藤堂俊輔 blog ネタ袋

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おお

大和田良さんにお話を伺って参りました。

〜写真との出会い〜

フク:「大和田さんはここ数年急激にカメラ業界の雑誌やセミナーなどに登場されている、今一番勢いのある写真家といっても過言ではありません。その活動は広告や雑誌の撮影から展覧会活動までかなり広く行われています。まずは、そんな大和田さんが写真をはじめた当初について伺いたいと思います。出身は宮城県とのことですが・・・。」

Or1大和田さん:「写真は東京工芸大学に行くようになってから始めました。高校の頃までは仙台でバンドでの音楽活動を中心に生活をしていました。」

フク:「どんな音楽をやってらしたのですか?」

大和田さん:「パンク系のバンドでした。僕のパートはドラムで、ライブをやるのが主でした。ですので、写真を撮るといってもライブの時に使い捨てカメラでちょっと撮る程度でしたね。」

フク:「高校を卒業してからも音楽をやっていこうとは思わなかったのでしょうか?」

大和田さん:「高校卒業後には漠然と東京に行き、クリエイティブな仕事をしたいと思っていたのですが、バンドの場合はメンバーをもう一度探すところからはじめないといけません。仙台のバンドもようやく形になってきたところだったのですが、これを東京に行ってもう一度やるのはちょっと厳しいなと思ったのです。ですので、他の形でものを創る分野にと思いました。それに映画だったり写真だったりをあえてやろうと思って東京に出てくる人たちって、きっと本気で何かしらをしようと思っている人たちで、当然面白い奴が多いだろうと思ったわけです。そういう人達の中でクリエイティブなことをやりたいと思っていました。」

フク:「それが写真だったわけですか?」

大和田さん:「映画やグラフィックデザインなど他の学科の試験も受けたのですが、受かったのが写真学科だったのです。」

フク:「はじめはたまたまそこに入ったという形だったのですね。写真学科に入学されてすぐ写真へ興味を持つことはできたのですか?」

大和田さん:「それはないですね。入学当初から暗室でプリントするのは好きでしたが、写真を撮ることには興味を持つことはできませんでした。ですから人のネガを借りてプリントし、それを課題として提出するなんてこともしていました。写真を撮るということへの興味といいますか、自分で撮る必要があると思ったのは大学の3年生くらいの時からだと思います。それは結局自分の思う写真のトーンや手触りを印画紙上で表現するには、暗室作業だけではなく、ネガづくりの段階からやらないといけないと思ったからです。そんなこともあって、大学の3年生くらいから積極的にカメラを持って撮影にも行くようになりました。」

フク:「当時はどのような写真を撮っていたのでしょう?」

大和田さん:「トーンを表現できるものということで、地層だったり地面だったり、岩といいったものを主に撮っていました。プリントにした時の描写と調子が作品の主なポイントでしたので、被写体と光の条件が揃っていれば沢山撮る必要もありません。ですから使うカメラも当然小型化されたものは必要なく、大判がメインでした。近くの山まで車で行って、ちょっと登って4×5カメラをセットして撮影するという感じでした。途中からは中判カメラ・・・カメラとして格好よかったハッセルブラッドやペンタックス6×7を使っていたかな・・・。」

フク:「大和田さんの写真への関心は、まずプリントの調子再現だったのですね。」

大和田さん:「そうですね。アートや表現といった方への興味ではなく、クラフト的な興味の方が大きかったといっていいかもしれません。」

〜写真の研究〜

フク:「デジタルカメラを使いはじめたのはいつ頃なのですか?」

大和田さん:「大学在学中にはデジタルカメラ、インクジェットなどのプリンターが出始めていましたので、デジタル機材を使うことへの関心は早くからありました。最新の技術を常に使っていきたい・・・これも先ほど申し上げたクラフト的な関心といっていいと思います。大学を卒業し、大学院へ進学した時にはデジタルの研究がテーマでした。」

フク:「それはどのようなことをしていたのでしょう?」

大和田さん:「ネガからデジタルデータを作り出してプリントするワークフローだったり、デジタルカメラと、当時は色々あったプリンターを使ってどのような結果になるのかといった検証です。普通の写真もプリントするのですが、グレースケールのようなものをプリントアウトしまして、それをセンシトメトリーなどの方法を使い、特性曲線をつくっていくのです。そうしますと、このプリンターを使うと中間調あたりが特性としていいとか、シャドウが出るとか、色としてはこのあたりが綺麗に表現できるなどが分かるわけです。」

フク:「それは2000年くらいの時期だと思いますが、当時のインクジェットのプリント技術は今よりも低かったと思います。研究の中でどのようなことを思いましたか?」

Or2大和田さん:「出る・出ないという次元ではないですね。シアン・マゼンタ・イエロー・ブラックの4色でどうやって出すの?という物でした。ですから当時のインクジェットプリントは今より少し特殊な物で、綺麗な写真を出す道具ではないというか・・・基本的にはピクトログラフィーなどの熱転写であったり、フォトキレートのような昇華型を使うことが多かったですね。当時はデジタルのプリント全体が綺麗ではなかったんですね。だから結局マッチングを研究しつつも、自分のやってきたモノクロやカラー写真を思い返すと、なんでわざわざ意味の分からないプリントを作らないといけないのかという思いの方が強くなっていきました。デジタルは当時どんどん進化してきていて、年ごとにプリンターが生まれ変わっていき、インクの数も増えたり、吐出するインクの粒のサイズも小さくなっていったりしていました。ですが、どう推測しても2・3年では僕の納得するプリントはできないだろうと思いまして、ではそうした時に自分は何で制作するかと考え、オルタナティブといいますか、デジタルを絡ませる方法で作りはじめたということになります。一度フィルムをスキャンしてデータ化し、そこで焼き込みなり合成なりの処理をし、それを再度コダックのトライXなどのフィルムにレコードし、それを従来の銀塩の印画紙にプリントするという方法で作品を作っていました。」

フク:「デジタルネガという方法ですか?」

大和田さん:「当時まだそのような名称はありませんでしたが、それに近いですね。」

フク:「ということは、もしかしたら当時このような手法で作品をつくっていたのは大和田さんが最初だったかもしれないということでしょうか?」

大和田さん:「いや。デジタルをネガにしたり、ポジにして入稿するという方法は当時もありましたから、はじめてというわけではないと思います。個人でそのプロセスをすべてやっているというのは少なかったかもしれないですけどね。大学にいたので機材が周りにあったということが大きかったです。結局8×10のネガに起こすわけですが、それをプラチナだったりとかサイアノといった直接プリントできない印画紙にプリントしたり、あとは8×10の引き伸ばし機にかけて銀塩印画紙にプリントしたり・・・いろんな方法をやっていました。今はインクジェットでネガを作ることができますけど、それは基本的には引き延ばせないですね。僕の作っていた8×10のネガはミリ80線程のものすごく細かいデータで出しますので、2倍か3倍くらいまでは引き延ばしてもぎりぎり耐えられましたけど、インクジェットのネガで引き延ばすとインクの粒子が出てきたり、ぼやっとしてしまいますので、最終的な出力のサイズのネガを作ることが必要になってきます。こうした研究を大学院でやっていました。」

フク:「先ほどクラフト的という言葉がでましたが、むしろ科学の実験のような感じで写真と向き合われていたのですね。」

大和田さん:「自分の思い通りの調子再現という興味は一環していましたね。」

〜作品制作は実験と考察〜

フク:「大学にいらした頃は、作品は発表したりコンペに出したりはしなかったのですか?」

Or3
大和田さん:「大学の後半、カラーで撮ったりデジタルを使いはじめた頃まではコンペなどには一切出していなかったですね。やっていることが渋すぎるということが自分でも分かっていましたので、認められるとも思えなかったし、自分が満足すればいいと思っていました。表現とか写真芸術ということを考えると、特にそのころ・・・1990年代の一番最後の頃は、いわゆるガーリーフォト、蜷川実花さんやHIROMIXさんが全盛期のにぎやかな写真が多かった時期です。その時に階調の豊かなモノクロ表現ってことをやっていましたので、自分が進んでいる方向がそちらではないということが当時分かっていたというか・・・。コンペなどに挑戦するようになったのはもう少し経ってからですね。」

フク:「卒業されてからはすぐに写真家としてフリーになったのですか?」

大和田さん:「大学の当時からデザイン会社というか編集プロダクションのような会社を手伝っていたのですが、そこに卒業後は就職しまして、デザインとか編集とかカメラマンだったりとかその時々に応じていろんな仕事をしていました。基本的には雑誌の仕事でした。フリーになっていくきっかけは2005年に2ヶ月の休みをもらってスイスでアートとしての写真の勉強をした頃だと思います。そこでスイスエリゼ美術館による「reGeneration.50 Photographers of Tomorrow」という企画で50人の写真作家の中に選ばれまして・・・。」

フク:「なるほど。これがフリーになるきっかけなんですね。」

大和田さん:「帰国後も1・2年は勤めていましたが、フリーになるための準備をしだした感じですね。ブックを持ってアートディレクターだったりデザイナーのところに見てもらいに行くような、いわゆる営業をやっていました。フリーになったのは2006年頃。現在は8年目くらいです。」

フク:「コンペと呼んでいいでしょうか?そのreGeneration.50 Photographers of Tomorrowに選ばれたことによって大和田さんにどのような変化がありましたか?」

大和田さん:「そうですね・・・少しいろいろなところで写真を発表しやすくはなったんじゃないかなって思います。単純に発表できる場が増えましたし、話を聞いてくれるところも多くなったように思います。」

フク:「現在の大和田さんのお仕事は写真業界での雑誌やセミナーといった活動の他にどのようなものが多いのでしょう?」

大和田さん:「仕事としては広告やCDジャケット、雑誌の撮影など、比較的カルチャーよりの仕事もやっています。仕事に携わっている時間ということで考えますと、雑誌等の原稿の執筆などが多いですね。他にも現在は日本写真学院や東京工芸大学で講義を持ったりしています。」

フク:「学校ではどのようなことを教えてらっしゃるのですか?」

大和田さん:「大判カメラの使い方だったり、光の読み方だったりといったいわゆる写真の基礎的な分野です。」

フク:「作品制作以外にもかなり幅の広い活動ですね。今後のビジョンといいますか、挑戦してみたいことはなんでしょう?」

Or4
大和田さん:「一言で言いますと作品制作を続けることです。僕の作品制作というのは「研究」と「考察」の繰り返しになります。それは特にプリントをつくるという研究についてですが、プリントしながら考察し、その考察を基にまたプリントをするという繰り返しです。こうした作業の中で出来上がってくる写真が僕の作品になっていきます。技法を取り入れたワークフローを確立するところからはじまって、そのプリントを前にして考え、そこで何を見せることができるかを見つける・・・今は色々試してみたいことがあります。ここでは細かいことはいいませんが、古典技法、デジタルの研究と両方面についてです。こうした作業にもう少し時間を費やして新しい作品をつくっていきたいと思っています。」

フク:「大和田さんにとってのプリントは考えるための道具といってもいいのかもしれません。その最終地点は当たり前ですけどプリントになるわけですね。」

大和田さん:「そうです。少なくとも写真集ではない部分が大きい。結局写真展という発表形態が一番あっているなと思っています。」

フク:「最後に、2014年3月開催のmeet up!にレビュアーとして参加してくださることになっていますが、参加する方にアドバイスをいただけますでしょうか?」

大和田さん:「いろいろな作品と出会うことができる機会に呼んでもらえて楽しみにしています。これはmeet up!に限ったことではないですが、作品をブックなどにまとめる場合、誰に見せるのかを明確にして制作するといいと思います。例えばギャラリストに見せるポートフォリオなのに広告のコンペのようなブックを持って行っても仕方ないですよね。その都度自分の作風を変えろとかではなく、自分の作品を場に合わせて見せ方を変えていくという工夫が必要だと思います。」

フォトグラファーズレポート第5弾は街角写真家の佐々木啓太さん。私自身、休日は街角をぶらり散策しながらパチりと撮る事があるので、佐々木さんのお話はとても勉強になり、撮影に臨むスタイルがとても参考になりました。

1969年 兵庫県生まれ
1998年 日本写真芸術専門学校卒業
貸スタジオ勤務、写真家のアシスタントを経て独立。現在はデジタル作品を中心に活動中。 

ー街角の写真は街の中でまとめるー

けんたむ:「ご自身が撮影される写真を「街角写真」と呼んで作家活動をされていますね」

佐々木さん:「そうですね。自分の行ってみたい場所に出かけて、そこでスナップした作品が多いので、そう呼んでみています。でも実は撮影する場所は都内近郊が多いんです。最近はお台場や横浜といった湾岸エリアをよく撮りに行っています」

▲お台場に夕陽が沈んでいく写真です。画面では分かりづらいですが、暗部が絶妙なトーンを残して街角の雰囲気を克明に映し出しています。

けんたむ:「街の中を撮るといってもたくさんの手法だったりテーマがあると思いますが、佐々木さんはどういった街角なんでしょうか?」

3佐々木さん:「街は私たちが仕事をしたり食事をしたりといった生活の舞台になっている場所ですが、改めて見てみると普段は見落としていたり、見慣れすぎて意識にも引っかからないでいるものって多いですよね?これはたぶん誰にも共通していることだと思います。僕の撮る街角は、見慣れた景色の中から「あれ?こんなものがここにあったんだっけ」とか「見慣れているものなんだけどなにか別の物のように見えてくる」といったものを見つけてきて写真で表現しようというものです」

ー作品の表現方法ー

けんたむ:「確かに普段見慣れている光景でも、そこに「何か」が存在するにも関わらず、通り過ぎてしまうことはよくあることかもしれません。表現方法ですが、銀塩の時と変わってきたこととかありますか?」

佐々木さん:「現在はデジタルでカラー作品を撮ることが主ですが、以前モノクロでやっていた時からこの作品スタンスは変わってませんね。僕の写真は色があっても無くても、見せたいものだったり伝えたいものはあまり変わりませんから。僕が追っているものって「光を撮る」ってことなので、それが自分の納得いく形でプリントとして完成すればいいかなと思っています」

▲時折撮影に訪れるという井の頭公園で取材させていただきました。ふとした情景を見逃さないよう、周囲に視線を注ぎます。
けんたむ:「現在はPX−5500をお使いのようですね?」

佐々木さん:「そうです。買ったのはちょうど3年くらい前かな。デジタルを本格的にはじめだした頃、デジタルでもちゃんとしたプリントを作りたいなと考えるようになったんです。そこで出会ったのがPX−5500でした。写真ってプリントにしてはじめて作品になると思うんですけど、このプリンタでようやくデジタルの作品が出来るようになったって実感しましたね」

▲PX−5500でプリントされた井の頭公園の作品。作品はポートフォリオにまとめておられます。

けんたむ:「作品づくりの用紙は何か決めているものがあるんですか?」

佐々木さん:「ドイツのメーカー、ハーネミューレ社の「フォトラグ・サテン」をメインに使っています。ちょっと蝋(ろう)引きしているような風合いと、立体感が出る感じが気に入ってます。プロファイルは自分で作って、用紙設定はウルトラスムースにしてます」

ーデジタルのモノクロプリントについてー

けんたむ:「モノクロの作品をデジタルでプリントをするということはされているんですか?」

6佐々木さん:「それはやっていませんね。モノクロに関しては、個人的にはデジタルよりフィルムの方がいいと思ってる部分がまだあるんです。それは、僕がモノクロ写真で好きな「黒の中の黒」と「締まり」、そしてそこからグレーに移る階調を表現するのはまだデジタルではなくてフィルムの方がしっくりくると思っているからです。ですがこれは決して劣ってるということを言っているのではありません」

けんたむ:「フォローありがとうございます(笑)」

佐々木さん:「デジタルとフィルムのモノクロ写真は絶対に違うものだと考えているのですが、デジタルのモノクロ写真の場合、まだ僕が見出せる美しさの立脚点がまだ確立されてないというのもあります。スキル的に不足している部分も当然あると思います。ですから今はカラーだけで作品を作って、モノクロはフィルムという風に分けて考えています」

いたみ2

今回のフォトグラファーズレポートは、以前のギャラリーチームのエントリーでも2月のepSITEでの写真展開催でご紹介した伊丹豪さんです。

伊丹豪さんは現在日本で最も勢いのある写真作家のひとりと言っていいのではないでしょうか。その活動は国内はもとより海外でも評価され、2014年も展覧会や本の出版と予定が目白押しです。今回は乗りに乗っている作家伊丹さんに、現在にいたる道のりと今後についてお話を伺って参りました。

〜50人に支えてもらった〜

フク:「それこそ、ここ2〜3年で伊丹さんの名前は急激に拡散しているように思いますが、このような状況になったのは何がきっかけだったのでしょう?」

Ig2伊丹さん:「自分で本を作ったのがきっかけです。経緯はあまり覚えていないのですが、写真をやっている後輩の男の子に「とりあえず作って損はないから作りましょう」と言われて制作しました。それが「MAZIME」というシリーズの1冊目で、当時やっていた8×10のシリーズを掲載した50部限定の本でした。本に対しては、作る前は正直乗り気ではなかったのですが、出来上がってみると達成感もあり嬉しくて、これを流出させたいと思うようになりました。そこで、インディペンデントなアーティストの本を扱っている本屋に置いてもらったのですが、50部があっという間に売れてしまったのです。」

フク:「それはすごい。」

伊丹さん:「すごく嬉しかったですね。あの頃はこれからどうしたらいいか、どういった作品を作っていけばいいのか迷走していましたので、まさに救いの光でした。50人の買ってくれた人に支えられたといってもいいのかなと思います。これをきっかけにMAZIME2、MAZIME3と作っていきました。MAZIME3はデジタルで撮ったはじめての作品集で、これまで通り国内の流通にかけたのですが、それと同時に海外の出版社、見てほしい人、本屋、写真家・・・とにかく自分が気になった人達に向けて送っていったのです。」

フク:「海外の反応はどうでしたか?」

伊丹さん:「はじめはちょいちょいでしたが、4冊目を送ったあたりから反応が大きくなりました。3冊目を送った時には反応がなかった人達も4冊目から声をかけてきてくれたり、海外のサイトからインタビューの依頼がきたりしました。」

フク:「なるほど。やはり作家活動をするには海外の方が向いていると思いますか?」

伊丹さん:「たまたま僕が写真を送ってみたところ、海外の方の反応が速かっただけですね。だからって海外の方が写真を見る目があるとか、自分の活動に向いているとは今のところ思っていません。」

フク:「MAZIME以降はどのような展開をしたのですか?」

伊丹さん:「国内で5箇所の巡回展を1年くらいかけて行いました。これは自分で企画をして、MAZIMEを取り扱ってくれている本屋さんが併設しているギャラリーにお願いして実現しました。本をつくることで、インディーズを巻き込みながら反応を起こしていくような方法はありなんだと確信を持ちましたが、本だけでできることの限界も同時に見えてきましたので、やはり展示も必要だと思ったのです。こうすることで自分を認知してくれる人は増えました。全国を巡回しているというのが大きかったみたいですね。そうこうしているうちに徐々に国内でも色々なところから声が掛かるようになり、次の写真集「study」にもつながっていきました。」

〜今のスタイルはデジタルカメラとPX-5Vから〜

フク:「studyと言えば、同名の写真展が2月から3月にかけてepSITEとPOETIC SCAPEの2箇所で同時開催が終わったばかりですね。それぞれ展示方法が大きく異なり見応えがありました。特にepSITEでの展示は作品を天井から吊るすという今までにない方法で展開されていましたが、あのような展示はどのような経緯でたどり着いたのでしょう?」

伊丹さん:「2箇所で展覧会をさせてもらったことは本当に嬉しかったです。epSITEの展示に関しては、写真の世界だけで通用する方法ではなく、「様々なメディアの中のひとつとしての写真」という視点から面白く見せるにはどうしたらいいかを考えた結果でした。あの展示では写真は平面、物理的には紙であるということを見せようと考えました。勿論そう単純なわけではなく、その裏には色々と難しいこともあります。ただ、写真というのは光学的な操作の結果であって、シャッターを押せば目の前がひとまずはキャプチャされる、ということを言いたかったんです。ですからきちっと額に入れて飾るのではなく、横を通れば揺れ、後ろから見たら透けることを見せる必要がありました。あれはepSITEだからこそできるプレゼンテーションだったと思います。」

Igepsite
フク:「先月取材した安達ロベルトさんも、写真を様々なメディアの中のひとつとして捉えている方だと思います。伊丹さんも、安達さんのように他のメディアでも表現活動をしているのですか?」

伊丹さん:「いえ。写真だけです。僕は今まで写真を写真という枠でずっと見てきました。そもそも僕はその狭い世界に憧れてきたのです。でも昨年あたりからいろいろなデザイナーや写真家と話をする中で、写真を枠の外から考えるようになりました。」

フク:「伊丹さんの作品を拝見していて印象的なのは、徹底してタテ位置の写真、しかも撮影時にかなり絞り込んで撮るスタイルですが、この方法で一貫しているのはいつ頃からでしょう?また、何故その方法なのですか?」

伊丹さん:「現在のタテ位置と絞りができたのは、2004年にプンクトゥムというギャラリーでやった初個展「その地図を燃やせ」あたりからでした。その頃に今につながるスタイルの原型があります。タテ位置絞り込みはスタイルというよりも少し自分に制約を掛けて、その中でどう自由に動くか、という自由のための制約です。」

フク:「10年前だったんですね。」

伊丹さん:「今のように撮れるようになったのは更にしばらく経って、デジタルカメラを使い始めてからですけどね。ニコンのD3Sというカメラがそれまで撮影時に不可欠だった三脚から開放してくれ、身体的に撮れるようになり、PX-5Vが色の問題をクリアしてくれました。それ以降デジタルだけで作品づくりをしています。」

フク:「なるほど。10年間タテ位置、絞り込みを続けてこられた根底と言いますか原動力って何だったのでしょう?」

伊丹さん:「そのスタイルが面白いと思っていたのは確かですが、「絶対に負けへん」という思いです。写真を見せるとみんな好き勝手なことを言いますよね?中にはすごく悔しい思いをすることもありまして、それに対して負けたくないという決意が原動力でした。これで何とかして見返してやろうという・・・かなり負のモチベーションです(笑)。」

〜本屋の外の景色を見た時に写真の力を感じた〜

フク:「話は大きくもどりますが、伊丹さんが作家活動をするようになったきっかけは何だったのでしょう?」

Ig3伊丹さん:「そもそも写真に出会ったのは文化服装学院にいた時でした。高校を卒業して2年ほど浪人をしまして、その後入った大学も入学直後に辞めてしまいましたので、専門学校に入ったのは21歳の頃でした。当時はファッションや雑誌の文化に興味を持っていたこともあって、プレスとか雑誌の編集を養成するコースに入ったのですが、そこで週に1度写真の授業があったのです。カメラで撮ってきた写真を先生に講評してもらう、オーソドックスな写真の授業と言っていいと思います。そこではじめてカメラを買うことになりました。」

フク:「ファッションや雑誌の編集を目標としていたのに、いきなり写真と言われて違和感はありませんでしたか?」

伊丹さん:「写真に対しては当時、違和感と言うかマイナスイメージを持っていました。周りがみんなコンパクトカメラでどこもかしこも写真を撮って、撮ればおしゃれみたいな空気になっていたからでした。ただカメラという機械はなんとなく嫌いではなかったので、その時はすんなりカメラを買うことはできましたね。周りは比較的入門機的なカメラを用意する中、いきなりコンタックスの一眼レフを買って写真を撮りはじめました。」

フク:「当時のコンタックスって高級機材ですよね。」

伊丹さん:「その時は何も分からず、周りと違う物というだけで買いました(笑)。そして写真の授業の初めての講評で、撮ってきた写真をスライドでみんなの前で見せていく時に、先生に「あなた写真やっていたの?」と言われまして、そこで「あ、これなんや」って思い込んだのです。写真をやっていこうと思ったきっかけはここです。」

フク:「そこから作家活動にいきなりのめり込んだのですか?」

伊丹さん:「いえ。そこからしばらくはファッション写真のまねごとを撮っていました。しかし少し撮り続けているうちに、撮影の度にモデル、スタイリスト、ヘアメイクを決めて、さらにテーマを決めなければいけないところに何か噓のようなものを感じ、面白さがなくなってきました。そうした時に新宿の青山ブックセンターで佐内正史さんの写真集「生きている」を見たのが写真作家との出会いだったように思います。」

フク:「「生きている」を見て、これだ!って思ったのですか?」

伊丹さん:「はじめ見たときは全く意味が分からなかったんですよ。色も変でしたし、「なんでこんなもん撮ったんやろ?」って思うものが写っているし・・・でも本屋に行く度になぜか手に取ってしまったのです。そのうち写真集を見た後に本屋から出ると、そとの景色が佐内さんの写真のように見えてきまして、カメラを持っても佐内さんみたいな写真を撮ろうとしていたり・・・そこから日本の写真作家って面白いと思うようになったのです。多分あの時が写真の力を実感した最初の体験なんだと思います。」

伊丹さん:「本格的に写真作品を意識して作りはじめたのは、文化服装学院卒業後、少し間をあけてからの25歳の時でした。シアトルに留学している友人のところに3ヶ月間転がり込んだのですが、そのときはじめて大量にフィルムを持って毎日作品づくりをしました。佐内さんや森山大道さん、荒木経惟さんのように毎日撮影するという行為です。そこで撮ったものは日本に帰ってすぐに現像して、親に借金をして自宅にカラー暗室を作り、それをリクルートのひとつぼ展に出しました。」

フク:「いきなりカラー暗室ってできるものですか?」

伊丹さん:「学校ではもちろんそこまで教わりませんでしたので、はじめは全くできませんでしたよ。本で調べたりヨドバシカメラの店員さんに聞きに行ったり、とにかく実践あるのみでした。しばらくかかって少しずつ色を出せるようになりました。」

フク:「ひとつぼ展に出した時の反応はどうだったのでしょう?」

伊丹さん:「自分としては結構いい物ができたと思っていたのですが、返ってきたコメントは、センスは感じるけど器用貧乏だという内容でした。」

フク:「今でこそ引く手あまたな作家さんですが、こう話をお聞きすると、ご自身で一歩一歩道を切り開いてきた結果なんですね。」

Ig1伊丹さん:「そんなことないです。いろんな人が知ってくれるようになったのは2013年くらいからです。それまで長い長いトンネルにいたような感じですので、今の状況が自分でも信じられません。自分で切り開いてきたなんて聞こえはいいですが、実際は自分でやるしかなかったんですよ。相手にもされなかったというのが実際です(笑)。」

フク:「今後の活動のご予定をお聞かせください。」

伊丹さん:「現在開催中の京都グラフィー国際写真フェスティバルに参加しています。また、個展も決まっています(※1)。年内の予定もおおよそは決まってきています。」

フク:「ものすごいスケジュールですね・・・」

伊丹さん:「ほんと自分でも信じられないくらいです。でもまだまだこれからですので、これを機にがんばっていきたいと思います。」

グルスキー

ART iT あなたのほとんどの写真作品は、あるひとつの場面に対する多角的な遠近感を合成し、デジタル加工を施しています。そのような作品がもたらす世界の拡大図はひとつの解釈といえるでしょう。このような考え方を前提としたとき、あなたは写真における現実と表象、客観性と技巧との伝統的な乖離をどのように考えていますか。また、あなたの作品は西洋美術における遠近法のイデオロギーを補強していますか。それとも、破壊していると考えていますか。

アンドレアス・グルスキー(以下、AG) 私の作品は非常に現実的であり、合成されているとはいえ、すべてが想像上のものというわけではありません。それは、例えば「バーレーン I」(2005)に見ることができます。バーレーンのサーキットはコンクリートで舗装され、レース毎に新たに塗り直されます。そのため、トラックの部分がとても奇妙に見えます。これは私の想像力の産物というよりも、むしろ現実に起因します。しかし、画像自体はモンタージュでもあり、構図上の理由からいくつか修正もしています。この作品では遠近感が増大し、地面は急角度で傾いて、抽象的なパターンが形作られていますが、地平線や空も写っています。このような構造は、私の作品の多くに見られます。加えて、「シカゴ証券取引所 II」(1999)や「タイムズ・スクエア」(1997)では中心投影画法を、「バンコク」シリーズやそれ以前の無題のいくつかの作品のみ、遠近法的構造ではなく、抽象を使っています。

ART iT 中国山水画を連想させる「クラウゼン峠」(1984)や「ケーブルカー、ドロミーティ」(1987)のような作品は、自然環境と人間の大きさの対比が印象的ですが、そのような感性は「カミオカンデ」(2007)のような建造物を撮影した作品にも適用されています。作品の構成において、人間と自然、人間と建造物の関係性をどのように考えているのでしょうか。

AG 「クラウゼン峠」は1984年にスイスアルプスで撮影したもので、最初は気に入っていなかったのですが、最後には目に留まったものです。事実上、旅行中に偶然捉えたもので、半年ほど経って現像してみると、撮影時には見えていなかったものが写っていました。そこには目に焼き付くような山の風景と、その山腹に散らばった非常に小さな登山客が写っています。この登山客が風景に馴染んでいる様が、非現実的かつ異様で構図も非常にバランスが取れています。それ以来、社会的に構築された環境における人々ということについて考えるようになりました。

ART iT あなたは以前、メディア上のイメージを素材にアーカイブを作成し、自身の作品を準備する際の参考やリサーチにしているとおっしゃっていましたが、具体的な対象をどのように決定し、何をそのリサーチ過程に取り込むのかについて教えていただけませんか。ほとんど演劇的に人物が配置されている「F1 ピットストップ」(2007)と、チャオプラヤー川を抽象的な視点で撮影した「バンコク」(2011)、これらは共に同じリサーチ過程から生まれたものなのでしょうか。あなた自身が世界各地の撮影場所を移動していくように、アプローチや遠近法も変化していくのでしょうか。

AG モチーフはほぼ毎回、視覚的体験に基づいています。大抵は印刷媒体で見つけた画像を忘備録として集めたり、興味がわいたものをインターネットから印刷します。それから、そのモチーフが適切かどうか、作品にする価値があるかどうかを検討しながら、熟慮していく過程が続きます。それからようやく制作をはじめ、常に多大な技術的努力を払ってモチーフを撮影し、自分自身のものにしていくのです。
こうした制作過程について、「バンコク」シリーズがどのように生まれたのか説明してみましょう。もともとは別のアイディアがあって、バンコクに興味がありました。結果的にそれは実現できず、それでも帰国のフライトまでは二日間残っていたので、物思いに沈みながら、桟橋から川の流れを見ていました。そのとき、その川がドイツのライン川やルール川とは全く違って見えることに気がついたのです。それは水上の交通機関が原因で、チャオプラヤー川には油分がたくさん含まれていて、それ故にそこに反射しているあらゆるものが非常に抽象的に見えたということに関係しています。この抽象に強く興味を惹かれ、その二ヶ月後にバンコクに再訪し、その川の流れを一週間見つめてみようと決心しました。こうしてこのシリーズは生まれたのです。
この写真にはバンコクの空を見ることができますが、川の汚染も可視化されています。詳細に見ていけば、ホテイアオイ(別名:ウォーターヒヤシンス)や使い捨ての容器、コンドームが水面に浮かんでいるのがわかります。私はチャオプラヤー川をあるがままに見せているわけで、上辺を取り繕おうとはしていません。しかし、殺風景な作品を制作しているわけでもありません。興味があるのは、これらの作品が美と誘惑を同時に描き出しているだけでなく、世界の河川における地球規模の汚染を強調しているところです。

ART iT 今日、ノートパソコンやタブレット、スマートフォンの普及により、スクリーンを持つメディアが現代生活のかなりの部分を占めていて、スクリーン自体もどんどん小さくなる傾向にあります。現在のこうしたメディア環境について、どう考えていますか。また、このような変化は、写真を通して何が表現可能かということに対するあなた自身の考え方に影響を与えているのでしょうか。

AG もちろん、そのような変化から逃れられませんし、逃れたいと思っているわけでもありません。私も作品のために、コンピュータ、タブレット、スマートフォン、デジタルカメラを使っていますし、ちなみにそれらはどんどん小さく、便利になっています。そうしたあらゆるものによって、作品制作も以前よりやりやすくなり、数年前ですら考えられなかった選択肢も現れてきました。最高の質と耐久性を確保するために、作品には常に最新の技術を取り入れようと努めています。同時に、アナログ写真に対する考えも失ってはいません。そこには独特の魅力があり、いずれそれを使うのに適したプロジェクトに出会うかもしれませんから。

アンドレアス・グルスキー|Andreas Gursky
1955年ライプツィヒ生まれ。先端技術産業やグローバル市場や観光など、資本主義社会を象徴する場所を、デジタル技術を取り入れた独特な画面構成で表現した巨大な写真作品で知られる。エッセンのフォルクヴァング芸術大学を経て、1980年にデュッセルドルフ芸術大学に入学。ベルント・ベッヒャーに師事する。90年代以降、カンディダ・ヘーファー、トーマス・シュトルート、トーマス・ルフらとともに、デュッセルドルフ・スクールと称される現代写真のひとつの潮流を代表する写真家として世界各地で作品を発表している。
これまでに、2001年にポンピドゥー・センター、国立ソフィア王妃芸術センター、ニューヨーク近代美術館を巡回した個展をはじめ、ハウス・デア・クンストやフランクフルト近代美術館、ストックホルム近代美術館などで個展を開催し、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展(2004年)やサンパウロ・ビエンナーレ(2002年)といった国際展に参加しているほか、日本国内では、2005年から2006年にかけて、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館を巡回した『ドイツ写真の現在—かわりゆく「現実」と向かいあうために』に出品している。
現在、日本初個展を国立新美術館で開催(2013年7月3日-9月16日)、来年は国立国際美術館(2014年2月1日-5月11日)に巡回する。

伊丹

また、自身で制作する写真集「MAZIME」シリーズでは、伊丹さん独自のテーマの発掘と仕掛けが織り込まれた実験的なzine制作活動も衝撃的だ。「MAZIME」シリーズは毎号完売となる人気ぶりである。

究極の「写真を撮る行為」を徹底したいと、写真家としての危機感をつのらせる伊丹さん。もはやiPhoneやスマホがチープなカメラであることは過去の認識だ。それらが商業的、メディア的に用いられている現代と共存する写真家は、どんな未来を見据えて今日もシャッターを押しているのか。プロが探し続ける写真の強さ、そして、海外へ進出し始めた新世代の日本人写真家たちについて、伊丹さんに話を伺った。

プロフィール
伊丹豪 | GO ITAMI

写真家。1976年生まれ、徳島県出身。
2004年、第27回キヤノン写真新世紀佳作受賞。写真集『study』、『study / copy / print』、『this year's model』(RONDADE)、自身が制作する『MAZIME』をリリース。これまで東京、大阪、名古屋での個展、さらには台湾、ベルリン、パリ、ニューヨークなどで展示を行い、海外での展示でその才能が高く評価される若手写真家。
https://www.goitami.jp

ーー伊丹さんが写真を始めたのは、ファッションの学校にいた時と聞きました。

伊丹豪(以下、伊丹):僕が写真を始めたのが、写真の学校ではなく、文化服装学院という学校でファッションの勉強をしていた時ですね、丁度、写真の授業があって。その頃は丁度HIROMIXさんの人気が凄い頃でした。

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伊丹:授業でカメラを買わなくてはいけなくなって、みんな「EOS KISS」とか、いわゆる入門機を買ってたんですけど、僕が自分なりに調べて買ったのが「コンタックス」。面倒なカメラなんですけれど、モノとして興味が湧いてきたんです。そして実際に撮ってみたら、面白かった。

初めはファッション写真を真似してました。モデルやスタイリストや、テーマを毎回決めたりすることが、最初は面白かったです。でも、段々とテーマが決めづらくなってきて(笑)。

どういう写真が撮りたいか、よりも、始めた動機は「アラーキーになりたい」「大道になりたい」
それでもテーマが必要なんですね。だから、毎回何も分かってないのに、とってつけたようなテーマを決めるわけですよ(笑)。徐々に、写真は楽しいけれど「ファッション写真は違うな」と思い始めたんです。そんな時、本屋でたまたま荒木経惟さんと森山大道さんの写真集を見つけて、「こんなかっこいい写真があるのか」と気付いて写真を知った。それが原体験になっています。

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伊丹:僕が写真にのめり込んだ時は、どういう写真が撮りたいか、何が言いたいか、よりも、単純に「アラーキーになりたい」「大道になりたい」が動機で始めたんですよ。先輩の功績に関する本を読んでいく中で、日本の写真家を辿りはじめました。そのプロセスが、僕の大きな基盤になっているんです。思い入れと思い込み。写真って幅広いことができるし、いろいろな種類があるんです。それを知りたいということ以上に、僕は「日本の写真家」と呼ばれる人種になりたい気持ちがすごく大きくあります。

ーー伊丹さんは海外で高い評価を受けている写真家の一人ですが、作家を見る目は世界と日本とはどう違うのでしょうか?

伊丹:世界の標準はそんなに分かるわけではないけれど単純に言うと、海外だとしがらみが無いので、すごく楽。作品を見て、作家について調べて話をして、面白いかどうかを判断される。まだ海外ではそこまで深い活動ができていないこと前提で話していますけれど、日本で活動する時と結構違うかな。

海外は素直ですよね。面白いと思えば、すぐに買ってくれる。もちろんステージがあって、作品だけで判断されるわけではないのですが、背景や履歴が海外の人には理解できないものも当然あるので、そういった意味でしがらみが少なくて楽です。写真に限って言うと、最近の海外では日本びいきで、日本人というだけで面白がってもらえる空気は感じていますが、それもずっと続くわけではないとも思っています。

海外進出を日本企業がサポートしてくれるプログラムの存在も大きいですよね。アート系写真でしたらパナソニックさんですけど。

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ーー海外で注目されるまでに至った背景を詳しく教えてください。

伊丹:僕は、もともと2004年に「キヤノン写真新世紀佳作」を受賞して、キャリアが始まったんですね。でも、誰も作品を「いいね」と言ってくれない時代が7、8年続いたんです。

写真を辞めなければいけないのかなと思ってました。その時期に、写真をやっている男性と出会いがありました。「伊丹さんのファンなんです」と話しかけてきた時、僕の写真をアプリにいっぱいダウンロードしたiPhoneを見せてくれたんです。そして彼が「伊丹さん、手伝いますので、一緒に本を作りましょう」と言ってきたんです。その頃はzineが流行る前だったんですけど。

正直、凄い嫌で(笑)。でも、熱心に誘ってくれたので、一冊作ったんです。それが2009年の「MAZIME 1」で、その後2-3年かけて「MAZIME」シリーズを作るまでに至ったんです。その彼は、河西遼君という写真家です。

「MAZIME 1」は50部作りました。当時は、海外から自分たちが目をつけたzineを買ってきている、インディペンデントな本屋さんがあって、東京にあるPANORAMA WEB SHOPと、名古屋にあるエビスアートラボ(現ON READING)と、当時は新潟にあったBOOK OF DAYS(現在は大阪)に連絡して、売ってもらったら、直ぐに完売したんですよ。

ーー「MAZIME」写真集が海外へ広がっていったんですね。

伊丹:回を重ねていくごとに販路が広がっていき、知ってくれる人も増えていきました。2回目の時だったと思います。ネットで気になっていた海外の作家さんや編集者さんで、連絡先を公開していた人たちに「一緒に仕事がしたい」とメッセージを付けて本を送り始めたんです。

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4冊目を作った2012年に、イタリアのファッション雑誌「PIG Mag」がインタビューしてくれたんですよ。写真家特集で、僕の前がアリ・マルコポロス(Ari Marcopoulos)、その前がコリー・ブラウン(Coley Brown)と錚々たるメンツだったんです。そこで取り上げてもらえたことで、世界が広がっていきました。

丁度同じ時期、アート系の写真家を支援していたパナソニックさんが特別協賛している「BEYOND 2020」のプロジェクトで声をかけて頂いたんです。僕はそのプロジェクトの参加者でもあるんですが、その頃、日本で、僕と同じ世代の中で一つの大きな流れができていた感があります。

横田大輔くん、水谷吉法くん、濱田祐史くんがいて、それぞれが活動をすると、個人の活動を超えて、「世代」として見てもらえた実感がありました。

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特に、横田くんが海外に行ったことで、彼が大道さんたちの後に続く「ネクスト・ジェネレーション」的に取り上げられた。60年代のやり方を現代でもやっている面白い写真家がいると、海外が意識し始めたんです。その世代の写真家の一人として見てもらえたことも大きかったと思います。

ーー海外の人は、伊丹さんの写真をどう見て、どんな反応をしているんですか?

伊丹:海外の人が面白いのは、ニューヨークアートブックフェアとかに行ったりするといろいろな人が来ているんですが、そこに派手な色の服を着ている黒人と、その取り巻きがいたんです。絶対あやしい仕事の人だろうなあと、思ってました(笑)。その彼が僕の本を見たら、めちゃくちゃ感動して、褒めまくって買ってくれるんです。3、4人いた取り巻きも全員買ってくれたんです(笑)。

彼らが何に反応しているのか、探っていると写真を理解することよりも、色に反応しているんですね。恐らく彼らには、かっこいいファッションに近い感覚なんですね。アウトプットだけで僕の写真を見たら、美術を知らなくても反応してもらえる要素がどこかにあるかと思えば、とても日本的に見えるんだと思うんです。

後から気がついたんですが、自分がやっていることは浮世絵に近い気がするんです。僕が「レイヤー」を重ねていく構造で写真を撮っていくことが、浮世絵の版を重ねて作る作品に近い作風に見えて、余白の取り方や、間といったような要素が西洋文化圏とは違う日本的に感じる理由だと思います。

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『this year's model』(RONDADE)より
ーー写真家の本質は変わらないけれど、写真家の役割はこれからの未来は十分に広がりそうですね。

伊丹:今年は今までとは違ったプロジェクトを始めます。僕と、「蝶」の標本を作っている朝野さんという方と一緒に始める「蝶々」を媒介にしたプロジェクトなんです。

蝶は人が森を切り崩したりすると直ぐに絶滅したりします。だから、朝野さんがどういう思いと哲学で、蝶の標本を作り続けているかを知って、僕も一緒に蝶を取りに山に入って歩き回って、プロジェクトとして続けていくつもりです。

朝野さんは、蝶採集用の専用ジャケットを自分で作って販売しているんですよ。三角のポケットがいっぱいついているデザインなんです。そこに取った蝶を包むための用紙を入れる。本気で蝶を採集するためのギアです。そのジャケットはファッションアイテムとして認知されているみたいです。

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伊丹:蝶採集を媒介に日本全国を回ろうと計画しています。あまりに知らないことが多いので、勉強することばかりですが、地道に積み上げていこうと思っています。

最初はこの蝶々取りジャケットを撮ってほしいと連絡を受けたんです。でも話を聞いていると、「洋服の写真撮影だけで終わらせるのは勿体無い」と思って、すぐに彼のアトリエに行きました。いいプロジェクトができる気がしていて、写真を撮ることを基点に、世界が広がっていくことが面白いんですよ。

ーー伊丹さんが一番写真に興奮するところは、どこですか?

伊丹:本来は奥行きがあるものがペラッペラに写っていたり、絞りを開けていくと妙に立体的に見えたり。写真は、光学的な操作の結果や、構図次第で対象の意味が全く変わってしまいます。技術的なアプローチから、人の五感と認識に訴えかけられることが、僕は写真の一番面白いところだと思います。

例えば、アンドレアス・グルスキー(Andreas Gursky)の写真。ひたすら細部が写っている写真に、もの凄い興奮を感じることって、人が対象物をもっと細かく見たいと思っている欲望の表れだと思うんです。

参考記事:アンドレアス・グルスキー インタビュー(ART iT)

伊丹:今、自分が写真を撮ろうとする時、肉眼で見えてないものも、シャッターを切れば撮れると分かっています。だから、自分が何を見るかの主題は、昔ほど重要じゃなくなってきたんですよ。自分が想像もしていなかったものが写真には写っているかもしれない。後の作業で、ソフトウェア上で見つけられるかどうか、が今のスタイルにつながっています。昔は、「これを見せなければならない」とずっと思っていましたけれど。

でも、自分の素養と教養では、クオリティが低いなといつも思います。2、3年後ならまだしも、10〜20年後も写真を続けているとすると、僕はカメラを持って歩いて撮るという一番の大原則に立ち返って続けていかなければ、恐らく写真家を続けられないという危機感がもの凄く強くなってきました。

ーーその危機感をどんな風にコントロールするんですか?

伊丹:撮る行為を続けることへのトライ・アンド・エラーですね。僕が写真家という肩書で勝負するなら、撮る行為でしか行きつけないところに行かないと、勝てないじゃないかなと思うんです。

ーーそこに気付かれたキッカケは何ですか?

伊丹:2016年に大阪で大きな展示をやらせてもらったんです。インスタレーションと映像作品と組み合わせた大きな展示会で。ただ、実際に写真を展示してみたら、いたらないところ、自分の駄目だった部分にたくさん気付いたんです。その時に、写真を撮ることに原点回帰しなければ、という思いが強まりました。

ーーそれで10年後までを考えたんですね。

伊丹:写真家って定年がないじゃないですか。今年40歳で、この後20年活動しているってことは、それなりに評価がないと続けられないはずですよ。体育会系ですよね(笑)。

ーーそんなことはないですよ(笑)

伊丹:でも、デジタルカメラは過渡期にあって、これからもどんどん進化していくんです。性能も技術も更新されていく。だから、機材をアップデートさせていけば、10年後には、今と同じものを撮っても絶対に別物になるはずなんです。

僕は、人間の目で見ているものなのに、単純にカメラのレンズを通して撮ると、別物に見えてくることが、未だに面白いんですよ。だから、テクノロジーが変わることで、自分がやっていることが、別の物に変わっていく面白さって、誰もが感じると思っています。これからもテクノロジーと併走していけば、作品がアップデートされていくから、大丈夫という思いはあります。

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関連記事:写真はもっと おもしろがれる! (ほぼ日刊イトイ新聞)

ーーテクノロジーが発展したおかげで、デジタルカメラの他にスマホのカメラも発達してきましたが、それらで撮られた写真を写真と呼ぶのか、という見方はお持ちですか?

伊丹:まったくもって写真なんじゃないですか。あれもこれも写真じゃないかなというのが実感です。スマホみたいにパーソナルなガジェットがここまで発達して、瞬時に撮って人にシェアできる社会の流れの中で、写真を撮って売っている写真家って一体何なのか、と写真家が考えないわけがないですよ。

そこに対して、これまでやってきた先輩たちのフォーマットをお借りする、または引用するやり方で逆流しないといけないと僕は思っています。写真をどんどん壊して違うものにするやり方もあるけれど、今の大きな流れを逆上していって、今までカッコ悪いと思われていたところに向かう方が、強いんじゃないかなと。

僕は、四角いファインダーの窓じゃないと駄目。恐らく、写真家という肩書がある以上、四角い窓で見たものを定着させていくことが大事だし、構図と絞りを決めること、それが写真家だと思う。それが、自分のやれることだという認識はあります。

ーー写真が見る人に伝える迫力もそうですが、写真が伝えてくれる情報量や真実の意味も、昔と今では変わってきていると思います。特に加工できるツールや、SNSの情報共有によって、事実とは異なる情報を人が認識してしまうこともあります。

伊丹:真実という言葉は重いですよね。荒木(経惟)さんが仰ったように、写真はいくらでも嘘をつけるんですよね。最近、テレビを見ていると、一般視聴者の映像をテレビ局が使っていることあるじゃないですか。あれが真実か、と問われれば、真実とも言えますし。だから、僕の感覚は全部真実で、全部嘘なんですよ。ですけど、どうやってそれを見分けるかと聞かれたら、わからないですね。例えば、被写体の人が、笑顔の写真だったら幸せそうに見える。だけど本当は怒っているかもしれない。写真はそういうものなんです。

関連プロジェクト
LUMIX MEETS BEYOND 2020

株式会社アマナがパナソニック特別協賛のもと、これからの日本のアートフォト界をリードする若手写真家の支援と育成を目指す国際プロジェクト。次世代の写真表現を予感させる若き写真家が一堂に会すグループ展を毎年東京と海外で開催。これまで、うつゆみこ、濱田祐史、水谷吉法、赤鹿麻耶、kosuke、伊丹豪、山本渉、横田大輔、吉田和生などが選出され、個展や国際アワード、写真集など、若手日本人アート写真家たちが世界に活躍の場を広げるキッカケを生み出している。
http://beyond2020.jp

よこた

個展開催(2月7日-24日 ガーディアン・ガーデン) おめでとうございます。まず、写真作品を作り始めた経緯を教えて下さい。

横田(以下Y) 中学生や高校生の頃、使い捨てカメラで写真を撮るのが好きでした。高校卒業の時に、大学受験は大変なので受験も必要ないからという適当な理由で専門学校へ進み、以前から少し興味があった写真を意識するようになりました。そこでモノクロ写真を始め、撮影はもちろんですが、フィルム現像やプリントなどの暗室作業にはまり込んでいきました。当時から作品といえるほどの意識があったか定かではないですが、写真は撮るという事だけでなく、作るという事が大部分を占めているんだと暗室作業で知り、写真にはまり込んでいきました。

当時から現像やプリントで色調を変えたりしていたのですか?

Y 学生時代は全てモノクロで作っていたので色を被せるようなことはしていないのですが、高温現像や焼き込み、他にソラリゼーションや複数のフィルムを1枚の印画紙に焼き付けるなど、暗室内での画像加工の様なことは色々していました。


2008年頃の作品「They」や「Interception」では撮影後の処理によって、絵と見まがうような効果を作り出していました。また、下敷きになった写真がそのまま別シリーズで提示されることもあります。画像加工することに対して一貫した考えなどはありますか?

Y 加工をする事は、何を加えれば良いか、加える要素はどういったものであるか、それを加える為にはどのような作業が必要なのか、何故このような技法を必要としたのかなど、撮影に対する確認作業と自分の持っている漠然としたイメージを考察していくための作業としています。
効果としては、主に視覚以外の要素、つまり記憶や感情、聴覚など主観的な感覚を視覚的なフィルターとして転換し、画像を視覚的に覆うために使用しています。
作業は主にphotoshopで色を抜いたり、像を消したりという処理をします。その後、色を加えたり、傷を加えたり、物によって異なりますが、アナログ的な手法で加工していきます。

近作では以前の加工された物と比べ、よりストレートな写真作品となっている印象です。加工からストレート写真へと至る過程を聞かせてください。

Y 現在、ストレートな写真になっているのは、前作までの制作過程で加工によって補っていた事を撮影の段階で含ませることができないかという考えがあります。
まず、作品の前提として、写真が元になっているということから撮影が最も大事だと考えていて、加工は補足や削除などあくまでも二次的な行為として捉えています。前作での加工でより意識的になった部分を今作の撮影の時点で含ませ、そしてまたその写真に対して補足や削除を行うといった循環を重要な作業としています。今は加工で浮き彫りになっていった点を撮影に向けている段階です。

昨年のparapera showではライトボックスを使った「waterside」シリーズを展示されていました。どのような意図でライトボックスを使ったのですか?

Y 写真は紙にプリントしているということで物質として扱われますが、実際に見る人にとっては、人それぞれの記憶や感情に結びつき理解されるという点で過去の時間に属するのではないかと思っています。それを物質化するのであれば、見る人との結びつきを生むために現在の時間が必要となってくるのではないかと考え、複数重ねた写真をライトで浮き上がらせ、見る角度によって多重の層が変化することで多様な観察を可能とし、現在性を生じさせるという意図があります。
もう一点として、デジタル カメラで撮影した画像をパソコンのモニターで確認し、その後プリントアウトして見ると悪い意味での誤差があることから、そのモニターに対してより良い提出方法はないかということ。ただ発光させただけではモニターとそう変わらないか劣るため、多層(3D)であることが必要だと考えました。

セルフパブリッシング「waterside」を作ったきっかけと、作った後に感じたことなどあれば教えて下さい。

Y この作品は当初まとめるつもりはなく、parapera showに出品したライトボックスの作品の下地の物です。なので、きっかけとしてzineを作るという事がなければおそらくまとめる事はありませんでした。
発表形態として色々な形があると思うのですが、zineという形もしっかりと一つの発表形態だなと思います。多くは写真集より安価だし、チープな事で取っ付きやすい魅力や、入手ルートの少なさ、作家自身の手作りという事から希少性を感じます。

スタイルの多様さが横田くんの特徴のひとつだと思うのですが、どのようなインスパイアによって作風が決められていくのですか?

Y 最初にあるイメージとしてはほとんどはっきりしていないです。
例えば写真を撮っていく過程である傾向が出てくるので、その偏りを引き伸ばすようにしています。そのため作品ごとに機材をかえるようにしています。
アナログ段階の加工は実験的にやっています。とはいっても物の素材や手法を変えるのはとても難しい事なので、前回までの自分の作風を元に、最近気になる様々な物を参考にしています。
内容的にやっている事はあまり変わっていないと思うので、作品の形態は現在の自分の興味を反映させて少しでも変化させられればと思っています。

作品の被写体はどう決めていますか?

Y 主に、身近な物や場所や人物、または過去に行った事があり記憶にある場所です。

同時代性についてどのように考えていますか?

Y 同時代性はとても重要に思います。体験は簡単には出来ないが、知るという意味では以前より簡単に素早く多くの事を吸収出来ますし、意識しなくても色々な情報は入ってきます。そういった点で同時代性を無視するという事は難しいと思います。それならば多様な情報に対して意識的に目を向けるようにして、自分の中で整理出来るようにしておきたいです。
例えば現在の傾向として、自分は知覚へのアプローチをしている物の方が反応しやすいということがあり、それはよくも悪くも時代の流れの枠の中にいると思っています。とはいえ、そういった同時代性は無意識に纏えることはあれ、意図的に導入するのはとても難しく思います。自分の制作スタイルと折り合いをつけ、同時代性をどう含ませていくのかといったことは慎重に行わないと既にある同時代の優れた物にはかなわないとも思うので、吸収した上で何かしらの独自の形を作れれば理想的だと思っています。
どちらかというと自分は古典的な傾向があるので、同時代の作家の作品を見る事が刺激にもなり、良い影響になっていると思います。

好きなアーティストを教えて下さい。

Y cLOUDDEAD、Aphex Twin、David Lynchなど。

音楽や映画が作品にどのような影響を与えていますか?

Y 主体が決して人間にあるのではなくて、背後に流れる空気の様な音が全体のニュアンスを作っている。それは一枚の平面作品よりも、時間の流れのある音楽や映像からの方が強く感じられました。ニュアンスをどう変換すれば良いのかということなど、違うジャンルからの影響の方が割と自由に発想出来る気がしています。


今後はどういった活動をしていきたいですか?

Y 今後に関してはまだはっきりとは分かっていませんが、まず一つの軸となる作品をじっくりと制作していきたいと思っています。それと同時にコンスタントに発表が出来ればと思っています。

Feb,2011


横田大輔

1983年 埼玉県生まれ 日本写真芸術専門学校卒業

2013年にオランダの雑誌Foam Magazineの「Talent Issue」に選出され、その後、アムステルダムでのUnseen Photo Fairでの展示を経て、Foam Museumでの個展「site/cloud」の開催を迎えている横田大輔。その間にも、G/P Galleryでの個展開催、初の写真集リリースや木村伊兵衛賞ノミネートなど、国内外でその評価を確かなものにしている。初となる海外美術館での個展、進行中のアブストラクト作品、また最新作となるアーティストブック「VERTIGO」について、話を聞いた。

Foam Museumでの個展開催おめでとうございます。前回のインタビューから3年の月日が経ちましたが、環境は大きく変化しましたね。

そうですね。前回も環境が大きく変化した時にインタビューをしていただいたと思います。もう3年経つのかという気持ちと、まだ3年しか経っていないのかという気持ちがあって、変な感じですね。

今回のFoam Museumでの展示について教えてください。

今回の個展は、昨年art beat publishersから出版した「site/cloud」をメインに、未発表の「Lichen」と、今回に合わせて制作した作品の3部構成になっています。

「Lichen」は2012年から13年にかけて制作していたものです。内容としては、山岳を撮影したイメージを複写し、熱現像によって溶け出した乳剤のイメージをPhotoshop上でレイヤーとして上乗せしています。タイトルの「Lichen」とはコケなどの地衣類であったり苔癬(たいせん)という皮膚病を意味します。岩を覆い隠すように生える苔や、皮膚が炎症を起こし象のように硬化していく症状の苔癬、どちらも通常の肌の部分である外側の表面を浸食していく現象です。

展示に向けて作りおろした作品は、熱現像によって乳剤がすべて流れてしまった後の透明なシートに、かろうじて残ったイメージをスキャナによって読み取りました。スキャン作業によって混入してくるホコリやゴミが透明なシートの手前にあり、その奥に流れ失ったイメージの残留があるという状態です。

今回の展示では、近年の制作で着手するようになっていた熱現像によるフィルムの物質性と、撮影時に得られるイメージとの関係性とその変化に重点を置いています。

空間や関わる人の数など様々な点で規模が異なる美術館での個展ですが、展示に際してこれまでと違う意識や新たな発見はありましたか?

今回は海外での展示ということで、展示構成を考える上で会場を見に行けないということが大きな問題としてありました。昨年の9月のUnseen Photo Fairで展示会場を見ていたのですが、後日会場が変更になり、より大きいスペースで展示ができることになりました。それ自体は嬉しいことなのですが、帰国後の変更だったので現場を体感的に把握した上で構想することができなかった点はなかなか厳しかったです。

いつもPCと10分の1スケールの模型の両方を使って構想しているのですが、実際の現場のイメージが抜け落ちてしまっていると、逆に理想的なイメージが固まりやすく、細部の問題が見えづらくなってしまったように思います。実際にインストールしてみると想定していなかった場所に備え付けの物があったり、壁面と作品のサイズのバランスが想定していたものとは異なっていて空間が狭く感じてしまったりと、少しのサイズ感の違いで全体の空間自体の印象が大きく変わってしまいました。

こういった問題についてわかったつもりになってしまっていたのだなと発見できたことが、とても良い経験になりました。

制作中の抽象作品について教えてください

このシリーズでは撮影によってイメージを作ることをせずに、未撮影の大判のフィルムを多層に重ねて熱現像することでフィルムの物質的な側面を引き出そうと考えました。乳剤を浸食した熱湯の痕跡や、現像の過程でフィルムの間に残った薬品が結晶化する、そういった細部をスキャンして読み取ることで、カメラを使った撮影より細密なディティールを再現しました。

写真にとっての現実性は撮影現場での記録である、ということが一般的な考えだと思いますが、本来は記録されたイメージよりも具体的であるはずのフィルムの物質性を強調することで、却って抽象度が高まっていくという抽象と具象の逆転した見え方に興味を持っています。フィルムなどの記録メディアがその物質的側面を主張することは、撮影によって記録されたイメージを阻害する要素としてのノイズだと捉えられています。メディウムは伝えるべき記録を阻害してはならず、透明であるべきだという考えが写真の価値基準となっていると思います。

近年のデジタルカメラの発達が象徴的です。より細密で鮮明に、素早く簡易的に目の前の光景を記録する。カメラメーカーの特色を最低限保ちつつも、私たちの持つ世界の見え方の平均値を正確に捉えた結果のイメージが "現実=写真" と位置付けている、と捉えられます。

今回のアブストラクトシリーズでは、そういった状況を逆説的に捉え、イメージを抽象化する要因となる物質的現象を撮影における記録性に置き換え、"現象=記録=写真" としての作品を提示したいと考えています。

このように活動の場を広げるきっかけとして、2011年に制作したセルフパブリッシュ「Back Yard」が瞬く間に拡散したことが挙げられると思います。一冊の本が及ぼす影響の大きさを感じます。

そうですね。それ以前にも海外のブログや雑誌などに作品を送っていましたが「Back Yard」のような反応はなかったですね。とても幸運でした。というのも、この作品が白黒であることはほとんど偶然に近い形で、当時はまさかこのような反応を貰えるとは思っていなかったからです。おそらく、日本人がゼロックスコピーを使って白黒で自費出版をしている、ということが日本写真の文脈へとつながり、付加価値が生まれたのだろうと思います。

日本国内での活動だけではわからなかったのですが、海外には出版物の市場がしっかりと確立されていることを実感しました。それは単純に日本国内のシェア数よりも全世界のシェア数のほうが圧倒的に多い訳なので当然なことかもしれませんが。

展示用に額装した作品よりも本の方がより素早く多くの人へ届けることができる可能性を持っていると思います。ただしその分、話題性の有効期間も短いとも思います。

大量の作品をスピード感をもって制作しますね。制作時間が短いことで一点一点のイメージの強度が落ちるどころか、むしろ上がっているように感じます。イメージの強度と、量、制作のスピードについてどう考えていますか?

そう言っていただけるととても嬉しいです。僕自身、制作において量を多く作っていくこと、その上でどのように強度を上げていくかということをとても重要に考えています。

制作の量に関しては、前提としてスナップ写真が元になっているということが大きな要因だと思います。一度に大量の写真を撮影しますし、撮影したからには全ての写真を使いたいと思うところもあります。ただ、それはもちろんとても難しいことなので、できる限り撮影した写真に使用する機会を与える為にも、時間を置いては何度も何度も全てを可能な限り見直していく、というようにしています。そうすることで、撮影された写真の持つ様々な側面を見落とさないようにしたいと思っています。

最近は一度の撮影で多い時に1000枚から2000枚ほど撮ります。多くの量を撮ると必然的に1枚の撮影に対する意識は弱まり、使う為に撮るのではなく、使える可能性を撮るという行為になります。撮影は自身の理想的なイメージを薄め、外部の偶然性をより多く含ませる作業であり、編集や加工によって再び自身の持つ理想に近づけ、現像を通してまた偶然性を含ませます。その連続のなかで、イメージが物質性や偶然性をまとい、強度を持つようになるのではないかと思います。

 デジタルカメラやphotoshopなどのデジタルデバイスや、インターネットそれ自体が、制作における考え方に及ぼした影響はありますか?

影響はとても大きいですね。写真を始めてからフィルムカメラや印画紙での暗室作業を5年ほど続けていたのですが、なかなかうまくいかず、半ば挫折しそうになっていました。その頃は何が駄目なのかもわかりませんでした。その後、開き直って当時絶対に使うまいと思っていたデジタルカメラを購入し、1、2年の間とにかくあらゆるものを撮影をしていました。その過程でPhotoshopを購入し、画像をいじってみるようになりました。

デジタルカメラの簡易性によって、自分の持つ理想的なイメージや先入観が入り込む隙がないほどの撮影の量とスピードを得られたと思います。Photoshopで編集することで、撮影の後の様々な段階で写真に関与できること、また、その必要性を意識できるようになったと思います。撮影後の操作によって、何度も保存したり、元と違う形に仕上げられることは、幼少期にRPGなどのファミコンゲームに多くの時間を割いていた僕にとってはとても自然なことであり、本質的な行為だと捉えています。

インターネットの存在もとても重要です。パソコンを買ったのは22、23歳の頃だったと思いますが、毎晩仕事から帰っては音楽をダウンロードして、それを待っている間に、色々な情報を漁るという生活をしていました。インターネットは欲望に対してとても従順な道具だと思います。一つを知ったら次、さらに次と、ジャンルやメディアを変えていくことができます。そのお陰か、ジャンルやメディアの違いという意識もずいぶん薄らいできたと思います。

インクジェット、コピー、オフセット、シルクスクリーンなどの印刷技法に加え、ウェブ、本、雑誌、また実空間での展覧会やイベントといった媒体など、現在のイメージメイカーは多くの提示手段を持っています。横田くんも例外ではなくそれらを利用しているわけですが、イメージ、技法、媒体、それぞれの組み合わせについて考えるところはありますか?

考えた上で使うというよりは、使った上で考えていくということが多いです。写真は、カメラやフィルム、現在ではプリンターやスキャナーなど一般的にも様々な道具を使用する訳で、それらの道具とつきあっていく必要があります。"私"がイメージを作るのではなく、何を使い、どう組み合わせるのかといったことの結果に対する選択者としての"私"がいる、という方がしっくりくる気がします。道具を扱う上でその個体の持つ偏りやノイズを意図的に引き出すことも重要だと思います。その上で、なぜその状態のものを選択したのかを考えていくことが大事な作業です。

出版レーベルNewfaveの第一弾として横田くんの新しい写真集「VERTIGO」をリリースします。その作品について教えてください。

タイトルの「VERTIGO」はめまいという意味ですが、そのような身体的状態、時間感覚をシークエンスとして構成しています。平衡感覚を喪失した状態を1枚で説明するのではなく、編集や構成のなかでのイメージの断続性によって異化された印象を見る人に与えられないだろうかと思いました。

身体的な感覚とともに重要なことが、時間的な平衡感覚の喪失です。例えば、私はよく今が何時で何月何日なのか見失うことがあります。それは昼夜逆転の生活や、最近の移動による時差など、一年を通して固定された時間軸で生活をしていないからです。それに加え、例えば夢での出来事や昔の経験が、ついさっきに起きた出来事のように強い存在感を持って思い出されることが多くなってきたように思います。

一日24時間、それが365回転することで1年が経過するという全ての人が共有可能な時間があるが、それとは別に一人一人が持っているであろう複雑に入り組み同時に何本もの流れを持った個人の時間認識があるはずで、私はその個別の偏った時間感覚の反映された世界に興味を持っています。

振り返ると2012年からデザイナーの宇平剛史くんも含めた3人でどのような本にしたいかということを話し合い、制作に費やす時間がかなりありました。写真の編集、紙や印刷方法の選択、デザインについて意見を出し合うなど、本を作るプロセスを大事にしていきたいという思いがあります。横田くんは今でも「MATTER」といったセルフパブリッシングを続けているわけですが、個人で本を作ることと今回のような共同作業について、どのような違いを感じますか?

セルフパブリッシングに関しては、写真集を作るという意識ではなくて、作品制作そのものとして捉えています。当然、個人で本を作る訳なので色々な判断の決定が自由なのですが、その反面、資金的な制限や、良くも悪くも自分の手癖や思い込みによって作品の幅に制約が生まれてしまう所があります。その点、人を交えての制作になると、細部への決定や変更を行いづらくなる一方で、資金の面から手作りとは異なるクオリティーを求めることができ、編集においてはより客観性が必要になることが増えます。その結果、流通を踏まえた一つの製品として精度を上げていくことが可能になるように思います。またその過程でのやりとりで、個人では思いつかないようなアイデアが生まれることはとても刺激的です。

今回は写真集が完成するまでに想定していたより長い時間がかかったことも、作品を冷静に見返す時間になったという意味で良い結果になったと思います。主体性が誰かに偏るのではなく、どうすればより良い形と内容で提示できるか作品自体を見て考えて作るという点で、作品を主体とした3人の良い関係性を築けたのではないかと思います。

今後の活動予定について教えてください。

現在決まっているものでは、5月16日から7月6日までアムステルダムのFoam Museumにて個展、5月にロンドンの出版社Akina booksから「LINGER」、7月にNewfaveから「VERTIGO」をリリースします。

それから、9月にはアムステルダムでのUnseen Photo FairのBook Marketでロンドンの出版社Adad booksからAM Projects「Abstracts」の出版ローンチを予定しています。その後、11月には日本のG/P gallryにて個展の予定をしています。

まつえ

http://urag.exblog.jp/23663802/

 

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日本各地の農家を巡り、そこで出会った人々と触れ合いながら日本の農村風景を撮り続けてきた公文健太郎。今、過渡期にある日本の農業の実情を知った公文は、目の前に広がっている「日本の景色」といえる農村風景を記録しておかなければならないと感じた。今回は、写真展『耕す人』の中から、その一部を紹介する。

写真家になり、ライフワークとしてネパールを追い続けているとき、不思議とネパールの農村風景に惹かれていました。そこにいるだけで心が落ち着き、どこか懐かしさを感じていたのです。ネパールの撮影を終え、日本を旅するようになると、やはり目に止まるのは、自然が作り上げた景観より、人の営みが感じられる農村風景でした。しかも、ネパールのときよりも日本の風景の方が自分の中にスッと入り込んできたのです。

私は農家の生まれではなく、幼いときから農業に親しんできたわけでもありません。写真の仕事でたくさんの農家の方たちに出会うまでは、さほど興味も持っていませんでした。しかし、日本各地の農家を訪ねる旅の中で、日本の大部分は農村であるということを知り、人が生きるために作り上げたその景観こそが「日本の風景」だと感じるようになったのです。そして、農村風景を見て心が落ち着くのは、きっと日本人の記憶の底に原風景として農業の営みがあるからだと気付きました。

日本各地の農業を追い続ける中で常に心掛けていたのは、できるだけ多くの人に見てもらえる写真にすることでした。モノクロではなくカラーにしたのも、そうした理由からです。また、多くの作品は35mmの単焦点レンズを使っていますが、それは肉眼で見た世界と同じような画角で切り撮ることで、見た人にいろいろな想像を膨らませてもらえると考えたからです。今回はレンズの効果を使って誇張したり、劇的な瞬間をとらえたりするのではなく、自分が見た世界をそのまま写し撮りました。そうして、見た人が自由に何かを感じてもらいたかったのです。

私が考えるよい写真とは、時代を超えて残る写真だと思っています。例えば、今の時代を生きる人が感動する写真を撮ったところで、次世代の人たちの感動する尺度が変わっていたら、その写真のよさは失われてしまいます。それよりも、見る人が自由に考え、それぞれの人が何かしらを感じてもらえる写真の方が、時代を超え、永遠に残る写真になると思うのです。

今回掲載した作品は、決定的瞬間ではなく、平凡な情景かもしれません。けれど、農家の方が見て、「この作物はいい色をしているね」とか、「この服がかわいいね」とか、私の意図していないところに目を向けるような、小さな気付きが含まれた作品になっているとうれしいです。その小さな気付きが写真を見る楽しさを拡げてくれると信じているからです。

今、日本の農業は大きな転換期を迎えています。政策転換など農業を取り巻く環境の変化や高齢化による後継者不足。おそらく10年もすれば、日本の農村風景はガラリと変わってしまうでしょう。そして、農村風景が変わるということは、日本の風景が変わってしまうことを意味しています。私が農業を追い続けるのは、今の時代にしか目にできないこの風景を記録しておきたいという願いも込められています。先人たちの知恵を受け継ぎ、長い時間をかけて育まれてきた農村風景。たとえそれが変わってしまっても、写真に残しておけば、未来の人に今の日本の風景を伝えることができると思います。

多くの人が生活している都市を、俯瞰でジオラマのように撮影する本城直季。その作品には、現実でありながら、仮想空間のようにも見える都市の不思議さが写し出されている。今回は、約6年ぶりに東京を撮影した新作を含めた写真展『東京』の中から、その一部を紹介する。

私は大学に入ってから写真をはじめたのですが、当初は、それほど写真の面白さに気付けておらず、出された課題を淡々とこなすだけでした。スナップやポートレートなど、さまざまなものを撮影していましたが、自分が本当に何を撮りたいのか分からず、漠然と写真を続けていたのです。大学3年になったとき、初めて中判カメラを使いました。すると、1枚1枚じっくり撮るスタイルが自分に合っていて、ようやく写真の面白さに気づき、自分が撮りたいものも、おぼろげに見えてきました。

写真をはじめる前から私は、自分が暮らしている街、都市というものに不思議さを感じていました。夜に街を歩いていると、遠くの方に高層ビルの明かりが見え、その光景がリアリティーのない仮想空間のように思えたのです。なぜ、自分はこのような人によって作られた空間で暮らしているのだろう。そうした思いを胸に抱きながら、私は中判カメラで都市の姿を撮るようになりました。

街の風景や公園の風景、街を俯瞰できる展望台などでの撮影を続けながら、実験的にさまざまな撮り方を試していると、あるとき偶然街がジオラマのように見える写真が撮れていました。その作品に自分自身驚いたものの、たまたま撮れたものだからこれ以上のものは撮れないだろうと、すぐにその方法論で撮影を続けることはしませんでした。けれど、1年ほどいろいろな撮り方を試しているうちに、次第にジオラマのように見える作品が狙い通りに撮れるようになり、同時に、その作品にこそ自分が都市に抱いていた不思議さが写ると感じ、自分のテーマとして続けようと思ったのです。

今回、EOS 5Dsで作品を撮るため、約6年ぶりに東京を空から眺めました。東京は世界の中でも異質な都市です。毎回、俯瞰で見るたびにその大きさに圧倒されるのですが、まるで生き物のように増殖を続けています。地上から見れば、建物の一つ一つに違いがあり、そこで人々の生活が営まれているのですが、俯瞰で眺めると、街が一つの集合体となり、それが何かの意思を持った生命体のように感じるのです。幹線道路や鉄道が街の血流となり、年月を経て変化し続ける生命体。その中で多くの人が暮らし続けている。

今回の写真展では、私の作品を通して、現実でありながら、どこかリアリティーが欠如した仮想空間のような東京で、人が暮らしているという不思議さを感じていただければと思っています。

今回の写真展では、EOS 5Dsで撮影した作品も展示します。それらは、ジオラマのような作品とは手法が違いますが、写したい根本のものは同じです。光や構図、街との距離感に統一性を持たせながら、俯瞰で一つの集合体となった都市の姿を写し撮る。中判カメラでは撮れなかった夕景も含め、変化し続ける東京の姿を感じ取っていただければと思います。

これまでさまざまな都市の姿をとらえてきましたが、その都度、新たな発見がありました。これからも世界中の都市をめぐり、その土地ごとに異なる、人によってつくられた都市が持つ不思議な魅力を追い続けたいと思っています。

凄まじい勢いで変化し動き続ける都市、渋谷。2016年夏、操上和美は、休日に渋谷に集まる多くの人たちに混ざり、カメラを片手に当てもなくさまよい続けた。そこで撮られた一枚一枚には、操上が五感で何かを感じ取った刹那が写し出されている。今回は、写真展『Lonesome Day Blues』の中から、その一部を紹介する。

写真の面白さは、被写体を通してさまざまな発見ができることです。写真家は常に被写体を探し求め、出会いを写し止めていますが、そういった発見のほかにも、撮ったときと現像したときのギャップから生まれる驚きや気付き、現像した写真を改めて見返して初めて理解することなど、多くのものを発見することができます。さらに、無意識に選んだ被写体から、自分の中に埋没している未知数の才能を知ることも可能なのです。

写真をはじめるために学校に通い、半年くらいが過ぎたころ、そうした写真の面白さに気付きました。学校では、毎週撮ってきた写真を提出する課題があったのですが、私は毎週異なるテーマで撮影していました。中には自分の好きなテーマをひたすら追い続けている人もいましたが、私は一つのものを掘り下げるのではなく、その時々で違ったテーマを探し、ターゲットを定めなかったのです。ただ、そうしてあらゆるものに目を向けることで、今まで知らなかった自分自身を知ることになり、その結果、自分の世界がどんどん広がっていったと感じています。

自分も含め、何かを発見するという写真の面白さ。それは何十年と写真を続けていても失われることはありません。今回掲載した作品を撮影しているときも、さまざまな驚きや発見がありました。

そもそも今回渋谷を撮ると決めたのは、普段よく行く場所でありながら、凄まじい勢いで変化し続け、動き続ける都市というイメージのある渋谷で、どのような発見があるか興味があったからです。そして、ひと夏の間、毎週休日になると渋谷に向かい、カメラを携え歩き回っていました。

その中で気付いたことは、まず外国人がとても多いということ。街を歩きながら私がシャッターを切りたいと思う瞬間の多くは、街ゆく人の存在感が感じられるときです。街に埋没することなく、何かが光っている。ファッションなのか、仕草なのか、色気なのか、それは人によってまちまちですが、何かしら自己主張が感じられる人に目が行くのです。そして、そうした人たちの中には、たくさんの外国人が含まれていました。

また、渋谷を歩きながら少し奇妙に感じたのが、みんなスマートフォンを見て、下を向きながら歩いている光景です。ただ、それは渋谷だけでなく、新宿や池袋、銀座でも同じでしょう。ひょっとしたら、多くの人が下を向きながら歩く光景は、現代を象徴する都市の姿なのかもしれません。

休日になると渋谷に向かい、街に集まる多くの人に混ざりながらさまよい続けた、この夏。特にターゲットを決めず、五感をすべてオープンにして、何かに反射するようにシャッターを切り続けました。それはある意味写真家の本能を研ぎ澄ますようなトレーニングでもあり、孤独な戦いのように感じたこともあります。そうした写真家の孤独な作業を表す意味で、『Lonesome Day Blues』というタイトルを付けました。

しかし、孤独な戦いであっても、撮れた写真はすべて人や街の光景との出会いの結晶です。街をさまよう中で、偶然私の琴線に触れる人や光景とすれ違う。それは、どこか恋に落ちる瞬間に似ているのかもしれません。頭ではなく、感覚が反応した瞬間にシャッターを切り、それが写真として記録される。ターゲットを決めていないとはいえ、街をさまようときは常に出会いを期待しています。そして、時に予想もしていなかった瞬間と遭遇します。そうして撮られた今回の作品群には、孤独な写真家が、渋谷という街で、このひと夏を通して出会ったすべての瞬間が写し出されています。


街を歩き、その場所に流れる地霊【The spirit of the place】を感じながら、さまざまな都市の表情を切り撮ってきた、佐藤信太郎。今回は、東京スカイツリーを中心に、その周囲に広がる街の様子や、そこで繰り広げられる人の営みを写した、『東京|天空樹』の作品を紹介する。

写真専門学校に通っていたころ、私は、自分の気持ちを風景に投影した心象写真を撮っていました。しかし、当時教わっていた先生から、「写真を自分の感情を表す手段として使うだけではいけない」と言われ、自分の気持ちとは切り離し、都市を客観的に撮ることをはじめました。以来、それが私のテーマとなり、夜の繁華街を写した『夜光』、東京の非常階段からの眺めを切り撮った『非常階段東京』、今回掲載する『東京|天空樹』という作品が生まれました。

『東京|天空樹』の作品を撮りはじめたのは、2008年の12月ごろです。東京スカイツリーの建設予定地を撮影してほしいという依頼を受けたとき、生まれ育った東京の下町が劇的に変わることに興味を抱き、撮り続けてみようと考えました。

当初は、ある場所から定点観測のように撮り続けようと思っていたのですが、想像を超える大きさに、その計画はすぐに破綻しました。そして、デジタルの利点を生かした撮影法に切り替えたのです。

デジタルは、非常に小さいものまで鮮明に写し撮れるだけでなく、撮影した画像をつなぎ合わせれば、フレームを自由に作れます。このシリーズからはじめたパノラマ写真も、デジタルだからこそ使える手法であり、急激に大きくなり続ける東京スカイツリーに合わせ、フレームの横幅も自在に伸ばすことができたのです。さらに、この手法は、複数の写真をつなぎ合わせているため、その細部のディテールは鮮明なまま。

私がよいと思える写真は、何度見ても飽きのこない写真です。『東京|天空樹』では、それまでは入れていなかった人を写し込みましたが、たくさん写る人をそれぞれ細かく見れば、その都度新しい発見があり、撮った自分でさえ写真を見て初めて気付くこともあります。

また、複数の写真をつなぎ合わせると、一枚の写真の中に複数の時間が存在していることになります。つまり、現実では見られない光景になるのですが、私は、むしろこの光景こそ、リアリティーがあると感じるのです。人が目の前の風景を眺めるとき、一点だけを注視せず、ある程度の時間をかけて、いろいろなところに目を巡らすはずです。それを写真で再現するには、たった一枚で一瞬を切り撮るよりも、さまざまな瞬間をつなぎ合わせた一枚の方が、より近いのではないかと思うのです。

都市の写真を撮るようになり、私は、それまで行ったことのない場所へ赴くことで、見ているようで見ていなかった都市の表情を、いくつも知ることができました。この日本には、まだまだ私の知らない街の顔が潜んでいます。それがなくならない限り、私は、ずっとさまざまな街の表情を追い続けます。

柴田さんはセザンヌのような絵画を描きたくて、東京藝術大学に入学したが、大学では途中から版画やシルクスクリーンに興味が移った。 

「学生運動で1年間、学校が封鎖された。それまで教室でずっと絵を描いていたのが、外で違うものを見るきっかけになったわけです」 

そこで映画や映像への興味も生まれ、就職先は映画会社を選んだ。映画監督の口はなく、広告を制作する東映シーエムに入社する。 

「楽しかったんだけど、勤務時間があまりにも不規則で、それに耐えられなくなった」 

海外に行きたくなり、知り合いからベルギーが国費で留学生を募集していることを知る。 

「5人募集していて、応募者は3人だったんです。その年、留学先の王立アカデミーに写真学科が新設され、学校側からそこへの入学を奨められた」 

1975年当時は、写真は雑誌など印刷媒体に使うもので、アート作品との認識はまだない。故に写真作家などという概念もできていない時代だ。 

「日本では荒木経惟さん、森山大道さんが注目され始めた頃で、自分が写真をやるとはまったく思っていませんでした。それが写真は外に出かける作業が多い。それまで室内での作業ばかりだったので、とても新鮮で面白かったんです」

■ アンセル・アダムスのオリジナルプリントと出会う

決定的だったのは、留学4年目にパリのギャラリーで写真展「アメリカンウエスト」を見たことだ。アンセル・アダムスをはじめとする作家の風景写真を扱ったもので、そこで初めて大型カメラで撮った写真作品を目の当たりにした。 
「写真集では見ていましたが、オリジナルプリントは初めて。そこではギャラリー下の倉庫で、いろいろな作家のオリジナルプリントを見せてくれてね」 

そこにはジョエル・マイロウィッツの『ケープライト』もあって、それはどこにでもありそうな絹目のペーパーにプリントされていた。絵画やシルクスクリーンは特殊な素材を使うのが当たり前だったが、「頭の切り替え次第で、どこにでもある材料を使って作品が作れる。その事実がショックでしたね」と話す。 

技巧がまず第一に重視される絵画に対し、「考え方を表現するのが写真」。独学でアンセル・アダムスが提唱した撮影技法『ゾーンシステム』を習得しながら、4×5の大型カメラによる撮影に取り組んでいった。

■ 何を撮ればいいのか、模索し続け……

写真を撮り始めて、最初は何を撮っていけばよいのかが見つからない。留学も5年目に入ったことで、帰国を決めた。以前の会社のつながりで、一時広告制作会社に属し、すぐにフリーになる。広告など撮影の仕事をこなしながら、作品制作を行なう日々は10年以上続いた。 

「日本の現象、現実を表すもので、オリジナリティがある表現を探していた。人がやっていないことでないと意味がないと思っていました」 

高速道路を通った時、海外のそれと外観が似通っていたことが気になり、夜の高速道路を最初のシリーズとして数年撮り続けた。 

それと平行して、風景を撮影していた時、偶然シャッターを切った1枚にヒントを見つけた。それが上の写真だ。 

「道の脇に詰まれた土が、生き物のように見えて気になったんですね。このプリントを見て、自然の中にある建造物の面白さに目が行くようになりました」 

美しい風景を撮影しようとすると、電線など邪魔な被写体が画面に入ってしまうことがある。絵画なら描かなければいいが、写真はありのままを写しこむもの。であれば、その邪魔だと思うものを撮っていけばいい。そう発想を転換したのだ。 

柴田さんはダムをモチーフにした作品が有名だが、このテーマを撮り始めても10年ほどは自分の中でダムを明確に意識していなかったという。 
「ダムに向かって、整備された道が作られ、私が求める被写体が発見できる。初めは撮影地の目標としてダムを考えていました」

■ 撮影はワンシーンでワンカット

88年からは8×10のエボニーSV810にカメラを換えた。撮影はひとつのシーンで、ほとんどワンカットしか撮らないという。 

「フィルム交換も大変だし、現像作業に手間がかかるから、何枚も撮れませんよ」と笑う。それでも作品として発表できるのは、撮影した中の「5%、いや1%くらいしかないかな」というレベルだ。 

撮る時にいいなと思って撮った写真は、意外と面白くないことが多いそうだ。 

90年、東京都写真美術館が一次開館し、各国のキュレーターを集めた記念シンポジウムが開かれ、そこで作品をプレゼンテーションする機会に恵まれた。そこでニューヨーク近代美術館での新人写真家展「ニューフォトグラフィー8」に招かれたほか、アメリカでの作品制作の依頼を受けた。 

「日本で見つけていたような風景がなく、そこでダムというモチーフに気づきました。この巨大な建造物にもそれぞれ日本的な部分と、アメリカ的な部分が見えてくる。一番の違いは湿度で、アメリカのダムは特に引いて撮ると、非常に乾いた光景になります」

■ カラーで撮り始めたら、初心者のように写真が楽しい

カラーで撮り始めてから、被写体とする範囲がぐんと広がったという。モノクロはコントラストと形を重視して撮るが、カラーはそれ以外の要素も写し込むことができるからだ。 

「カラーを始めた当初は、同じカットをモノクロとカラーで撮っていました。それまで見落としていた風景が見られるようになり、いつしかカラーだけで撮るようになりましたね。今は、写真を始めた頃のように撮影が新鮮で楽しいのです」 

写真家は撮影でまず現場を体験し、プリントにして、肉眼とは違った視点をもって、追体験していく。そこで、その場では気づかなかった風景の意味を発見するのだ。圧倒的なスケール感を持ち、秀逸なスナップショットのような味わい深さのある柴田敏雄のランドスケープは、大型のオリジナルプリントでこそ、真の魅力が伝わってくる。


写真と出合ったのは、画家になりたいと思って入った芸大でのことです。ただ、そのとき興味を抱いていたのは版画で、写真はその素材として撮影していました。卒業後、映画会社に就職したものの、やはり一人で作品を作りたいと感じた私は、そこを辞め、ベルギーに留学しました。そこで初めて本格的に写真に取り組んだのです。
それまで主に室内で作品を制作していた私にとって、外に出られる写真は楽しいものでした。しかし、写真というメディアを通してアーティストと名乗れるかに疑問も抱いていました。それでも、パリのギャラリーを訪れたとき、写真がアート作品として扱われていることを目にし、写真家として生きていくことを決めました。

当時考えていた写真の一番の問題点は、写真で何かを撮ると、その個体そのものが写ることでした。例えば人なら、その人の個性に引っ張られてしまう。私が写真で表現したいのは、その個を超えた次元の異なる世界です。たとえ無機質なものを撮ったとしても、それが何かを語りかけてくる。見る人によってさまざまな見方ができる作品が撮りたい。そうした思いは、今も変わらず持ち続けています。

今回の写真展で展示するのは、3年ほど前、ベルギーの建築家、ローラン・ネイ氏から、彼の設計した「橋」を撮影してほしいと依頼されて撮りはじめた作品です。

彼は、環境やコスト、地域住民の意見をもとに機能的な構造を考え、独自の美学でデザインを進めていきます。私も写真を撮るときは、「場を借りる」という意識を持ち、その場その場に添うように作品を制作してきました。めぐり合った被写体に「撮らせる力」を感じたときにシャッターを切る。もちろん、そこに自分の美学も写し込み、被写体そのものではなく、その場の説明だけで終わらない作品に仕上げる。そうした方法論と彼の設計に対する考え方に通じるものを感じ、この撮影をはじめました。

ただ、今回の撮影では、これまでとは違う方法論で撮影をしました。それは、初めから撮るものが決まっていたためです。これまでは、被写体との出合いを求めてあてもなく車で探しまわり、撮るものが決まったら大型カメラで撮影し、すぐにその場を去るスタイルでした。けれど、今回は同じ橋に何度も通い、あらゆる角度から撮影し、後で作品をセレクトしたのです。そして、そのスタイルに適していたのが、デジタルカメラでの撮影でした。

今回の作品は、デジタルカメラの特性である機動性を生かした撮影により、自由度が増し、今までとは少し異なる作品になっていると思います。しかし、自分の好きな構図など、それまでと変わらぬ部分もあります。被写体の中にある構造的な美しさに着目している点もその一つです。「美しさ」には、さまざまな概念があると思いますが、私は、「美」がなければ芸術とは呼べないと考えています。たとえ無機質なものでも、そこに「美」を見つけ、写真に写し込む。そして、その「美学」が自分のオリジナリティーとなり、被写体の個を超えた、次元の異なる世界を生み出せると信じています。

“IKKO”という名で世界に知られる、奈良原一高。戦後に登場した新世代写真家の旗手として、その評価は国内外を問わず高い。今回は、写真展『奈良原一高 華麗なる闇 漆黒の時間』の中から、その一部を紹介する。「写真は未来から突然にやって来る。僕の場合は、いつもそうだった。僕は空中にひょいと手を伸ばしてつかみとる……すると写真がひとりでに僕の手の中で姿を現わす」。写真家、奈良原一高は、「はじめて街を歩いた頃」(1995年)という文章の中でこう書き綴っている。早稲田大学大学院に在学中、開催した個展『人間の土地』(1956年)で彗星のごとくデビュー。その後、発表した作品はしなやかな眼差しとその精緻な表現力で、日本はもとより海外でも高い評価を獲得してきました。


今回の写真展は、写真集『ヴェネツィアの夜』、『光の回廊−サンマルコ』、『ジャパネスク』から選ばれた作品を『奈良原一高 華麗なる闇 漆黒の時間』というタイトルのもと、モノクロームで構成、展示するものです。
奈良原が初めてヴェネツィアを訪れたのは、1965年。パリを拠点にヨーロッパで活動していたときのこと。イタリア北東部のこの街に到着したのは、陽が沈み、街が漆黒の闇に包まれた時間でした。その日の印象を彼はこう記しています。
「はじめに闇があった。そして、その闇の時間の彼方から、街は不意に立ち現れた」。運河を行く船のヘッドライトに照らされ、突然、水の上に出現した神秘的な街並みに衝撃を受けた奈良原は、その後、パリを離れニューヨークに滞在しているときも、日本に帰国した後も、度々足を運び、撮影を続けます。なぜ、それほど惹き付けられるのか。彼はこう記しています。「昼でもなく夜でもない生き生きとした奇妙な明るさがその冥府のような闇の中にはあった」。運河を行く船の光跡。夜空を切り裂く稲妻の光。輝く闇の中に見つけた、現実と虚構。ヴェネツィアの闇に息づく生きる歓びと死の甘美な気配を、写真家は10年以上の歳月をかけて、3冊の写真集に仕上げていきます。

1965年、約3年のヨーロッパ滞在の後、ニューヨークを経て帰国した奈良原は、カメラ誌の依頼で日本の伝統文化を撮ることになります。

奈良原 一高 華麗なる闇 漆黒の時間(とき)
「日本というものは僕にとって、容易に接近出来ないものであった。それはまるで鏡の中に映った自分の姿に決して触れることが出来ない理に似ている」。後にこう綴るように、奈良原にとって日本は近くて遠い国でしたが、彼は『ジャパネスク』というテーマを見つけます。それは、「能」、「刀」、「禅」などの日本の伝統文化を、ヨーロッパの文化や風土で暮らし、帰ってきた奈良原の視点で表現するもので、今様の日本をイメージのままに写し撮ることに主眼が置かれました。

例えば「能」の場合。目的としたのは、いわゆる能の舞台写真ではなく、奈良原がイメージした「能」を撮ること。能楽師、観世寿夫とともに、実際にはないセッティングで、能の動きが生みだす「ずれてゆく時間のすき間」表現。また「刀」では、日本刀に潜む武家社会の不条理、「陰湿でストイックなエロチシズム」を精緻な目で見いだし、静と動の世界に昇華させています。さらに「禅」では、曹洞宗の大本山である鶴見總持寺での厳しい修行の様子を泊まり込みで撮影。座禅などは、通常の場所とは違う場所を選び、シンボリックな表現を試みています。
そして、この『ジャパネスク』で着目すべきことは、ハイコントラスト、長時間露光、ソラリゼーションなどの特殊な撮影技法。シリーズの展開に合わせ奈良原が感じてイメージした世界が、それぞれの手法でしっかり構築、表現されていることです。
今回の写真展は、ヨーロッパと日本という二つの題材をモノクロームの世界で表現し、東西それぞれ異質な「黒」に対する奈良原の美意識を対比させて展示しています。時代が変わっても輝きを失わない、写真家、奈良原一高の世界を、ぜひ、ご覧ください。

参考HP

参考ホームページ集

 

イルフォード

http://www.ilford.co.jp

 

自分たちのインタビュー記事

http://ganref.jp/common/special/epson1607/

 

本田勝彦氏レビュー

https://ganref.jp/m/katsuhiko_honda/reviews_and_diaries/diary/9565

 

CP+

http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/event/1035023.html

 

お苗場

http://www.onaeba.com

 

zooms

http://www.cpplus.jp/zoomsjapan/

 

エプサイト

http://www.epson.jp/katsuyou/photo/taiken/epsite/event/gallery2/17/

 

西新宿

https://sagarcia.jp/area/tokyo/shinjyukuku/100024/column/nishi-shinjyuku_history

https://ja.wikipedia.org/wiki/西新宿

 

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