出の絶対スナップ」といったスローガンような響きをもった言葉を、アマチュアに熱く語りかけるようになります。たとえば、木村伊兵衛もまた、同誌において、1951年後半に土門と連載対談を行ったり、1952年は土門とともに、1953年は土門と交互に選者を努め、リアリズムについて何らかの発言をしていたりはするものの、やはり、リアリズム写真をひとつの運動に至るまでリードしていったのは、いわばカリスマとしての土門だと言っていいでしょう。
土門の熱気によって、リアリズム写真運動は、金井清一、目島計一、杵島隆、臼井薫、田中一郎、川田喜久治、福島菊次郎、東松照明、深瀬昌久といった、のちに日本の写真表現を担っていくようになる人物を含んだ、当時のアマチュアたちを強く引き付けただけでなく、同時代の写真表現にも大きな影響を与え、また、多くの論議を生むようになっていきます。
しかし、月例という独特の場、土門拳とアマチュアという独特の関係のなかで育まれたリアリズム写真は、「カメラとモチーフの直結」「絶対非演出の絶対スナップ」といった言葉の明快さとは逆に、はっきりとした内実の輪郭が見えにくい運動でもありました。リアリズム写真は、『カメラ』誌の対抗誌であった、『アサヒカメラ』誌に拠る論者などから、テーマが固定化した「乞食写真」といった批判を浴びるようにもなります。「『リアリズム』の清算」(1980年)という文章で、長谷川明は、そうした論争を振り返り、次のように述べています。
「しかし、この論争の奇妙さは、誰もリアリズムそのものには反対していないことである。『アサヒカメラ』側の主要論客である浦松佐美太郎は『写真のリアリズムについて』(1952年11月号)の中で、写真は絵と異なりメカニズムが正確な描写を行ってしまう宿命を背負っているため、リアリズムは表現技法ではなく直接思想の問題として関わってくると述べている。この指摘は土門の論旨とも矛盾するとは思えないのだが、土門は『カメラのメカニズムは本来リアリズムであるという俗説ぐらい馬鹿げたものはない』(『カメラ』1953年10月号)と猛反発している。しかし、そのあとで『リアリズムはカメラという名の四角く冷たい機械の中にあるのではなくて、写す人間そのものの世界観と表現方法の中にひそんでいるのである』と同じことを言っているのだからいささか珍妙である」。
ここで注目しておきたいのは、土門と浦松の矛盾や同一性そのものではなく、長谷川明が珍妙と指摘しているような、対立の噛み合わなさです。『アサヒカメラ』誌1952年12月号には、伊奈信男・渡辺義雄・浦松佐美太郎・土門拳・長谷川如是閑というメンバーで、「写真のリアリズムについて」という座談会が収録されていますが、最後に意見を求められた長谷川如是閑が、「あまりテーマが多くてよくわからないが……」、ともらしているように、全体を彩る調子は、やはり論争と言うよりも、あらゆる点において論旨がちぐはぐとした、こうした噛み合わなさを象徴するようなものになっています。 しかし、にもかかわらず、土門拳によるリアリズム写真運動は、直接的にせよ間接的にせよ、当時も、その後の写真表現にも大きな影響を与えました。だからこそ、こうした噛み合わなさに、注目しておきたいのです。

写真の可能性
土門と言えば、『風貌』や『室生寺』、リアリズム写真の成果とも言われる『ヒロシマ』や『築豊のこどもたち』、あるいはライフワークとなった『古寺巡礼』といった、日本写真史に残る名作でよく知られていますが、そうしたイメージからすると、やや意外な作品を、戦後の初期に発表しています。『クローズアップ』(1948年5月号)に掲載された、『肉体に関する八章』と、『フォトアート』誌(1950年1月号)に掲載された、『皮膚に関する八章』という、いわばシュルレアリスム風にも見えるような、実験的な雰囲気の作品です。この、『皮膚に関する八章』の解説文で、土門はいくつか興味深いことを言っています。
「今度の僕の『皮膚に関する八章』はもちろん非常に幼稚で成功したものではありませんが、強いて言えば、新即物主義の人間主義的解放を志向したものと申せましょうか。これも“写真の可能性”をさぐる僕自身の努力の一つで、成功不成功、上手下手は敢て意とするところではありません」。
「かのピカソがうまいことを言っております。人間は小鳥の声をきく時は、ただききほれるだけで、何をさえづっているのかなどと“理解”しようとしてはいない。それなのに絵を見るときに限って、一生懸命根堀り葉堀り何が描いてあるのかと“理解”しようとする。絵は小鳥の声を聞くように、ただ見ればよいのであると。写真もまったく同じであります」。
写真作品の意外さもさることながら、この発言も、「カメラとモチーフの直結」「絶対非演出の絶対スナップ」といった言葉における、リアリズム写真の土門と比べると、いささか意外なものに思えます。なにしろ、“写真の可能性”をさぐりつつ、写真を“理解”しようとせず、ただ見ればよい、と言うのですから。ここだけを捉えるなら、今日の写真家の発言とも聞えるような言葉ではないでしょうか。また、こうした姿勢は、前回取り上げた濱谷浩の、「実感の証として写真」と呼応するものでもあるようにも思われます。
このような姿勢の土門が、なぜたちまちリアリズム写真運動の先導者となっていくのでしょうか。先の、「写真のリアリズムについて」という座談会で、土門は次のように発言しています。
「戦前にも、敗戦直後にもリアリズムという意識は全然なかったんですね。戦争が終り再びカメラを持つようになって、いろいろなことをやりました。ご存知かもしれないが、肉体に関するアフェクシヨン的なものを、非常にリアリスティックな手法で写してみるという、現実と非現実の混淆というものを狙った仕事もやってみたけど、そういうものはつくりものとして直ぐ頭打ちになるんです。そうした中で、最もリアリスティックな表現の方に重点を置いて私なりに考えてきたわけで、それもここ2、3年のことです」。
戦後の初期にみられる、こうした土門のゆらぎは、はじめに述べた、一方では、過去を大きく否定しつつも、他方では、過去から連続する現在を引き受けなければならなかったことの、葛藤のひとつのあらわれと言えるかもしれません。戦後、土門は“写真の可能性”を探りはじめます。それは、戦前、戦中とは違った、写真の独自性にほかならないでしょう。しかし、かつての社会性それ自体を否定することが余儀なくされている以上、どのような写真表現の試みも「直ぐ頭打ちに」ならざるをえません。逆に言うならば、戦後の写真の独自性は、過去の否定と、過去から連続する現在という、矛盾する条件を満たすなかに探られないかぎり、新たな理念としては不充分なものにとどまらざるをえないのです。

新たな写真表現の空間
このようなことを踏まえて考えてみると、土門のリアリズム写真運動は、過去の否定と、過去から連続する現在という、矛盾する条件を、辛うじて満たすものであったことが、わかってくるように思われます。「乞食写真」とも批判された、リアリズム写真は、ごく単純化して言えば、一方で悲惨な現状を描きつつ、他方でそれを否定した理想的な未来を暗黙に浮び上らせるからです。そして、だからこそ、リアリズム写真運動は、まず明確な理念があって組織されるのではなく、土門拳とアマチュア、つまり戦後的な意味での大衆との関係のなかで、いわば手探りで育まれなければならなかったのでしょう。
内実の輪郭が見えにくいにもかかわらず、このように新たな理念を打ち出すに至った、リアリズム写真運動が、写真表現に大きな影響を与るようになったのは、当然のことかもしれません。端的に言えば、「静観」や「迷い」といった態度を打破しうる、新たな写真表現の空間を形作りえたのですから。また、リアリズム写真をめぐる論争の、噛み合わなさも、こうしたことに由来するものであるように思われます。なぜなら、それが噛み合うか否かにかかわらず、ここで重要なのは、「静観」や「迷い」といった態度を打破しうる、新たな目的意識としての理念であり、結論を出すことよりも、それをめぐることにこそ意義が見出されうるからです。
戦後、ようやくこうして、「実感の証として写真」は、リアリズム写真運動、そしてそれへの批判も含めた、新たな写真表現の空間へと転換されていくことになっていったのではないでしょうか。

[戦後日本写真史第3回/nikkor club #167 1999 early spring:102-105]
カメラ雑誌の復興
前号では、土門拳のいわゆるリアリズム写真運動を中心に、戦後まもなくの、日本写真の姿をめぐってみました。しかし、むろん、戦後の日本写真のはじまりは、それのみで語りつくされるものではないでしょう。
戦後、さまざまなものが復興していったなかで、写真も徐々に多くの人々の関心を呼ぶようになっていきました。そうした現象を典型的に物語るのは、戦争中に休刊を強いられていたカメラ雑誌が、次々と復刊し、そして、新たなカメラ雑誌が創刊されていったことでしょう。1946年の『カメラ』(アルス)を皮切りに、『光画月刊』(光画荘)、『写真手帖』(国際写真出版社)、『フォトアート』(研光社)、『フォトグラフィ』(フォトグラフィ)、『アサヒカメラ』(朝日新聞社)、『日本カメラ』(光芸社)、『カメラファン』(イヴニングスター社)、『サンケイカメラ』(産業経済新聞社)、『カメラ毎日』(毎日新聞社)など、多くのカメラ雑誌が、50年代にかけて刊行されていきました。
また、フォト・ジャーナリズムの分野にも注目しなければならないでしょう。46年には『世界画報』(世界画報社)や『サン写真新聞』(サン写真新聞社)が、47年には、ドイツ流のフォト・ジャーナリズムを身につけ、戦前から報道写真に深くかかわってきた名取洋之助が編集に携わった、『週刊サンニュース』(サン・ニュース・フォトス)が刊行されています。『週刊サンニュース』は、49年に廃刊に追い込まれますが、名取は50年から、『岩波写真文庫』(岩波書店)の編集にかかわり、引き続き、写真による情報伝達に取り組んでいきます。
このような状況について、60年前後に6年間『カメラ毎日』の編集長を務めた岸哲男は、次のように振り返っています。
「いまと違って終戦直後は、プロ写真家が写真を発表する場としては『中央公論』『世界』など二、三の総合雑誌を除いては、カメラ雑誌しかなかった。戦後、経済よりも政治よりもいち早く復活したのはジャーナリズムであるが、カメラ雑誌はこれらのプロ写真家に作品発表の場を提供し、いっぽうアマチュアの月例写真コンテストを優遇するという二本立てで出発した」(『日本現代写真史1945−1970』)。
カメラ雑誌のブームともいうべきこうした状況は、さまざまな雑誌の創刊や休刊・廃刊をくりかえしながら、のちに徐々に下火になってゆき、85年の『カメラ毎日』の休刊をシンボリックな区切りとして、かならずしもカメラ雑誌が写真表現を主導していくわけではない状況に変容していきます。とはいえ、このような構図そのものは、今日でもさほど変わっていないように思えるだけに、その構図が、この時代に生じたものであるということは、注目しておくべきでしょう。

主観主義写真
カメラ雑誌ブームのピークの一つは、55年頃で、カメラ雑誌の数は10誌をこえ、読者のアマチュア写真家は300万人を数えたといわれています。この時期はまた、土門がブリヂストン美術館での講演で、「1954年の春をもって第一期リアリズムは一応終わった」といっているように、リアリズム写真運動が低調になっていった頃でもあります。前号で述べたように、土門のいわゆるリアリズム写真運動もまた、カメラ雑誌を主な舞台として展開されたものですが、読者層の拡大にしたがって、より幅広い写真表現が求めはじめられていたともいえるでしょう。
このような背景のもとで、『カメラ』の54年4月号に「モダン・ユーロピアン・フォトグラファの主観主義写真」が掲載されます。これは51年に、ドイツのオットー・シュタイネルトが展覧会を企画開催し、52年に同名の写真集を出版して話題を呼んだ『サブジェクティブ・フォトグラフィ』から、ラスロ・モホリ・ナジ、ハンス・ハマーシュケントなどの写真を紹介したものです。
『サンケイカメラ』は、55年から56年にかけて、カメラ雑誌のなかでもこの動向を積極的にとりあげ、56年末には同誌主催の『国際主観主義写真展』が、東京、日本橋高島屋で開催されています。この展覧会は、シュタイネルトが選んだ14カ国、75名の作品に、滝口修造、阿部展也、樋口忠男、本庄光郎ら約40名によって結成された日本主観主義写真連盟の会員の作品、奈良原一高、今井寿恵、一村哲也、石元泰博、植田正治、後藤敬一郎、大辻清司らの作品が加えられたものでした。
しかし、この主観主義写真の熱は、さほどながく続くことなく冷めていきます。岸は、このあたりの事情について、こういっています。
「もともと提唱者西独のオットー・シュタイナートの命名したSubjektive Fotografieすなわち主観的写真ともいうべきものを、『主観主義写真』と訳して受け取ったことにも問題がある。写真の機能の持つ自然主義的描写の世界から離れて、あらゆる写真技術を駆使して作者の思想や人生観を能動的に画面に打出そう、そのためには作者は主体性を確立しなければならぬというわかりきったシュタイナートの主張を、お仕着せのイズムとして受け取ったため、形の上の奇抜さを追う形式主義、暗室における特殊操作を重んじる技術主義だけに終わり、また一時起こった主体性論争も、結着を見ないまま尻ぎれとんぼになった」(『戦後写真史』)
主観主義写真について記されたものを読んでみますと、このような見解に代表されるように、おしなべていささか冷淡な印象があります。こうした冷淡さそのものにも、興味深いものがあるように思われますが、それは追って考えることにしましょう。
ここで述べられているように、一つの運動としての主観主義写真が短命で終わった理由としては、移入された形式が、まさに形式的に展開されたということが大きいでしょう。単純化していえば、主観主義写真は、写真の客観的、記録的な側面が強調された、いわゆるリアリズム写真と対立的に、写真の主観的、表現的な側面のみが強調されたきらいがあり、それゆえ、対立物としての役割を果たしたときが、その使命を終えるときでもあったということではないでしょうか。

裸婦ブーム
さて、教科書的な写真史ではあまり言及されないことかもしれませんが、戦後まもなくの日本写真を物語る現象として、ここでとりあげておきたいことが、もう一つあります。それは、ヌード写真についてです。戦後ただちに刊行された写真集は、圧倒的に裸婦像だったといわれているように、ヌード写真のブームは、戦後の開放感と写真表現の関係をもっとも端的にあらわしているように思われるからです。
たとえば、50年代の半ばに100円で出版された河出新書のなかの、『現代のフォトアート』というシリーズで、「リアリズム篇」「ポートレート篇」などと並んで、「ヌード篇」がいち早く出されていたといったことに、こうしたブームともいえるような現象の一端をうかがうことができるでしょう。「リアリズム篇」と「ヌード篇」が、こうして並置されていることには、ちょっとした不可解さを感じることを禁じえませんが、その不可解さこそが、戦後の開放的な気分をよく示してもいるのではないでしょうか。 その、『現代のフォトアート―ヌード篇』を監修した田中雅夫は、同書のなかで、日本のヌード写真について、次のようにいっています。
「日本のヌード写真はいうまでもなく戦後の所産である。戦前に個人的にヌード写真の研究をしたという作家はもちろん何人もいるだろうが、封建社会のような空気の中でそれが自由に発表できなかったという事実を想起すれば、たとえ研究をしていた者があったにしても社会的、歴史的にはそれはあまり意味をなさない。だから日本のヌード写真は、いってみればいまようやくはじまったばかりで、史的推移を述べるにはあまりにも経過が短かい」。
「それはとにかく戦後のヌード写真に対する写真家の関心と積極的な試みはかなりはげしいものがあり、ヌード写真時代ともいうべき事態を招来したことは事実である。そうして、そのもっとも先駆をなしたのは福田勝治、杉山吉良、土門拳の三人である」。
「1949年になると、真継不二夫が“美の生態”で、大竹省二が“女とカメラ”でそれぞれヌード写真を発表し、続いて松島進、中村立行、狩野優、小石清、内田美胤、秋山庄太郎、尾崎三吉、三木淳、村井龍一、本庄光郎などの作品が登場しはじめる」。
ここで田中が、土門をヌード写真の先駆者としてあげているのは、前号でも紹介した、『肉体に関する八章』といった写真を指してのことです。土門が、写真の可能性を探る試みとして撮った写真に、リアリズムとヌードがすでに混在していたということは、たいへん示唆的なことであるようにも思えます。
ところで、この裸婦ブームをめぐっては、51年の『フォトアート』3・4月合併号に掲載された、数点のヌード写真が検察当局によって摘発され、雑誌が発禁処分になるという事件も起こっています。ヌード写真ブームというような状態は、この頃を境に徐々に沈静化していったようですが、ヌード写真はその後も今日にいたるまで、時に話題の震源地になり、時に写真家登場の舞台になるなど、たえず写真表現の重要な一部分を占めているだけに、こうしてそのスタートラインを確認しておくことは、あながち無駄なことではないでしょう。

戦後の「終わり」
カメラ雑誌の復興、主観主義写真の展開、ヌード写真のブームと、戦後の日本写真のはじまりを物語るようないくつかの事象を、ここまでやや急ぎ足ながらめぐってみましたが、こうした事象の背景としての、社会全体の復興を忘れてはならないでしょう。55年頃には神武景気とともに、高度経済成長の時代がはじまり、56年7月には、戦後の終わりの宣言として論議を呼んだことで知られる経済企画庁による、次の一文を含んだ経済白書が発表されています。
「いまや経済の回復による浮遊力はほぼ使い尽くされた。なるほど、貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかも知れないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや“戦後”ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終った。今後の成長は近代化によって支えられる」。
周知のことでもある、経済的な復興について、あえてここで確認してみたのは、ここまでめぐってきたような戦後の日本写真のはじまりそのものが、それに深く規定されたものでもあるからです。
戦前において、プロ写真家とアマチュア写真家は、さほど交わることのない、いわば並行した存在でした。カメラ雑誌を通して、プロ写真家とアマチュア写真家が交わるというような構図は、経済成長のなかで、仕事の舞台を広げていき、その数も増加したプロ写真家層と、高価ながらも、カメラがけっして手の届かない趣味ではなくなることで、爆発的に拡大したアマチュア写真家層が生まれなければ、そもそもありえなかったことなのです。
それにくわえて、この時代、写真というメディアは、現在のイメージと比べてはるかに新鮮で、まだまだ未知の可能性に満ちているように感じられた、新しい大衆的なメディアでもありました。それが、ほかのジャンルの表現にはみられない、写真表現独自の戦後の強力な推進力となったことは、間違いないでしょう。
さまざまな試みが錯綜しながらも、強力な推進力に支えられた、このような写真表現の光景のなかで、終戦直後の、目的意識が抜け落ち、答えが見えない、空洞のような写真表現というイメージは、のりこえられ、すっかり払拭されていったかのようにもみえます。しかし、同時に注目しておきたいのは、そこでの試みの錯綜のなかで、新たな目的意識が形作られたわけではなく、むしろ、目的意識に対して冷淡な距離をとることで、そのイメージが気分的に払拭されていったことでしょう。
なぜこのことが重要なのでしょうか。それは、こうした写真表現の気分が、のちの写真表現を育む豊かな土壌となるとともに、その後の写真表現が独自性を探るさいの、影のようなものとして、日本の写真表現を彩っていくように思われるからです。

[戦後日本写真史第4回/nikkor club #168 1999 spring:84-87]
『10人の眼』と『VIVO』
「1956年(昭和31年)という年は不思議な年であった。それはいままで戦前からの蓄音機から流れていた歌が、こんどはステレオに切り換わったような年なのだが、多くの人はそんなことにお構いなしであった。…カメラ・ブームは写真のブームも呼んだが、それに応じてたくさんのカメラ雑誌(この年に17冊もあると聞いた)が生まれ、拡大した写真人口をお互いに喰いあっていた。…ある種の解放と緊張の一時期は過ぎ去りつつあった」(『日本現代写真史1945-1970』)。
前回は、1950年代前後の写真表現の特徴、その背景となった経済的な復興について触れましたが、この言葉は、それによってもたらされた変化を、よく物語っているように思われます。
50年代半ばから60年代にかけての写真表現を捉えようとするとき、かならず登場してくるのは、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向です。これまで、幾度となく語られてきたこととはいえ、この動向は、なかなかつかみにくい側面も持っておりますので、今回はそのあたりについて、やや丁寧にめぐってみたいと思います。
冒頭の言葉は、写真評論家の福島辰夫が後にこの時代を振り返って記したものですが、『10人の眼』は、1957年に、その彼が組織して開催された写真展です。参加者は、石元泰博、細江英公、東松照明、常盤とよ子、川原舜、川田喜久治、丹野章、中村正也、奈良原一高、佐藤明。その時の案内状に、福島はこのように書いています。
「写真界はいま大きく変ろうとしています。これからの写真について誰でもが考えなければならないときです。こ丶にお互に認めあった者どうしが集って展覧会を開きました」。
『10人の眼』展は、58年に常盤とよ子、川原舜、石元泰博を除く7人で第二回展が、59年に、常盤とよ子、川原舜を除く8人で第三回展が開かれています。そして、3回の展覧会が終わったあと、それを契機として、川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明、奈良原一高、細江英公がメンバーとなって、結成されたセルフ・エイジェンシーが『VIVO』です。


「新しい写真」
現在から振り返るとき、日本現代写真のパイオニアとも言うべき、そうそうたる顔ぶれがならんでいる、『10人の眼』や『VIVO』の写真家やその作品の重要性は、いわずもがなのことに見えるかもしれません。しかし、当たり前のことながら、忘れてはならないのは、50年代半ばから60年代にかけてという、この時期においては、彼らもまた、まぎれもなく若手の新人写真家たちであったということです。『アサヒカメラ』60年9月号の、「新しい写真表現の傾向」という文章で、渡辺勉は、次のように言っています。
「混乱やゆきすぎも次第に解消され、やがて落ちつきを取り戻した写真という独立国は、一つの軌道に乗って近年めざましく成長を遂げた。そして最近では、これまでにみられなかったような新しい傾向が、独立の土壌から芽生えてきていろいろと話題を呼んでいる。たとえば東松照明、奈良原一高、今井寿恵、細江英公などの作品がそれである」。
「ところでこれらの若い世代の写真家たちの作風は、なぜ従来の写真の行き方と異なっているのだろうか。それは一つには、彼等は写真が独立した後の平和時代に育った写真家なので、過去の植民地時代のゆきがかりにとらわれることなく、写真の視覚的表現力を自由に探求することができるからである」。
「それを具体的な作風と表現の上で指摘するならば、従来の写真表現よりも、より一層映像そのものに深い関心をよせ、その特徴的な性質を積極的に駆使しようとしているところに相違があると思う」。
これらの言葉は、この時期の写真表現の在りようを、端的に言いあらわしているように思えます。ところで、渡辺のこの発言は、思わぬ波紋を呼ぶことにもなります。ドイツ流のフォト・ジャーナリズムを日本に移入したことで知られる、名取洋之助が翌10月号に、「新しい写真の誕生」と題した反論を寄せるのです。
「『新しい写真』とか『映像』とかいう言葉は写真の新しい傾向をさすものらしいが、その言葉の意味づけや使い方には、大分混乱があるように思う」。
「確かに、彼らの写真は今までの写真、もっと正確にいえば、戦後の写真界で主流となっていた写真とはずいぶんちがう。…しかしその手法、あるいは結果だけを、問題にするならば、決して新しくはない」。
「三十年も前、ダダイストの影響の下に生まれたヨーロッパの商業写真、モード写真などとたいへんよく似ている。似ているどころかほとんど変わらないと極言さえできるものもある。だとすると、彼らだけがはたしていうところの『映像』を重視しているのだろうか」。
このように言う名取は、自身の報道写真論を軸にしながら、若い世代の写真を比較検討し、次のような結論を導き出していきます。
「『新しい写真』の特色は、それを構成している個々の写真の新しさではない。それはとくに新しくさえもないのだ。今述べてたような判断も、評価も、一枚でなく、全体を見ることではじめてできることなのだ。何枚かの写真の画面と、その配列の総合として生まれる効果、それこそが新しいものとして評価されるべきであり、手法が似て、異質なものを、同列に見るべきではなかろう。また、若い写真家たちが、若い人をテーマにしているということだけにまどわされて、どこが『新しい』かを見失ってはならない」。

名取―東松論争
さて、渡辺や名取の文章の中で、若い写真家の代表的存在として、たびたび例にあがっていた東松照明が、翌11月号でさらに、この名取の文章に対して、「僕は名取氏に反論する」という文章を寄せています。これが、いわゆる名取―東松論争と呼ばれるものです。
名取は先の反論のなかで、東松について、「報道写真は特定な事実、特定な時間を尊重する。前にも書いた通り東松はこの報道写真の、特定の事実尊重を捨てた。時とか場所とかに制限されない方向に進もうとした。逆にいえば、報道写真とは、時間、場所にとらわれないことによって絶縁してしまったのだ」、と述べています。東松は、そのような名取の報道写真を軸に考える視点そのものを、真っ向から否定していきます。
「かりに僕が、いわゆる報道写真家だったとしても、途中で特定な事実尊重を捨てたおぼえはない。いわゆる報道写真を拒否したまでだ。名取氏は、僕が『報道写真家としてスタートした』と思い違えることで、換言すれば、既成の事実として僕を位置づけることで、真実を見失ったのである」。
「報道写真という言葉が持つ重量感は、すでに過去のものである。かつて、ドイツから日本に報道写真の理論を輸入した最初の人が名取氏だったとすれば、その功労に敬意を表することを惜しむものでは決してない。しかし、写真の動脈硬化を防ぐためには『報道写真』にまつわる悪霊を払いのけて、その言葉が持つ既成の概念を破壊することだと僕は思う」。
こうした一連の論争のなかで、問題になっているのは、けっきょく、どのようなことなのでしょうか。渡辺は「新しい写真」を強調し、名取は報道写真を軸にしつつ、「新しさ」そのものの検証を唱え、東松は「報道写真」そのものを否定しています。それぞれの文章は、それぞれの論を読む限り、いたって正論に響くものなのですが、それゆえ、それぞれが拠って立つ土台の違いがきわだってもいるようです。
言い換えるなら、今日、根本的に噛み合うことのない、この論争を顧みるときに浮かび上がってくるのは、論点とそれをめぐる議論ではなく、「新しさ」そのものを価値とすることに対する名取の執拗な拒絶、そして、「既成概念」そのものに対する東松の根底的な否定ではないでしょうか。つまり、この一連の論争では、いっけん具体的な現象をめぐっているように見えながら、じっさいには価値観の土台をめぐる、とても抽象的な論議が行き交っているように思われるのです。


過去との切断
はじめに、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向には、つかみにくい側面があると言ったのは、この抽象性についてです。『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向にかいま見られるのは、過去の写真表現を継承し展開していく姿勢ではなく、逆に、それとの切断において自らを見いだしていこうとする意志のようなものです。では、そういった動向は、過去の写真表現と自らを切断することで、何を目指していたのでしょうか。
じつは、先ほどの東松の文章には、「若い写真家の発言・1」というタイトルも付されているのですが、そのページには「若い写真家の発言・2―ある未知への発端」として、次のような奈良原一高の文章も収められています。
「作家というものは、しきりに生きたいと思い、自分の作品の制作に関しては夢中だが、自分自身のこととなると、これはまたさっぱりふり返ってみたこともない。そして僕はそうであっても一向にかまわないと思っている」。
「制作する瞬間においては、一枚の写真の成立はその作家にとっても貴重なものであり、そのためにこそエネルギーをしきりに費しているわけだが、その作家の人生にとってはほとんど問題にするに足りない。そしてまた、今日一枚の傑作を生むということ自体、どれほどの重要性があるか疑問である」。
「僕は職業としてカメラマンを選んだ覚えは一度もない。ライフ誌でいうグレート・ビッグ・フォトグラファーを前途に夢みたこともむろんなかった」。
ここで奈良原は、東松のように、名取の視点に直接反論はしていないものの、たんたんと自らの価値観と姿勢を述べたこの文章からは、かえってその分はっきりと、過去との切断があらわれていると捉えることもできるのではないでしょうか。
こういったことを踏まえて考えてみると、『10人の眼』や『VIVO』という呼称が、たとえば「リアリズム」のように具体的なものではなく、とても抽象的で、何かを指し示すというものではないように、それに象徴される動向に見られるのは、過去の写真表現との切断そのものを目指すことへの、当時の若い写真家たちの共感ともいうべきものであるように思えます。

日本現代写真のはじまり
冒頭に引いた文章で、福島は当時の若い写真家たちとのつながりを、こう述べています。
「未知の写真の創出に向かって飛び立てる、とびきり飛翔力の強いやつ――1956年の時点で、われわれはお互いにその仲間を見つけるのに、たいして手間どらなかった」。
「そして会って見ると、写真で判断しても、会って話してみても結局は同じことで、写真で感じられたことは、会って感じられることと見事に重なるのだった」。
こうして育まれていった、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向は、過去の写真表現への根底的な否定を力に、写真表現に新たな土壌を切り開いていきます。そこでの、それぞれの写真家やその作品の重要性は自明のこととして、ここで注目しておきたいのは、その土壌が既成概念の否定、過去との切断そのものを目的にすることで、共感によって切り開かれていったことです。
たとえば、いわゆる土門拳のいわゆるリアリズム運動がもたらした写真表現の空間は、過去を否定しつつも、そのこと自体が目指されて形作られていたわけではありませんでした。それゆえ、また、土門拳という指導者的な存在や、「リアリズム」という言葉が必要とされたのです。しかし、既成概念の否定、過去との切断そのものを目的にすることで形作られた、『10人の眼』や『VIVO』に象徴されるような動向における写真表現の空間は、『10人の眼』展の案内状の文章にあるように、お互いに認めあうことで、その在処を自己確認するほかないような、独特の性質のものだったのです。
この独特の性質こそ、渡辺が注目し、名取が拒絶した、「新しい写真」あるいは「映像」ということの核心に、ほかならないように思われます。そしてここに見られる、既成概念の否定、過去との切断そのものを目的にし、表現の意味を自らの姿勢によって確認していくような、こうした写真表現の独自性の在りようのはじまりはまた、今日、私たちが現代写真と呼んでいる写真表現の空間のはじまりでもあったように思われるのです。

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『工場萌え』という写真集が話題になっている。正確にいえば、もともと『工場萌えな日々』*1という人気ブログがあり、写真集になる前から話題性は高く、昨年末にはDVD『工場萌えな日々』が発売されており、今年はじめには写真展も開催、『工場萌え』はそれに続く出版ということになる。

『工場萌えな日々』の管理人、wamiこと石井哲は、2004年11月02日のブログで、工場を撮りはじめたきっかけを、次のように書いている。

「他の人の撮った物を眺めるだけではなく、下手なりにも自分で写真を物にしたいと思い立ち、生まれて初めてのデジタルカメラを購入してみる。他の人の撮った物だとどうしても微妙に興味の対象が違ってしまい、中々痒い所に手が届くような写真に出会えない・・・と言うのが最大の理由」

ドイツのベッヒャー夫妻の写真が好きという石井氏が、自分で写真を撮るようになったのは自然ななりゆきでもあっただろうが、その写真が、これだけの反響を呼ぶようになるのは、デジタル時代、インターネット時代ならではの現象だろう。

銀塩、アナログ世代にとって、デジタルやインターネットというのは、ひょっとしたらまだ何となくいかがわしい、とまではいかなくても、正統派の表現とは別物というイメージがあるかもしれない。しかし例えば、プリントをオリジナルとして展示するのを正統派とするなら、そうした表現方法が日本で一般化したのは、たかだかここ2、30年にすぎない。正統な表現方法が固定せず、時代によって多様なメディアと結びついて展開するのが、写真表現の醍醐味でもあるのだ。

インターネットの普及にしたがって、爆発的に増加したのは、文字と画像による情報である。極論すれば、写真はシャッターを押せばいいので、書かなくてはならない文字よりも、敷居が低い。といっては語弊があるだろうが、急速に低価格化、高性能化したデジタルカメラが、その傾向に拍車をかけていることは否めないだろう。インターネットと写真は、ひじょうに親和性が高いことが明らかになってきたのである。

敷居が低い、ということは、レベルが低いということではない。大量の写真が発信されるということは、自然に切磋琢磨されるということでもある。同じようなモチーフを扱ったサイトでも、いい写真が載っているところは人気が高まる。それを見た人が、さらに学習する。逆に、急激にレベルが高まっている側面もあるのだ。じっさい、さまざまなブログを見てまわっていると、くろうとはだしの腕前の写真も数多い。

そうしたブログを見ていて感じるのは、インターネットでは見せないとか、あえてインターネットで見せるとか、インターネットと作品を対立的に考えている旧来的な表現観の、あまりにナイーブすぎるスタンスでもある。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に立ち上げられた、石井氏が管理人を務めるコミュニティのメンバー数が8000人を超えていることに象徴されるように、『工場萌えな日々』をはじめとした、優れた写真が載っているブログで印象的なのは、共通の興味を楽しむという雰囲気である。この雰囲気は、作品/鑑賞という関係にしばられた旧来の表現観とは対照的だ。

石井の写真は、ブログやコミュニティで惜しみなく発表されてきたが、だからといって写真集への関心が低まることはなかった。そうではなく、インターネットで発信され話題になったからこそ、写真集への関心も高まったのである。

小説やエッセイといった文字メディアでは、こうした流れがひとつの在りようとして当たり前になりつつあるが、『工場萌え』という写真集の出版は、写真メディアでも同じような流れが生まれつつあるのではと感じさせる出来事でもある。


『The Nature of Photographs』は、アメリカの現代写真家、スティーブン・ショアーが、古今東西のさまざまな写真を例にとりながら、写真の見方、読み方を説いた写真集である。今風の言葉でひとことであらわすなら、写真のリテラシーをめぐる本だといえよう。

本書のページをめくって写真だけを眺めてみても、なぜそれらの写真が取り上げられているのか、ほとんど見当がつかないに違いない。では、そこに記された文章を読めば、それなりに理解できるかといえば、そうとも思えない。文章自体は、中学・高校程度の英語で理解できる平易な文章で書かれているので、難しくはない。では、なぜ本書は、理解しがたいのだろうか。

日本人は感覚的にものを捉えるのに長けている。そして、その感覚を生かして、さまざまな文化を移入してきた。写真表現もその例外ではない。とりわけ60年代以降は、いろいろな写真表現を感覚的に移入し、それにインスパイアされてきた。今日では、日本の現代写真も、影響を受けたもとの写真よりも洗練されているといっていいほど、成熟してきた。

感覚的に見るということは、文脈を超えてわかってしまうということである。そうした感覚からすると、『The Nature of Photographs』で展開されている写真の見方は、まだるっこく、野暮くさい。わかったあとに、その理由をくどくどと説明されることほど、苦痛なことはない。おそらくこれが、本書を理解しがたく感じる理由だろう。

とはいえ、野暮ったいほど懇切丁寧に写真の見方を説くことは、アメリカ現代写真の文脈が、圧倒的な国際的影響力をもっている理由でもある。これを裏返せば、日本の現代写真の作品が評価されることはあっても、文脈が影響を与えることはほとんどない理由ということになる。

文脈と感覚は、本来、メビウスの輪のように結びついているはずのものだ。しかし、洗練され、成熟した日本の現代写真にとって、文脈はもう不要のものなのかもしれない。『The Nature of Photographs』が反語的に照らし出しているのは、このような日本写真のローカルな特徴でもあるように思える。

 

影響を受けた写真家として、一番よくあがる名前は、おそらく土門拳だろう。土門拳に次いであがる名前は、森山大道だと思う。そして、このふたりの名前が、それ以外の写真家を大きく引き離している。べつに統計をとったわけではないので、たんなる推測にすぎないが、それほど外れてもいないのではないだろうか。

影響を受けた写真家というのは、影響を受けた写真とは違うし、好きな写真家というのとも違う。そうした問いだったら、もっとさまざま写真家の名前があがるだろう。影響を受けた写真家というのは、たぶんもっと特別な存在なのだ。その人が撮った写真はもちろんのこと、生き方そのものに影響を受け、世界の見え方が変わり、自分の人生までもが変わってしまったような存在。それが、影響を受けた写真家なのだろう。

写真を見て、それに触発されたり、影響を受けたりすることはわかる。だが、それだけでは写真家の人生に影響を受けたりはしない。なぜなら、どのように生きているのか、写真からは、わからないからだ。では、どのように人生を知るのか。さまざまな知り方があるだろうが、多くの場合、活字メディアだろう。したがって、影響を与えるような写真家は、よく語り、よく読まれてきた写真家だともいえる。

森山は、その作品からすると、写真だけをたんたんと発表しているような寡黙なイメージがあるが、じっさいには、たくさんの言葉を発してきた写真家でもある。『犬の記憶』『写真との対話』『写真から/写真へ』『犬の記憶 終章』、そして今回出版された『昼の学校 夜の学校』といった著作はもとより、雑誌などでもフィーチャーされることが多い。

たとえば、『昼の学校 夜の学校』では、次のように語っている。

〈いわゆる「プロのカメラマン」というのは、基本的に依頼仕事があって、プロとしての腕をふるって生活も成り立つわけだけど、ぼくにはそれが、ほとんどないんだよ。結局、何をしているかというと、基本的にふらふらと自分の写真を撮るだけなんだ〉

〈写真はぼくにとってどうしようもなくさ、言葉にするのをためらうぐらいの引力を持っていてね、なんか、写真の魅力をつべこべ言っても仕方ないっていうか、いまさら恥ずかしいっていうかそんな感じですね。…結局ぼくという一人の個人が、唯一現世で関わることができたもの、こだわることができたもの、それが決定的に写真だったっていうほかないなあ〉

若いときに出会ったら、そういう人生もアリなのかと、クラッときてしまいそうな魅惑的な言葉である。だが、影響を与えるような写真家というのは、それだけではない。土門月例の言葉が、夜が明けるのが待ち遠しいくらい写真を撮りたくなるものだったように、写真を撮ることに導くような熱い言葉ももっているものなのである。

〈それと皆さん、本当に沢山写真を撮ってください。絶対に、沢山沢山撮ってください。ひとまず量のない質はない、ただもうそれだけです、ぼくの唯一のメッセージは〉

〈夏こそカメラマンの季節です。暑い夏の炎天下、街が真っ白に見えて、まつ毛の汗で風景がにじみます。そんなクラクラするときに写真を撮るのがぼくは一番好きです。皆さんも夏、気合いを入れて沢山撮ってください〉

こんな言葉に触れたら、なんだかわからないが、写真をガンガン撮りたくなってしまうだろう。

ところで、こうした写真家に影響を受けた者の人生とは、どのようなものだろうか。写真は、昔のように穀潰しの趣味とはいわれないだろうが、湯水のように写真を撮るようになってからすっかり堅気になったという話も聞かないから、今でも度が過ぎてはいけない道楽に違いない。

だが、『昼の学校 夜の学校』には、人生を軽々と趣味の向こう側に誘ってしまうような力がある。向こう側に行ってしまってから、悪い奴に惚れてしまったと思っても、もう遅い。悪い奴ほどよくしゃべる。気をつけた方がいい。


[書評:過剰なまでの優雅な輝き・金村修『In-between 12 Germany, Finland』/日本カメラ2006年2月号:199]
In-between 12 金村修 ドイツ、フィンランド 本書は、金村修がはじめて本格的に海外で撮りおろした写真集だという。だが、巻末の文章には次のように書かれている。

「この写真集のドイツやフィンランドという国名の被写体も、実体として存在するドイツやフィンランドを再現したという事ではありません」

本書に収められた黒々とした写真を見て、これこそがドイツやフィンランドの再現だとは誰も思わないだろう。そもそもドイツやフィンランドとはカタカナで書かれた国名であり、それ以上でもそれ以下でもないのは自明のことだろう。にもかかわらず、いささか唐突に、実体の再現ではないとあえて書かれているのはなぜだろう。

この文章のはじまりは、さらに唐突で、「写真には写真を成立させる決定的な原因が存在するのでしょうか」という、問いかけとも、独白ともつかないものである。問われてもいないのに、例えば次のように、写真の成立について執拗に語り続ける金村は、いったい何を言おうとしているのだろうか。

「写真を成立させる特定の原因/本質は存在しないと思います。写真は全ての要素の関係において存在するのであり、実体的に独立した一つ一つの要素の集合で成り立つのではなく、ただその関係においてのみ成立するのであり、諸要素は関係においてのみ諸要素として認識されるものだと思います」

写真は関係において成立する。これは、疑いようもなく正しい。なぜなら写真だろうが、人間だろうが、うんこだろうが、どんなものでも関係において成り立っているからである。それゆえ、この正しさは空虚である。なぜなら何も言っていないに等しいからだ。

写真がいかにして写真として成立するか。カルトはこれを問いかけ、作家はこれをひとりごちる。問いかけ、ひとりごち、自己憐憫にひたるカルトな作家も少なくない。しかし、おそらくはもっとも先鋭的かつ聡明な現代写真家である金村は、問いかけることも、ひとりごちることもなく、何も言っていないことを語る。空虚から紡がれるこの写真のような言葉は、言葉のように黒々とした写真に、過剰なまでの優雅な輝きをあたえている。

[BOOK REVIEW:私と写真と世界を結びつける魔法のような現実は、今どこにあるのだろうか・新倉孝雄『私の写真術』/日本カメラ2005年11月号:197]
私の写真術―コンポラ写真ってなに? (写真叢書) かつて、「コンポラ写真」と呼ばれた潮流があった。この言葉は、アメリカの「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」という展覧会がもとになっていると言われている。コンテンポラリー(Contemporary)という語が、同時代、現代といった意味であることを考えると、「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」というタイトルは、「今日の写真家たち」といった程度の意味であり、したがって、ほとんど何も言っていないようなタイトルである。じっさい例えば、現在でも使われているコンテンポラリー・アートという言葉は、近代以降から現在進行中のアートまでという、便宜的な時代の区切りを指すものであり、それ以上でも以下でもない。

しかし、ある時代の潮流であった「コンポラ写真」は、「今日の写真」という意味におさまるものではないだろう。それは、「アングラ」「リストラ」「セクハラ」といった和製英略語のように、もとの言葉と関係ないわけではないが、別の意味を担うようになった言葉なのだろう。では、「コンポラ写真」とは何なのだろうか。乱暴にひとことでまとめるなら、何でもないものを何でもなく撮った何でもない写真であるところに何かある写真である。もちろん当事者たちは、こうしたまとめ方に頷くことはないに違いない。例えば、『私の写真術―コンポラ写真って何?』のなかで新倉孝雄は、こう言っている。

“私が「コンポラ派」だとみんなに思われていたことはたしかだけど、私自身は、「コンポラ」についての知識はまったくなかったんです。…先入観や過剰な期待を抱かず、現実を素直に感じ取ることだけです”

先入観を捨て現実を見るというのは、いわゆる現象学的な方法である。現象学的な方法から生まれた「コンポラ写真」が潮流を形作ったとしても、潮流や何々派といった括りこそは先入観そのものなのだから、当事者たちがそれに属すると考えるはずはない。『私の写真術―コンポラ写真って何?』というタイトルから率直に想像すると、この本には、「コンポラ写真」の写真術が書かれているように思われるだろう。だが、じっさいにはそうではない。諸々の経験が記された文章が、ただただ、たんたんと編まれているのみである。重要なのは、〈私〉が感じ取った独特の経験であり、また経験こそが〈私〉を独特たらしめているのであり、その関係こそが写真〈術〉なのだろう。

「コンポラ写真」は、日常のありふれた事物を撮ったと言われている。しかし、それは正確ではない。私と写真と現実の関係が重要だということは、現象学がコップから世界を語れるように、「コンポラ写真」の日常もまた、ありふれているからこそ世界に通じているのである。WTC崩壊の同時多発テロに衝撃を受け、一方的に発信される映像に対して、“このときほど静止を続ける「写真」のもつ本来の記録性、力強さが再認識させられたことはない”と述べる新倉は、現在の写真表現について唐突に次のように続けている。

“いまわれわれの周りにまとわりつく写真の風潮は、家族や恋人、親しい友人たちとの関わりを身近に写しとるという、押し付けがましいプライベートな告白で、「私はこうなの」「見て、見て」と、軟弱な自己内省への戯れに埋没して、写真本来の命である表現に勘違いが交錯している”

かつて「コンポラ写真」が、何を撮っているのかわからない日常の写真と言われたことを考えると、この一節はいささか手厳しすぎるようにも思われる。いや、だからこそ手厳しいと言うべきか。だが、そんなことよりも興味深いのは、WTC崩壊という大きな出来事と、周りの写真の風潮という小さな出来事が、新倉の現実のなかでは、流れるようにひとつに結びついていることである。

「コンポラ写真」と呼ばれた同時代。それは、かつて、あった。同時代(コンテンポラリー)と呼ばれる現代は、今もある。では、私と写真と世界を結びつける魔法のような現実は、今どこにあるのだろうか。あるいは、そうした現実そのものが、「コンポラ写真」の夢だったのだろううか。

[プレビュー:写真を通して異文化に触れる絶好の機会・『ドイツ写真の現在』『アウグスト・ザンダー展』/日本カメラ2005年11月号:315]
半世紀以上前、写真は人類の共通語だと言われた時代があった。しかし、その後さまざまな国で展開されていった写真表現を見てみると、必ずしもそうとは言えないことがわかる。写真は言語と同じくらいに、それぞれの国の社会や文化を色濃く反映しているものなのである。とはいえ、写真は何がどのように写されているかが一目瞭然なので、言語よりはずっと間口が広い、異文化への入口だとも言えよう。

東京国立近代美術館で開催される『ドイツ写真の現在』は、ドイツ現代写真の巨匠ベルント&ヒラ・ベッヒャー、彼らのもとで学んだベッヒャー派と呼ばれるアンドレアス・グルスキー、独学で写真を学んだミヒャエル・シュミット、デジタル加工によって作品を制作するハイディ・シュペッカー、ロレッタ・ルックスなどベッヒャー派以降の若手、ロンドンに移住しユースカルチャーの寵児となったヴォルフガング・ティルマンスなど、写真表現で多彩な展開を繰り広げる10人の現代作家を紹介する企画展。日本で紹介される海外の写真表現は、アメリカのものか、アメリカを経由したものである場合が多いが、ドイツはアメリカと同じくらいに、独自の写真表現が脈々と育まれてきた国。感覚的になじみのあるアメリカ写真とは違った、現代ドイツ写真のオリジナル作品に接することができるこの展覧会は、写真を通して異文化に触れる絶好の機会になるだろう。

同時開催される『アウグスト・ザンダー展』も、要注目だ。ザンダーは、あらゆる階層や職業の人々の肖像写真によってワイマール時代のドイツ社会を描き出す、“二十世紀の人間たち”という壮大なプロジェクトを構想したことで知られる写真家。けっきょくこのプロジェクトは未完に終わったが、構想の見取り図として1929年に出版された写真集『時代の顔』は、戦後のドイツ写真にも大きな影響を与えることになった。写真集に収載された六十点の写真が展示される今回の展覧会では、ザンダーの冷徹なまなざしによる肖像写真のなかに、ドイツ写真独特の硬質な客観性の源流を感じ取ることができるはずだ。

百聞は一見にしかず。近代・現代ドイツ写真の違和感をじかに受け止めることは、社会や文化の多様さを体感することにつながるに違いない。『ドイツ写真の現在』と『アウグスト・ザンダー展』は、芸術の秋に、ぜひおすすめしたい展覧会だ。

[写真の技法 序説/photographers' gallery press no.3 2004年4月刊:150-153]
0.
――私たちを捉えている問題の困難さはみな、知覚をちょうど、事物を写真にとった景観のように思うところからきている。すなわちそれは、知覚器官という特殊な装置によって、一定の地点から撮影されたのち、脳髄の中で、何か不思議な化学的、心理的な仕上げの過程をへて現像されるのだろう、というわけだ。しかしかりに写真があるとしたら、写真は事物の内部で、空間のあらゆる点に向けてすでに撮影され、すでに現像されていることを、どうしてみとめないわけにいくであろうか。――アンリ・ベルクソン『物質と記憶』
1.
エドワード・ウェストンは、自己の表現観を次のように述べている。
私はいっさい先入観をもたずに始める
発見に興奮し、焦点を合わせる
するとレンズを通して再発見できる
最終的な像の形がすりガラスに写り、
露出まえに、仕上がりプリントの
あらゆる細部の質感、動き、調和に至るまで
予見できる。
自動的にシャッターが降り、
ついに私の構想が定着する
後から修正する余地はない
結局のところ、プリントは私がカメラを通して見たり感じたりしたもの、
そのすべてを複写したものなのだ。
ピクトリアリズムからストレート・フォトグラフィーへの転回を体現したウェストンが述べたこのマニフェストとも言える文章には、いささか不可解な構図が孕まれているようにみえる。
「シャッターが降り、後から修正する余地はない」という点において、主張されているのは、まぎれもなくストレート・フォトグラフィーの構図そのものだろう。けれども、この文章において実際に強調されているのは、「シャッターが降り」ることではなく、「予見」なのである。つまり、ここからこの文章を読み取るならば、ウェストンにとって写真を撮ることとは、「後から修正する余地はない」営為であるのはもちろんのこと、「シャッターが降り」ることすらも、さほど重要ではない、「予見」を「定着」する営為であることになるだろう。
ウェストンの写真は、即物的な表現であると語られることが多い。しかし、この文章を読む限り、彼の表現は、即物的であるどころか、極度に観念的な表現だと言うべきであろう。なにしろ、「プリント」は「予見」したものすべての「複写」だと言うのだから。もちろん、一方で写真を撮るという直截な営為を強調しつつ、他方で写真を撮るための観念を強調するこの矛盾、つまり、スーザン・ソンタグが〈写真が世界にかかわるものである(あるいはそうあるべきだが)かぎり、写真家はあまり価値がないが、それが大胆な主観性探求の道具であるかぎり、写真家はすべてなのである〉と言うところに典型的にみられる矛盾は、ストレート・フォトグラフィーをめぐる言説がもともと孕んでいたものでもある。しかし、ここで注目しておきたいのは、その矛盾そのものではなく、そうした矛盾をめぐることではじめて培われたであろう、ウェストンの精神性と写真を作る技術との独特な関係である。
ウェストンが、ピクトリアリズムからストレート・フォトグラフィーへと転回していったとき、彼が見出したのは、確かに、写真を作る過程で手を加えないことで得られる、写真独自の美的な何かであっただろう。しかし同時に、手を加えないことが美的な何かに結び付けられるためには、彼の精神性もまた新たに形作られなければならなかっただろう。また、こうした精神性なしに、即物的と語られる彼の写真を作る技術が規定されることも、ありえなかったであろう。この点から考えるなら、ウェストンの先の文章は、自身の表現観を述べたマニフェストであるだけでなく、こうした独特な精神性の構図を描く、写真表現の技法と呼ぶべきものではないだろうか。

2.
このような観点から、ウェストンの「予見」に、いまいちど着目してみよう。「露出まえに、仕上がりプリントの/あらゆる細部の質感、動き、調和に至るまで/予見できる。/自動的にシャッターが降り、/ついに私の構想が定着する」と、彼は述べた。この文章の不可解なところは、熟達した技術によってもたらされたようにみえる、あの即物的と語られる写真が、彼が述べるところによれば必ずしもそうではなく、いわば方法化された予見によって導き出されたものであることにある。
写真を撮り、フィルムに定着された像を、プリントに焼き付けて見る。普段、写真を撮ると言うとき、想定されているのは、こうした一連の行為であろう。ウェストンの文章の不可解さは、この一連の行為が、分節され、語られていることに由来するものでもある。一連の行為を分節して考えるとき気づくのは、撮るという営為が、まさにシャッターを降ろすということ以外の何ものでもないことである。写真を撮るという営為それ自体は、見るという営為とは何のつながりもなく、ただ単にシャッターを降ろすということ、それ以上でも以下でもない。
言い換えれば、たとえどれほど熟達した技術を持つ写真家であろうと、写真を撮るそのときに、定着された像そのものを見ることはできない。なぜなら、写真を撮るということは、シャッターを降ろし、像をフィルムに定着するということであって、像が定着されるそのとき、像が写っている面は、必ずフィルムによって覆われているからである。したがって、写真を撮るという営為が、ただ単にシャッターを降ろすことでないとするならば、写真家は何らかの意味で、写される像を予見する必要があることになるだろう。逆に言えば、ウェストンの述べるように、充分な予見が得られさえすれば、後はシャッターが自動的に降りればよいのである。
しかし、それでは、この「予見」はいったいどのようにすれば、得られるものなのだろうか。「私はいっさい先入観をもたずに始める/発見に興奮し、焦点を合わせる」と、ウェストンは言う。「先入観をもたず」に「予見」を得るとは、いったいどのような方法によって可能になるのだろうか。このいっけん相反する行為の共存については、「事象そのものへ」を符牒とする、現象学との類比によって考えるのが適切であるように思われる。 端的に言えば、現象学の方法の要点とは、日常の認識や行為の暗黙の前提を退け、対象の措定の仕方を括弧にいれて、認識や行為、対象の与えられ方の仕組みを記述し、意識に与えられている事象が、意識の相関物、その志向性の産物であることを照し出すことである。ロラン・バルトの『明るい部屋』をめぐった文章の中で、ヴィクター・バーギンは、この志向性について次のように述べている。
…現象学にとって欠くことのできない概念が、「志向性」の概念である。つまり、私にとって事物が存在するのは、(私が事物を単に受動的に「知覚」しているからではなく)偏に私が意識の中でそれを能動的に「志向」するからなのだ。精神とは、世界が像をその上に投影する単なるスクリーンではない。現象を「理解しようとする」とき、精神もまたある意味でプロジェクターとなり、その現象の上にさまざまな事物からなる一つの世界を投射しているというわけである。
これに続いてバーギンは、〈…現象学にのみ依拠する写真理論が即座に直面することになる問題とは、それが、写真とたとえば水晶球…に「映った」映像とを区別しえないという問題なのだ〉、と言う。しかし、この問題は、ウェストンにとって問題であるどころか、ストレート・フォトグラフィーへの転回によって、写真を作る過程で手を加えないことで生まれた、精神性と写真を作る技術の隔たりに、写真独自の美的な何かを見出す絶好の方法となることだろう。写真とすりガラスに映った像を区別しえないこと、まさにそのことによってのみ、「プリントは私がカメラを通して見たり感じたりしたもの、/そのすべてを複写したもの」に、なりうるのだから。「先入観をもたず」に「予見」を得ること、それは志向性によって、写真とすりガラスに映った像を混同する、ないしは等価とみなすことによって形作られた方法に他なるまい。

3.
ところで、ロラン・バルトは、『明るい部屋』で次のように述べている。
絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定がある。そしてこのような制約はただ「写真」にとってしか存在しないのだから、これを還元することによって、「写真」の本質そのもの、「写真」のノエマと見なされなければならない。私がある一枚の写真を通して志向するもの…、それは「芸術」でも「コミュニケーション」でもなく、「指向作用」であって、これが「写真」の基礎となる秩序なのである。 それゆえ、「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。
写真の本質を、事物がかつてそこにあった、という指向作用に見出すバルトは、続けて次のように述べる。〈普通は事物の存在を確認したのち、それが《真実である》と言うはずであるから、私の場合は逆説的な順序に従ったということになるが、私はある新しい経験、強度というものの経験の結果、映像の真実性から、その映像の起源にあるものの現実性を引き出したのだ。私は独特な感動のうちに真実と現実とを融合させたのであって、いまや私は、そこにこそ「写真」の本性――精髄があるとしたのである〉。
バルトの言う、映像の真実性から、その現実性を引き出すという逆説的な順序は、先入観を捨てることで得られる、つねに新しい撮るという経験の強度、すりガラスに写った像という真実、それが定着したところから遡行して引き出される現実性というウェストンの写真観と、相似的な構図を描いているように思われる。この相似において、共有されているものは何だろうか。ひとつは言うまでもなく、無時間的な映像であると言われる写真の共時的な位相で見出された真実性から、遡行して現実性が見出され、それらが融合するという、時間の捩れとその共存である。そして、もうひとつは、バーギンが〈『明るい部屋』の中でバルトが取り扱っているのは、…写真の一般的現象ではなく、むしろ想像力の「志向性」の切なる思いのほうなのである〉、と言うところにみられる意味での志向性だろう。
志向性の切なる思いのなかで見出される、真実性と、遡行して引き出される現実性において、時間は捩れそして融合する。しかし、このような過程にまつわる言説は、現象学が示唆するように、認識や行為、対象の与えられ方の仕組みの記述なのだろうか。言い換えれば、ウェストンにみられるように、写真独自の感動や経験として語られることが多いこうした言説化された過程は、単なる感動や経験の仕組みの記述にすぎないのだろうか。ウェストンの表現観を、独特な精神性の構図としての、写真表現の技法と捉えるならば、そうではなく逆に、方法化された志向性の切なる思いが形作る感動や経験の在りかにこそ、焦点が当てられてしかるべきであろう。

4.
写真を見る、と私たちは言う。写真を見るためには、写真が何らかの形で対象化されなければならないだろう。けれども、写真を見るということは、通常、写真を対象化して捉える、というよりも、写真によって対象化された何かを捉える、ないしは、写っている何かを写真として捉える、ということではないだろうか。写真を見るとき、写真と写真に写されたものを二重に対象化しているという点、そしてそうした二重の対象化が、志向性の切なる思いが切実であればあるほど鮮明に浮び上るという点で、バルトの言う〈現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定〉は、実はさほど珍しくなく実感されることに違いない。
だが、そもそも、私たちはいったいどのような営為を指して、写真を見る、と言っているのだろうか。例えば、私たちはどのような時間性の中で、いったいいつ写真を見始め、そして、見終えているのだろうか。しかし、まず、このように問いを置き換えるとき、すでに、見えるということと在るということが、混同されている恐れがあることに注意しなければならないだろう。見始め/見終えるという関係における差異は、見える/見えないという関係に基づく差異であって、存在/不在の差異とは質的に異なっている。写真を見始め、そして、見終えるというような問いの構図が形作られるためには、写真が当然のこととして存在していなければならない。つまり、見える/見えないという差異は、すでに見えなくても在るということに支えられているのである。
それでは、存在/不在の差異とは、どのような次元に属するものなのだろうか。存在/不在の差異とは、ある絶対的な差異の次元、つまり、在ると無いではなく、在るか無いかという次元の差異と言えるだろう。この在るか無いかという次元の差異が、何らかの形で在ると無いという次元の差異に移し換えられるときはじめて、見えなくても在るということが成立し、見える/見えないという差異が成り立ってくるのである。
ここで、事物がかつてそこにあったというふうに、写真から遡行して引き出される現実性とは、いかなる次元のものなのか考えてみよう。写真から引き出される、事物がかつてそこにあったということ、そこには、見えなくても在るということがありえないのだから、それはまさに、在ると無いという差異を欠いた次元、つまり、在るか無いかという次元の差異を浮び上らせるものであろう。換言すれば、《それは=かつて=あった》という写真のノエマが照し出すのは、その言葉の響きに反して、現在と過去、在ると無いという差異における現実性ではなく、存在様式以前の無時間的な現実性に他ならない。ここに何らかの時間性が生じるとすれば、それは《それは=かつて=あった》という写真のノエマにおいてではなく、写真から遡行するという点に求められるべきであろう。
こうしたことから、先入観を捨てることで得られる、つねに新しい撮るという経験の強度、すりガラスに写った像という真実、それが定着したところから遡行して引き出される現実性というウェストンの写真観を捉え返してみるならば、それが、存在様式以前の在るか無いかという次元の差異を、方法化された志向性の切なる思いにおける、遡行という時間の捩れによって、見える/見えないという差異の次元に逆説的に織り込み、感動や経験そのものを、写真の共時的な位相に見出す技法であることが、明らかになってくるだろう。この意味で、ウェストンのマニフェストは、写真行為における感動や経験の仕組みの単なる記述、あるいは、言説化された過程ではむろんなく、その言説そのものが、写真行為に感動や経験を呼び込むための、写真行為の分節の技法を示唆したものだということになる。ここからみるならば、写真は無時間的な映像であるということよりも、写真がいかに自らを存在様式以前の無時間的な現実性に関係づけるのかが、考えられなければならないということになるだろう。比喩的に言えば、写真は瞬間を捉えるではなく、瞬間なるものを作り出しているのである。

5.
しかし、存在様式以前の現実性とはどのようなものなのだろうか。存在様式以前のものであるということは、それが誰にも確かめることはできない一種の仮説であることを意味する。だとすれば、その仮説を可能にし、存在様式以前の現実性を無時間性のなかに捉えている視点がまず問われなければならないだろう。
『物質と記憶』において、〈一見して事態はすべて明白であるにもかかわらず、私は私の意識的自我から私の身体へ、ついで私の身体から他の物体へ進むというふうな主張がなぜなされるのか。事実はこれに反して、私ははじめから物質界全体に位置するのであり、やがて私の身体とよぶこの行動の中心をしだいに限定し、こうして他のすべてからこれを区別するに至るのだ〉と述べるアンリ・ベルクソンは、次のように言っている。
これらの事実のうちで第一のものは、私たちの官能が教育を必要とするということである。視覚にしても触覚にしても、その印象をはじめからすぐ限局するわけにいかない。一連の照合や帰納が必要であって、私たちはそれらを通じ、自分のいくつかの印象を少しずつ互いに統制していくわけだ。ここからしてひとは、感覚というものは本質上ひろがりをもたないもので、並置されるから延長を構成するようになるのだろうと早合点する。しかしだれの眼にも明らかなように、まさに私たちが立脚している仮説のもとでも、私たちの官能は、――たぶん事物と合致を見るためではないとしても相互に合致を見るために、――やはり教育を必要とするであろう。
〈私ははじめから物質界全体に位置する〉と主張するベルクソンにとって、意識とは、実在する物質の一部分である知覚のイマージュによって描かれた身体の行動を統制するものにほかならない。それゆえ、〈意識とは可能的行動を意味する〉。このような観点から、ウェストンの写真行為を捉え返してみるなら、それは、レンズを通して意識を投射して何かを見出すことではいささかもないだろう。先入観を持たずに直感的に発見する対象とは、外的なものではなく、予見された写真そのものである。私はすでに物質界に存在し、写真はすでに撮られている、それゆえにそれはウェストンにとって「再発見」されるべきものなのだ。ここにおける、存在様式以前の現実性とは、認識論的な過去ではなく、存在論的な過去、つまり過ぎ去った現在として空間化されたものではなく、現在とは別の次元で存在し、つねに現在という瞬間において知覚される過去である。ベルクソンは、こう言っている。
物質が過去を記憶しないとすれば、それは物質が過去をたえず反復するからであり、必然の支配下に、それぞれ先立つものと等価でそこから導出されうるような諸瞬間の系列をくりひろげるからである。このようにして、物質の過去はまぎれもなくその現在のうちにあたえられている。しかし多少とも自由に進化する存在は、刻一刻新しいものを創造する。だから、もし過去が記憶の状態でその中に沈殿しているのでないとしたら、その現在の内にその過去を読もうと努めても無駄であろう。…過去は物質によって演ぜられ、精神によって思い浮かべられるのでなくてはならぬ。
このように考えるなら、写真が自らを存在様式以前の無時間的な現実性に関係づけているようにみえるのは、それがつねに現在という瞬間において知覚されているがゆえに生じる、いわば認識論的な誤謬であるということになるだろう。そこにおいては、現実性とは無時間的なものではなく、瞬間の系列として展開される。ウェストンにとって、「複写」こそが新しい経験であり創造であったのは、それが身体を統制し限定する技法によってほかならぬこの現在に生じるイマージュだったからであろう。
だが、この即自的な技法はいささか秘術めいている。この秘術を解き明かすこと、それは自己の身体を統制し限定する技術としての写真の技法を、時間の関数から思考してみることにほかならないだろう。

引用文献
『ふたりのまなざしを通して−ウェストン、アダムス自選ポートフォリオ』/原美術館 『写真論』スーザン・ソンタグ/晶文社
『現代美術の迷路』ヴィクター・バーギン/勁草書房
『明るい部屋』ロラン・バルト/みすず書房
『物質と記憶』アンリ・ベルグソン/白水社
注:本稿は『onlimits vol.2』(1996)所収の「写真の技法」を加筆・改稿したものです。

[時代と変化を寄せ付けない新宿と森山の共鳴:森山大道『新宿』/日本カメラ2003年2月号:89]
森山大道が新宿を撮りおろした本書は、524点の写真が全て裁ち落としで収められた、600ページ、3.5センチもの厚みの写真集である。キャプションはもちろん、ノンブルも何もなしに、ブレ・ボケ・アレの森山独特の作風が延々と続く厚みと重みは圧巻だ。
写真集を捲っていると、ここに収められた写真がすべて近年撮られたらしいことに、いささか驚く。というのは、本書の写真は全体の印象として、60年代や70年代といった時代をどこかに感じさせるものなのである。
なぜそのように感じてしまうのだろうか。古めかしいデザインのポルノ映画のポスターや、古いロゴのcoca-colaの箱、何とか横丁といった類の路地、古い建築の肌理などが写されているからだろうか。それだけではないだろう。というのも、都庁などの新しいビルや、PlayStation2のロゴ、最近のファッションの人々なども写されているからである。では、森山の作風が60年代や70年代を感じさせるものだからであろうか。だとしたら、写真が時代を写すのではなく、写真が時代性そのものを作り出しているということであり、それは何とも奇妙な逆転ではないだろうか。森山は新宿について、こう述べている。
「新宿を写してきたこの二年余りの間に、ぼくはずいぶんいろんな人から、なぜ新宿なのですか? と訊かれてきた。そのつどぼくは、ときにもっともらしく、その場での思いつきで応えてきたが、結局、なんのこともなく、そこに新宿が在ったからという一言につきるのだ。そしてその新宿は、いまだにぼくの目に、大いなる場末、したたかな悪所として映って見えているからだ。東京という大都市を構成する他の幾多の街が、戦後五十年余りの時間のグラデーションをすっとばして、見る見る白く衛生無害(サニタリー)な風景となり果てているのに比して、新宿はいまだに原色の、さまざまな時間の痕跡を内包している。東京に居て、路上でカメラを持つ者にとって、これほど現代の神話に充ち充ちた"パンドラの匣"を見すごして、他に目を移すことなどは、とうていできない相談だ。」
これによれば、本書の写真が60年代や70年代を感じさせるのは、何のことはない、新宿そのものが根本的には変わっていないからということになる。とすると新宿という街は、失われた10年どころではなく、30年が失われているということになるのだろうか。
新宿は、それなりに再開発がなされ、新しいビルが立ち並び、若者も集う街であり、けっして古びてしまった街ではない。森山もまた、宇多田ヒカルのプロモーションポスターを撮り、ドキュメンタリー映画『≒森山大道』が作られるといった出来事に象徴されるように、若い世代の熱狂的な支持を集める、現在進行形の作家でありつづけている。だが、新宿と森山の共鳴はどこか時代の変化を寄せつけず、同じイメージの反復を現在のものとして展開し続けている。森山は新宿を「ラビリンス」とも言っているが、同じイメージが時間を超えて常に現在へと回帰している森山と新宿の関係もまたラビリンスである。
1972年の衝撃的なタイトルの写真集、『写真よさようなら』について、森山はこう言っている。「この本を作ったころのぼくは、自分の写真もふくめて、全ての写真に対して懐疑的になっていた。…写真の解体・写真の無化・などという言葉がしきりに脳のなかに去来し、写真を一度、果ての果てまで連れていってしまいたいという衝動にかられていた。つまり、従来の、美意識・意味といった、疑うことのない一定の世界観によって成立していた写真との訣別!というわけであった。」
これを森山は、「矛盾や短絡だらけだったにせよ、いかに過剰であったことよ」と振り返っているが、じっさい森山は、写真に別れを告げることで、例えば"新しい写真"といったアバンギャルドの痕跡を残した価値観から無縁の位置を見出し、写真を解体・無化して、果ての果てまで連れていってしまったのではないだろうか。その体現としてこの写真集があるのだとすれば、全ての疑問は氷解するように思われるのである。

[さらに研ぎ澄まされるパーソナルな探究という写真行為:奈良原一高『Ikko Narahara』『HEAVEN[天]』/日本カメラ2003年3月号:97]
奈良原一高は、日本の戦後の写真表現を代表する作家であると同時に、おそらくもっとも多彩な作風で作品を展開し続けてきたひとりであろう。それゆえ、奈良原の仕事の全体像は、代表作と呼ばれる作品に容易に収まることがなく、さまざまな作品を見れば見るほど、その多彩なアプローチに幻惑されるような印象すらあるのではないだろうか。
『Ikko Narahara』は、昨年末から今年2月まで、パリのヨーロッパ写真美術館で開かれた、奈良原のはじめての回顧展に合わせて出版された写真集である。本書には、初期の「人間の土地」「王国」から、「静止した時間」「消滅した時間」「ヴェネツィアの夜」、近作の「Double Vision-Paris」といった作品までが編まれているが、こうして一冊の写真集として奈良原の展開を見てみると、そのような印象とは逆に、不思議なほど統一感があることに驚かされる。
その理由のひとつは、本書がフランスで編まれたことにあるだろう。日本での文脈にしばられずに編集されていることに加えて、単純に日本語版でないことによって、見る側も従来の文脈から少し離れて見ることができるようになる。たとえば、日本で撮られた写真、海外で撮られた写真といった区別も希薄になり、その分、奈良原独自の眼差しが浮かび上がってきているように思われるのである。
しかし、それだけなら、他の日本人作家の海外版写真集にもあてはまる、ごく当たり前のことにすぎない。作品の展開にかくも一貫した眼差しが感じられるのは、そのような外的な理由だけではなく、そもそも奈良原の仕事が、そうした文脈や国境を超えているような、独特の思考によって作られているからではないだろうか。
奈良原は初期に自らの写真表現の方法を「パーソナル・ドキュメント」と呼び、次のように語っている。「人間生活と云う具体から抽象した主観が再びこの土地の具体的な人間生活の現実に投じられた場合でもドキュメントとしての意味が影を消すはずがありません。ドキュメントから出発してドキュメントに帰ってゆくのが写真の世界でもあるのだと私は思っています。だが対象への攻めの姿勢いかんによってアクチュアル・ドキュメントを生むことが出来るのではないかと思っているのです」。
この「パーソナル・ドキュメント」という表現は当時さまざまな反響を呼んだが、今日改めて奈良原の仕事とともにこの言葉を読み返してみると、そこには、一般的に写真表現で使われている「パーソナル」や「ドキュメント」という言葉の意味には収まり切れない、深い思考が含まれているように感じられる。つまり、ここでのドキュメントとは、対象をリアルに再現することではなく、対象からアクチュアリティを見出すことであり、そのパーソナルな探究こそが奈良原にとっての写真行為であったのではないだろうか。
新しい写真集『HEAVEN 天』でも奈良原は、パンテオン神殿から見える円形の空を捉えた「Seven Heavens-Roma」、東京の風景を幾何学的に構成した「Vertical Horizon-Tokyo」、二つの類似したイメージを合成した「Double Vision-Paris」という、独創的なアプローチを展開している。これらの作品もまた、巻末の「Notes」で述べられているように、病という体験などから導き出された、奈良原のパーソナルな探究にほかならないだろう。そしてここでの探究は、「僕達が知覚する外界もすべて実は僕達の肉体の中にある」という認識に到達するほどに、さらに研ぎ澄まされている。

[飯沢耕太郎編著『『写真時代』の時代!』/日本カメラ2003年4月号:106]
歴史的に物事を捉えると、あるいはこう言った方がいいかもしれないが、過去を振り返ると、あらゆる出来事は宿命的にみえる。
『写真時代』は創刊された当時から、ある種の大人たちの支持を受けていた雑誌であったように思う。「あの雑誌はスゴイ」という声を幾度か聞いた記憶がある。そうした声には、大げさに言えば、表現のシリアスな風潮に対する自家撞着的な反感と、エロに潜在する反社会性への共感、アンダーグラウンド・カルチュアに対するほのかな憧れと、けっしてメインストリームにはなりえないものを肯定する安心感が入りまじった、アンビバレンスでナイーヴな感受性が見え隠れしていたようでもあった。
そのような感受性を声として聞いてしまうことは、どこか気恥ずかしい。今日で言えば、コンピュータやテレビゲーム、携帯といったメディアの可能性を、頬を赤らめて語る中年男を見てしまったような気まずさがある。というのも、メディアの新たな可能性は、ほとんどの場合、それを語る者ではなく、作り出したり活用する者によって切り開かれるものであり、メディアの可能性がそのように語られる時には、そのメディアの新しさはたいたい終わっているからだ。
このように考えてみると、『写真時代』という雑誌の画期的だったところは、創刊した時にすでに“終わっていた”ということではないだろうか。つまり、今日宿命のように伝説的と呼ぶべきものにみえる『写真時代』は、そもそも創刊時から伝説的な雑誌として作られていたのではないだろうか。むろん、そんなふうに宿命を先取りすることは不可能である。だが、ナイーヴな感受性が、『写真時代』を伝説たらしめる時代を作り出す歴史的な宿命を負っていたと考えるのは、あながち不可能ではないとも思われるのである。

[場所なき場所にシフトする写真の現代:佐内正史『俺の車』・ホンマタカシ『東京の子供』/日本カメラ2002年4月号:166]
写真表現が、私的、パーソナル、プライヴェートといった言葉で形容されるようになって久しい。かつては社会的な文脈と対照的に用いられていたであろうそれらの言葉も、半世紀弱の時を経て、現在では自明性を獲得していると言っていいだろう。
『生きている』『わからない』といった写真集で注目されてきた佐内正史の新刊『俺の車』は、まさにそうした自明性を感じさせる一冊だ。ごく単純に言って、自分の愛車を撮った写真が、単刀直入に『俺の車』というタイトルで写真集になるということ自体が、以前には考えられなかったことだろう。収められている写真も、お気に入りのアルバムを感じさせるもので、この写真の身近さは、現代の写真表現を超えて、遠くラルティーグまで遡らないと例えるものがないのではないだろうか。
『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』などで知られるホンマタカシの新刊『東京の子供』も、別の意味で、現代の写真表現を超えた、とりとめのなさが感じられる写真集である。写されている子供たちは、みな無表情で、不気味ですらある。というより、ここでの子供たちの表情は、これまでの写真の文脈からは読みとることができないものであると言った方が正確かもしれない。それゆえ、この不気味さは、現代の写真表現の修辞法から逸脱した写真と子供の不気味さでもあるだろう。
かつてコンテンポラリーという言葉がみずみずしかった頃、つまり、現代の写真が社会的な文脈と対照的に自律性を獲得しようとしていた頃、日常的であることは、自律性を演出するのに不可欠な自己言及であり、したがって、私的であることが独特な価値たりえた。しかし、いわばポスト・コンテンポラリーな写真にとっては、そうしたことは自明のことに過ぎない。それよりも、ポスト・コンテンポラリーという言葉が、あり得ないものを名指した冗談のような響きがあるように、同時代を超える同時代ということが冗談めいた自家撞着を含み込んでしまうことをいかに演出しうるのか、そうした場所なき場所に写真の現代はシフトしているように思われる。

[自主運営ギャラリーによる外部へのゲートウェイ:『photographers' gallery press no.1』/日本カメラ2002年8月号:170]
『photographers' gallery press no.1』は、東京・新宿に昨年オープンしたphotographers' galleryの活動とともに、写真表現の現在を編んだ一冊である。展覧会記録や、webでの活動の記録だけでなく、現代写真をめぐる座談会やシンポジウム、2001年の年譜なども収録されており、昨年の写真表現をめぐる状況を、ある程度見渡すことができるものになっている。
photographers' galleryは、メンバーによって運営されている。このような形態は、いわゆる自主運営ギャラリーとして、写真表現では断続的に試みられてきたものでもある。その背景には、かつては写真を展示する場がほとんどなかったことや、写真に関心を持つ者が集う適切な場がなかったことなど、日本の現代写真独特の事情があるだろう。と同時に、今日から振り返れば、自主運営ギャラリーは、現在の写真表現を担う人材を多く輩出してきた場でもある。つまり、ある意味で自主運営ギャラリーは、今や現代写真の歴史の一部になっていると言っていいだろう。
しかしながら、そうした自主運営ギャラリーの活動は、これまで充分に言葉や情報として外部に伝えられ、開かれてきたわけではない。言い換えれば、その時代を経験した者しか知りえない活動として、いわば伝説化される傾向があったことは否めないだろう。その時代時代の事情もあるにせよ、既存の制度に満足できずに作られたはずの自主運営ギャラリーが、その後いくらでも情報化できる機会を得ながらも、経験の口承伝聞に自らの活動を封じ込めるという、もっとも典型的な神話化へと展開していったことは不可解としか言いようがない。場がないから自分たちで作ったはずの自主運営ギャラリーが、理解されなくても構わないという、いっけん潔い認識を常套句にしながら、いつの間にか、自分たちだけはわかっている、ほんとうにわかっているのは自分たちだけ、といった自己憐憫まじりのスノビズムを生んだ場でもあったとは想いたくないが、しばしば見うけられる、今や自らが制度を担うようになりながらも、自分だけは制度から免れていると思いこむ未開の思考の光景は、そういった反転したスノビズムが現在の写真表現の無意識にまで浸透していると考えるのでなければ、理解し難いものでもある。
photographers' galleryに、従来の自主運営ギャラリーとは違った展開が感じられるのは、そうした無意識的な陥穽に対して自覚的であり、それがつねに外部に対して自らの活動を開いていこうとするプロデュースにつながっているところではないだろうか。外部に自らを開くというのは、いっけん容易にみえる。例えばwebというメディアは、建前としては万人に開かれている。しかし、それが内部に対しても開かれていればいるほど、外部に対しての閉域になるだろう。現在では日常ですらあるwebというメディアに、過敏に反応してナイーヴな閉域を作ってしまっている例は、写真では枚挙に暇がない程ですらある。photographers' galleryの端正な白いギャラリー・スペースや、必要な情報に適切にアクセスできるサイト(http://www.pg-web.net/)は、そのような閉域に陥ることを避けつつ、内部に対して親和的ではないかもしれないが、外部に対する明瞭なゲートウェイを形作っているように思われるのである。
そうした活動の集成であると同時に、photographers' galleryがギャラリー、サイトに続く第三のメディアとして送り出した『photographers' gallery press no.1』は、見ていてスリリングな本であることはもちろんだが、1480円で外部からアクセスできるゲートウェイとしても魅力的である。

[見る者を誘惑する「写真的と言うほかないような何か」:金村修『SPIDER'S STRATEGY』『Happiness is a Red before Exploding』/日本カメラ2001年4月号:194]
ここにある金村修による二冊の写真集は、途方もなく寡黙である。写真のキャプションもほとんどなく、作者による言葉もどこにもない。
にもかかわらず、あるいはそれ故に、これらの写真集は見る者を雄弁に誘惑している。それは、収められた一枚一枚の写真が魅力的だからだろうか。それだけではないだろう。画面の中に都市の光景が濃密に構築された写真は、たしかに遠景と近景が圧縮され一枚の平面の中で展開されるという、方法論的な効果が存分に発揮されたものではあるが、逆に言えば、すべての写真がその効果によって埋めつくされているこれらの写真集は、むしろ単調ですらあるからだ。では、一枚一枚の写真に写されている記録や記憶といった差異に見る者は引き込まれるのだろうか。そうではないだろう。というのも、そういった写されたものと場所との関連は、何の注釈もないことによって剥ぎ取られ、さらに、写真集そのものには、『SPIDER'S STRATEGY』『Happiness is a Red before Exploding』といった、写されたものと直接には何の関係もないタイトルがつけられることによって切断されているからである。
するとこれらの写真集の何に、見る者は誘惑されるのだろうか。端的に言えばそれは、写真的と言うほかないような何かにほかならないだろう。もちろん、これは答えになっていない答えである。なぜなら、写真的と言うほかないような何かとは何かという問いが、ここに続いてすぐさま浮かび上がってくるからだ。しかしそれは同時に、答えのすべてでもある。何かを写真的と言うほかないのなら、そこに付け加えるべきものは何もないからである。この、問いを雄弁に発しつつ、同時に問いを沈黙の中に封じ込めるような空間の中でこそ、金村の写真は見る者を誘惑する力を生じさせているのではないだろうか。
いっけん、この空間を写真の自律性と呼んでもいいように思われる。例えば、これらの写真を、美術の抽象表現主義における平面の自律性になぞらえて捉えることもできるだろう。だが、浮かび上がっては自らを消去していく、写真的と言うほかないような何かは、それにとどまらない空間を展開しているようでもある。
つまるところ、ある意味で、写真と言うほかないような何かを言い当てることはさほど難しくはない。写真と言うほかないのだから、それは写真なのだ。写真は写真であるという、しごく自明でありながら、あるいはそれ故に深遠で原理的な空間にこそ、見る者は誘惑される。写真は写真であることを、誰も問うことができない。なぜなら、それを問うことは、写真は写真であることをすでに前提にしているのだから。こうして、問いが浮かび上がると同時に掻き消されるような暴力的で寡黙な空間の中に、見る者はいわば自発的に誘惑されていくことになる。
しかしながら、この写真は写真であるという空間は、あらゆる原理がそうであるように、外部から見ればある種の物語でもある。写真は、と、写真である、の間に、日本の、都市の、そして作者の、といった外部から入り込むコードは、写真が写真であるという空間が、すでに物語であることを浮き彫りにする。これを回避するためには、写真のキャプションや作者による言葉といったものにとどまらず、あらゆるコードが消去され続けられなければならない。さもなければ、この原理の中で見出されていたものや現実は、すぐさまファンタジーやフィクションに転化していくだろうから。
この無限の消去とは、果たして可能なのだろうか。それが可能か不可能かは知る由もないが、ふだん無意味に発せられている写真の可能性なるものが、この二冊の写真集によって真摯に照らし出されていることだけは確かだろう。